座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

お帰りなさい

2013年11月15日 18時04分36秒 | その他

今日はひとりでしたか、貴女のため

http://www.youtube.com/watch?v=DPYJ45ExNbw&feature=player_detailpage

一杯

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆神よ。

2013年11月15日 16時12分24秒 | 聖書

私たちのためになされた事を堅くしてください。     (詩篇六八・二八英訳)

神が私たちの内になされたわざを堅くしてくださるように、絶えず嘆願することは、私たちに必要であり、またそれは私たちの知恵の現れでもある。これを怠るために、多くのキリスト者は、不信仰から生ずる試練と霊の苦しみに悩んで、自らを非難する。サタンが、麗しい心の花園に洪水を送って荒廃させようとねらうことは事実である。しかし、多くのキリスト者が水門を開き、力強い助け主に祈るのを怠って、不注意にも恐ろしい洪水を招くことも事実である。
しばしば私たちは、信仰の創始者がまたその維持者であることを忘れる。神殿の内に燃える灯火は、絶対に消すことを許されなかった。しかしそのために、毎日新鮮な油の補給を要した。同様に私たちの信仰も、神ご自身から与えられる恵みの油に支えられてのみ、維持できるのである。もし灯火に必要なものを得ないならば、私たちは愚かな娘であることを自ら証明することになろう。この世界を造られた方が支えてくださるのでなければ、それは一大音響とともに崩れ去る。同様に、私たちをキリスト者とされた方が、ご自身の御霊によって支えてくださらなければ、私たちは速やかに決定的に滅亡する。だから私たちは、夕ごとに主のみもとに行き、必要な恵みと力とを求めようではないか。私たちが「堅くしてください」と主に求めているものは、主ご自身の恵みのわざ、すなわち「私たちのためになされた事」だからである。
神がそのご自身のわざを、支え守ることに失敗すると思うか。ただあなたの信仰を、主の御力に堅くすがらせよ。そうするならば、地獄の首領に率いられたあらゆる暗黒の勢力も、あなたの喜びと平安とを曇らせることはできない。強くなり得る時に、なぜくじけてしまうのか。勝利者となり得る時に、なぜ敗北を招くのか。ああ、あなたのその動揺する信仰と、うなだれた徳とが補強され活気づけられるために、それを主のみもとに携えていけ。そして、「神よ。私たちのためになされた事を堅くしてください」と切に祈れ。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆一人の人によって

2013年11月15日 09時24分05秒 | 聖書

国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。
しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、
それは長く安定する。        (箴言二八2)

昔ユダヤの国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分かれていました。自分の野心のために動く指導者が次々と現れた北のイスラエルでは、次々と暴動・クーデター・革命が起こり、二世紀の間に九回も王朝が替わりました。ユダ王国は、まがりなりにも、ダビデの子孫が神を恐れて国を治めたので、三世紀半続きました。
どんなに多くの指導者や権力者がいても、自分の欲望の満足に明け暮れするのでは、国は滅びます。しかし、たった一人の正しい人――つまり、神を恐れ民を愛する、私心のない一人の指導者が国を救います。
ソドムとゴモラの町では、人々が勝手に振舞い、罪の欲望のままに暮らしていました。神がその町々を滅ぼそうとされた時、アブラハムはソドムの町に住むロトを助けようとして夢中で神に祈ったことが、創世記一八章に記されています。「神さま、あのソドムにも五十人の神を恐れる正しい人がいたら助けてくださいますか。」「助ける」と神は答えられました。「四十五人では助けてくださいますか。」「助ける。」「四十人では……。」「助ける。」「三十人では……。」「助ける。」「二十人では……。」「助ける。」「しつっこいようですが、十人では……。」「助ける。」この神とアブラハムの問答を読む時、神のみ前に、そのたった一人がどんなに大切かを知らされます。
イエス・キリストは、神と罪の世の間にたった一人立ち、その十字架によって世を救われました。そして、家庭の中で、職場で、たった一人の神を恐れる人・私心のない愛し祈る人を、どんなに神が求めていらっしゃることか知れません。その一人がどんなに大切な役割をするかを、ひしひしと覚えます。あなたは、「分別と知識のある」つまり、神を恐れるその一人でしょうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆主の割り当て分はご自分の民である……。

2013年11月15日 09時23分08秒 | 聖書

(申命三二・九)

彼らはなぜ神のものであるのか。神ご自身の主権に基づく選択によってである。神は彼らを選び、その愛を彼らの上に注がれる。神は彼らの中に何か良いものがあるかどうか、また、将来どうなるかなどにはかかわりなく、このようになさる。神はあわれもうとする者の上にあわれみを注ぎ、選ばれた人々を永遠のいのちに定められる。こうして、彼らは神の自由な選択によって神のものとなった。
彼らは選択によってだけでなく、買い取られることによっても神のものとなった。神は彼らを買われ、最後の一円までも支払われた。彼らは金や銀のような朽ちるものによらず、主イエス・キリストの尊い血によって完全に贖われた。神の財産の上には抵当権は設定されていないから、債権者たちによって訴訟が起こされることはない。代価は公然と支払われたのだから、教会は永遠に主の所有である。すべての選ばれた者の上にある血の跡を見よ。人の目には見えないが、キリストはそれを知っておられる。主は、ご自身がいのちを投げ出して救われた羊たちの数を数え、ご自身をお与えになった教会をよく記憶しておられるのである。
彼らは征服されることによって神のものとなった。主はどれほど長く私たちの心を包囲攻撃されたことか。どれほどしばしば、主は開城せよと勧告なさったことであろう。しかし私たちは主に対して門戸を閉ざし、垣をめぐらした。主が奇襲によって、私たちの心を陥れられたあの輝かしい瞬間を記憶しているだろうか。あの時主は、城壁に十字架をかけ、私たちの壁をよじのぼって、私たちの本陣に、主の血に染まった全能なるあわれみの御旗を打ち立てられたのではないか。しかり、まことに私たちは主の全能の愛によって征服された捕われ人である。
このように私たちが選ばれ、買われ、征服されて神のものとなった以上、神の私たちに対する所有権は、何ものにも譲渡されることのないものである。私たちは自分が決して自分自身のものでないことを喜び、日々主のみこころを行って、神の栄光を現したい。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

士師記9章16-21節

2013年11月15日 09時21分35秒 | 聖書

9:21 ヨタムは逃げ去った。彼は逃げてベエルに行き、兄弟アビメレクを避けてそこに住んだ。


ヨタムは最後に生まれた人です。

一番若い人でした。

ですから、アビメレクを支援するシケムの人に、彼のことを悪く言うのは怖いことでした。

しかし彼は勇気を出して、あなた方は本当に父ギデオンの厚意に報いてこのようなことをしたのかと問いました。

アビメレクは自分たちの兄弟を皆殺害してしまった人物であって、そのような非道な者を王とすることを、誠実な心を持って行ったのかと問うたのです。

そして、もしそのような思いで行ったのであれば、アビメレクのために喜ぶが良かろう。

しかしそうでなければ、アビメレクから火が出て、あなた方を焼き尽くすこととなろうと告げたのです。

彼は多勢に無勢という現実にあったので、山のでこのことを語った後、直ぐ逃げて隠れました。

しかし彼は、勇気を持って正しいことを告げたのでした。

私たちも時に、不正なことを行っているのを見ても、その人が影響力がある人だと知ると黙ってしまうことがあります。

ヨタムは、そうした人ではありませんでした。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨハネによる福音書9章39節(アモス書3章)

2013年11月15日 09時19分14秒 | 聖書

★  そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

■O:今日のコラム

神の国の原則は「先の者があとになり、あとの者が先になる。」また「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。」

さらに「見えない者が見えるようになり、見える者が盲目になる。」という様にこの世の原則とは逆の性質を持っています。主の心を理解する為には絶えずへりくだった心を持たなければなりません。自分は十分に知っている。自分こそ知者だと思う時、私達は本当に知らなければならないものを見失う事となるのです。

パリサイ人や律法学者は熱心に聖書を調べ、それを守り行う為にあらゆる規則を作り生きていましたが、いつの間にか自分達の宗教的な行為を誇りとし、人間的な基準の聖さに慢心するようになって行きました。その結果、彼らが待ち望んでいた救い主、御言葉が示す中心であられる主イエスが目の前に現れたにも関わらず彼らはそれを見いだす事が出来なかったのです。

これは終わりの時代に生きる私達にとって重要な教訓です。私達がどれだけ宗教的な行為を守り行なっているか? また終末に起こる出来事を知り、再臨の時期を意識しているか?という事が重要なのではなく、へりくだりを持って主を求め、御言葉に聞き従い、日々主との親密な関係に生きる事こそが、目を覚まして主を待ち望む聖徒達に必要な姿勢です。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ書57章15節)。

水が高い場所から低い場所へ流れ込むように、へりくだった者の内に主の恵みは日々新しく注がれる事となります。

■A:考えてみよう

「自分は知っている」という思いを捨てて、へりくだりの心をもって御言葉を読みましょう。すると今まで何度も読んだ聖書の箇所からも新しい啓示と知恵が私達に開かれて行きます。

■P:祈り

主よ。私はあなたの御前に出て、もっと主を知りたいという願いを持ってあなたを追い求め続けます。今日も新たに御言葉の啓示を与え、主の心を教えて下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする