座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆もし神が光の中におられるように、

2013年08月31日 16時26分48秒 | 聖書

私たちも光の中を歩んでいるなら……。(Ⅰヨハネ一・七)

私たちはこのような水準に達し得るのだろうか。私たちが「私たちの父」と呼ぶ神に関して、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と記されている。私たちは、この神のように、はっきりと光の中を歩むことができるだろうか。たしかにこれは、私たちの前に置かれた模範である。救い主ご自身がこのように言われたからである。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」私たちは、神の完全にとうてい及ぶことはできないと感じるかもしれない。しかし、それを追求すべきであり、その標準に達するまでは決して満足してはならない。まだ若い芸術家が鉛筆を手にする時、ラファエロやミケランジェロに匹敵することを望めない。しかし、心に高貴な理想をもたないならば、平凡な画家で終わるだろう。
神が光の中におられるように、クリスチャンも光の中を歩めというみことばは、程度ではなく、類似を意味するものと思う。私たちは真に、また心から、正直に光の中にあるが、神と同じ程度に光の中にいることはできない。私は太陽に住むことはできない。それは私の住まいとしては明るすぎる。しかし、私は日光の中を歩くことはできる。そのように私は、本質的に無限に善であられる万軍の主に属している完全な純潔とまことには達し得ないが、主を常に私の目の前に見て、内に住んでくださる聖霊の助けによって、その御姿に似るように努力することはできる。
有名な聖書注解者ジョン・トラップは言った。「私たちは質(クォリティ)において、神が光の中におられるように光の中にいるかもしれない。しかし、神と同程度(イクォリティ)にいるのではない」と。
私たちは神と同じ光をもち、神がその中を歩かれるようにその中を歩くべきである。しかし、聖潔と純粋とにおいて神と程度を同じくすることは、私たちがヨルダンを渡り、いと高き方の完全に入るまで残されなければならない。聖なる交わりと完全な聖めは、光の中を歩くことと結ばれていることを心に留めよ。

 


ヨシュア記19章10-16節

2013年08月31日 10時50分48秒 | 聖書

19:10 第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、
19:11 その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。


残された7つの部族のうち、3番目に決められたのは、ゼブルンの部族であったと語られています。

ここでは、諸氏族と語られています。

その部族を形成するところの多くの氏族がいましたので、その氏族の人々に割り当てられた地であると言っているのです。

 ゼブルンの地とは、イエス様がご誕生された時に、「光が上った」地と言われています。

「ゼブルンの地、ナフタリの地…異邦人のガリラヤに…光が上った。」と言われている地のことです。

この地はガリラヤ地方の南部にある所で、大変肥沃な地でした。

しかしそこは小さい地域であって、当時は開墾の進んでいない所でした。

しかし、その働きは知られています。

彼らは良くダビデ王に仕えました。

また予言者のヨナは、この地の出身です。

また、イエス様が若い時に過ごされたナザレの村は、この地にありました。



◆善  意  の  人

2013年08月31日 10時47分19秒 | 聖書

善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)

さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。

 


◆わたしの腕に拠り頼む。

2013年08月31日 10時46分26秒 | 聖書

(イザヤ五一・五)

激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。

 


ルカによる福音書24章31-32節(箴言24章)

2013年08月31日 10時43分44秒 | 聖書

★  それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。?そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

■O:今日のコラム

イエス様が十字架に架けられた後、エルサレムから徒歩3時間弱くらいのところにあるエマオという村に向かって、二人の弟子が歩いていました。すると、そこにイエス様が近づいて来て、一緒に道を歩き、そのうち、「何の話しをしているんですか」と話しかけて来られました。

この箇所を読むたびに、ほんとうに、イエス様って面白いなぁと思います。人が悪いというか...。

でも、実は、私たちが、何かを悩んだり、心配して、友達などに相談したりしている時にも、「何やら熱心にお話のようですね。いったい何が、そんなに問題なのですか。」(リビングバイブル訳)って、聞いておられるのかなと思います。

イエス様を信じてイエス様につながっているなら、イエス様はいつも一緒にいてくださるのですが、私たちの目が開かれて、そのことに気づくことが大切です。

イエス様が一緒にいてくださるなら、悩みや心配はなくなって安心します。

さらにイエス様は、私たちが聖書を正しく悟ることが出来るように、心を開いて下さいます。(同45節)

それにしても、3時間も、イエス様ともう一人の友人と三人だけで一緒に話しながら歩けるなんて、なんていいんでしょう!

霊の目が開かれて、イエス様が一緒にいて下さることが悟れるように、祈り求めて行きましょう。

目が開かれることを励ます御言葉を載せてみます。

パウロがエペソの教会のために祈った祈りもこれでした。

エペソ人への手紙1章17-19節

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。?

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、?また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

こちらは主御自身がラオデキヤの教会に語られたチャレンジ。救いは無料、ただ、ですが、火で精錬された金、白い衣、目に塗る目薬は、買わなければなりません。私たちの祈りを、心を、時間を主に捧げて、目が見えることを求めて行きましょう。

黙示録3章18節

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。?

■A:考えてみよう

神様がどのようなお方か、自分が今どのような状態か、世界がどのような状態か、正しく悟って、主の御心を見極め、主の喜ばれることを実行していけるように、霊の目が開かれるよう、祈っていきましょう。

問題や悩みがある時も、解決そのものである、イエス様がともにおられることを悟れるように、祈り求めましょう。

■P:祈り

主よ、私の心の目を開いてください。心を清めてください。神様を見ることができますように。神様がどんなに偉大な素晴らしい方か、もっと知ることができますように。

自分がだれなのか、どんなに素晴らしいものをいただいているのか、私たちを通して神様が表してくださる力がどれほどすごいものなのか、もっともっと知ることができますように。

また自分の状態を正しく悟り、御心にそって悔い改め、さらに神様に喜ばれる者となっていけますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン