座間コミニティー

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申命記22章25-27節

2013年03月15日 07時42分03秒 | 聖書

22:25 「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。」


先に、姦淫の罪は死刑であるということを語っていました。

ところで、結婚やあるいは婚約相手の人と違った人から暴行を受ける、ということもあります。

この場合にはどうなるのかということです。

 本来イスラエルにおいては、婚約をしているというのは結婚と同じ意味を持っていました。

従って婚約中であっても、他の人と不品行をした時には、姦淫の罪に問われて死刑となりました。

しかし同じ婚約中でも、見も知らぬ人から暴行によって汚されてしまった時には、どうなるかと言いますと、その男性は死刑とされますが、女性は無罪であるというのです。

それは彼女には抵抗する手段がありませんし、また人に助けを求めても助けてくれる人がいないという事情によるからです。

また、彼女は何も悪いことはしていないからです。

女性の弱さを認識して、その人々を助ける、そうした思いがこの戒めには語られています。



◆神の計画とイエス

2013年03月15日 07時36分29秒 | 聖書

山が立てられる前に、丘より先に、
わたしはすでに生まれていた。
神がまだ地も野原も、
この世の最初のちりも造られなかったときに。
神が天を堅く立て、
深淵の面に円を描かれたとき、
わたしはそこにいた。      (箴言八25―27)

「わたしはそこにいた。」これは実にイエス・キリストのことばなのです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ二八20)。そうです。世の初めから終わりまで、イエスはそこにおられます。
ある年の夏に、バケツをひっくりかえすような激しい雨が降った時、小学校三年生の娘のルツが「お父さん。ノアの時の雨のよう。こんな雨が四十日続けば世界は滅んじゃうわね」と言いました。そうです。神の造られた大自然の前に立つ時、私たちの小ささ・弱さ・無力さを感じます。
もし、この世が運命とか機械的な法則だけで動いているとしたら、私たち人間などは、その運命の歯車の間で無残に、またいとも簡単に押しつぶされてしまうでしょう。事実、そのように運命を感じつつあきらめている人もおられませんか。
しかし、違うのです。運命がこの世を支配しているのではありません。血も涙もない規則が動かしているのではないのです。「わたしはそこにいた」=神の愛と知恵、イエス・キリストがそこにおられました。神の愛と知恵がこの世を治めています。運命に祈っても、手ごたえがあるはずがありません。愛と知恵の神は、祈りに答えてくださる方なのです。
まるで、人生は真っ暗な森の中を歩くようで、独りでおどおどして生きている人もいらっしゃいましょう。違うのです。実は、世界も自然もあなたを愛で取り囲んでいるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ八28)。

 


◆わが子よ。

2013年03月15日 07時34分17秒 | 聖書

キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(Ⅱテモテ二・一)

キリストは無限の恵みをもたれるが、それを出し惜しみされない。貯水池の水が鉄管の中に流れ入るように、キリストは恵みをその民の中に注ぎ込まれる。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
主は私たちに分け与えるために恵みをもっておられるように思われる。主は泉のように、絶えず恵みを注ぎ出しておられるが、そこへ行って、からの水入れと渇いたくちびるを差し出す者だけが満たされるのである。樹木が実を結ぶのは、単に実を枝に飾っておくためではなく、必要とする人に与えるためである。キリストの結ばれる実もそれと同様である。その働きが罪を赦すことであっても、きよめること、保つこと、強めることであっても、また啓蒙であっても、力づけたり回復させたりすることであっても、恵みはすべて主から自由に、価なくして与えられる。どのような恵みであっても、主がその民に与えられないものはない。
血液は心臓から流れ出るが、それは手足のものであるように、恵みの感化は、小羊に結ばれたすべての聖徒の財産である。キリストと教会の美しい交わりは、ここにあって、どれも同じ恵みを受けるのである。キリストは、その上に油の注がれる頭のようなものであるが、同じ油は衣のすそに伝わるように、最も卑しい聖徒といえども、頭から流れ落ちる高価な油を等しく受けるのである。恵みの樹液は幹から枝に流れ、また幹自体も枝を養う液によって養われているというのが真の交わりである。私たちが日ごとにキリストから恵みを受け、それがキリストから来るものであると確認するにしたがい、交わりの中に主をながめ、交わりの祝福を喜ぶようになる。
私たちの富を日ごとに用いるため、約束の主であるイエスのもとに行き、自分の財布から金を取り出すように、大胆にすべての必要を主から受けようではないか。