座間コミニティー

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◇【すべての原発いますぐなくそう ! in 相模原デモ&集会】

2013年03月10日 12時03分38秒 | 予定・告知

 「原発再稼動反対」「汚染瓦礫受け入れ反対」
「福島の子供たちを放射能から守ろう」を主題に相模原でデモと集会を行います。

 日時:3月10日(土)13時から

 場所:小田急線相模大野駅前・ペデストリアン・デッキ集合

 リレートーク → 【14時デモ出発】(約30分コース)
 14時45分から16時15分頃まで約1時間30分間の予定で【集会】を行います。
 場所:大野南公民館 
          

 飛び入り歓迎 ! 途中参加、途中抜けOK。
 10日は思いの丈を叫びに来ませんか、静かに語りたい方も、もちろんOKです。
 鳴り物、プラカードもご自由にお持ち下さい。
 皆様のご参加をお待ちしております。

 主催: 国際婦人デー実行委員会
 TEL : 090-4955-6979


ならぬものはならぬ

2013年03月10日 11時48分59秒 | 予定・告知

国際婦人デー・相模原

ならぬものはならぬ、原発・改憲・増税・失業・生保切り下げ・阿部政権打倒

3月30日(土)相模大野駅デッキにて13:00~

          リレートーク

          14:30~  デモ行進

     仮想・鳴り物・プラカードご自由に参加してください。

  

    実行委員会 3・8相模原国際婦人でー


申命記22章9-11節

2013年03月10日 11時30分07秒 | 聖書

22:9 「ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。」


ぶどう畑を作る時のことが語られています。

その時に、2種類の種をそこに蒔いてはならないと命じています。

2種類の種というのは、違ったブドウの種ということではありません。

ブドウとは違う作物を、ということです。

当時はブドウ畑を作る時には、ブドウの木と木の間に、一定の間隔を置いて作りました。

そうしないと日陰ができて、ブドウの木が育たないためです。

ここで命じていることは、その空いている間隔の所に、もっと別の作物を植えて、収穫の種類を多くしようとすることを禁じているのです。

ここで禁じていることの趣旨は、混合ということにあります。

宗教的な意味で、誠の神と共に、偶像も神として同時に祭るということがいくらでもあります。

そうしたあり方を、日常の生活の面でも徹底的に否定するように求めているのです。

民が、こうした混合というあり方に陥らないために与えられた、指示と配慮なのです。


◆高ぶりは主に憎まれる

2013年03月10日 11時19分27秒 | 聖書

主を恐れることは悪を憎むことである。
わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、
ねじれたことばを憎む。        (箴言八13)

ここにも、神のおきらいになるもののリストが出ています。高ぶり・おごり・悪の道・ねじれたことばです。きょうは、高ぶりについて考えてみましょう。
ある会社の係長さんは仕事熱心で働き者、よく気がつき部下の面倒見もいいのですが、もう一つぱっとしないのです。みんながその係長さんのそばに寄っていかず、親しもうとしません。係長さんがあれこれいいアイデアを出しても、そっぽを向いて、いつの間にかほうむってしまいます。どうしてでしょうか。どうも、その係長さんの心の底に高ぶりがあるためのようです。
高ぶり・高慢は、じわりじわりと人間関係を壊し、人生に孤独とつまずきをもたらすものです。いったいこの高ぶりの本質は何なのでしょう。
それは、一人一人の魂や人格の値打ちが分からず、人をその外見上の実力とか能力でしか見ないことが原因ではないでしょうか。人の心の底にある尊いものを見ようとせず、評価しようとしません。人を軽く見てしまい、あいつはあれぐらいと分かったつもりになってしまいます。ここからにじみ出てくるものが高ぶりではないかと思うのです。
高ぶりは自分の知恵・自分の物差し・自分の直感をふりまわして、最後に心の底で「神なんかいない」と判断をくだします。これがどんなに不幸なことであるかは、人生の終点にまで来ないと、あるいは分からないのかもしれません。人間の不幸の底にあるこの軽はずみな判断や無意識的な読みこみは、全く恐ろしいと思います。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言一六18)と、聖書は語ります。

 


◆私が栄えたときに、私はこう言った。

2013年03月10日 11時17分38秒 | 聖書

「私は決してゆるがされない。」(詩篇三〇・六)

「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。」
仮にある人に富を与えたとする。彼の船によって絶えず高価な品物を家に運ばせ、風と波に海を越えて船を進めるための召使とならせ、地に産物を豊かに生ぜしめ、気候をもそのために従わせよ。その計画をことごとく成功させ、人々の間に成功した商人として立たせよ。また、彼を常に健康にし、世より一歩先んずる眼識と集中力を有する幸運な人として幸福に生活させ、絶えず気楽に鼻歌を歌わせ、常に目に喜びの光を輝かしめよ。その結果、この人を安楽な状態に置き、しかも、地上に生きた中で最もすばらしいクリスチャンとせよ。――こういうことは単なる仮定にすぎない。ダビデは「私は決してゆるがされない」と言ったが、私たちはダビデにまさるものでなく、その半ばにも及ばない。
主にある友よ。平たんな道を歩んでいる時には警戒し、険しい道を歩んでいるならば神に感謝せよ。もし神が私たちを常に繁栄の揺りかごにはぐくみ、幸運のひざであやし、そのために高級な白い石膏の柱には一点のしみもなく、空には一片の雲もなく、人生の辛酸をなめることもしないならば、私たちは「このように立っている」と世の歓楽にふけるだろう。しかし私たちは断崖に立っている。マストの上で眠っている人間のように、いつ墜落するかわからない。
私たちは患難に会う時、神を賛美する。人生の変化を神に感謝する。財産を失ったことに対して神の御名をあがめる。もし神が私たちを懲らしめられないならば、たちまち私たちは有頂天になるからである。世間的に栄えることは、恐るべき試みである。
 患難は時には苛酷に見えるかもしれない
 しかし、それはあわれみによって
 与えられたものだ