座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

レビ記22章17-25節

2012年07月15日 09時52分19秒 | 聖書

22:19 「あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。」
  ここでは、民が献げる捧げ物のことについて語っています。
その捧げ物には、全焼の生け贄や、誓願のための捧げ物などのことが語られています。
このような捧げ物をする時には、その献げるものは傷のない完全なものでなければならない、と命じられています。
捧げ物は、牛と羊、あるいは山羊というように語られていますが、動物を献げることが言われています。
これは、献げる人の代わりとなる犠牲として、献げるからです。
その命が、身代わりとして捧げられたのです。
そこで献げられる動物は、傷のない完全なものであれ、と言われるのです。
そうでなければ、主がそれを受け取らないからだ、と言われています。
主は完全な方ですので、完全なものしかお受け取りにならないからです。
  私たちが今、神様に受け入れられているのは、神の前で完全な犠牲であられるイエス様が、身代わりになって死んでくださったからで、その贖いの恵みに寄って、神の前に完全な、聖い者とされたからです。


◆主は堅固なやぐら

2012年07月15日 09時45分58秒 | 聖書

主の名は堅固なやぐら。
正しい者はその中に走って行って安全である。
富む者の財産はその堅固な城。
自分ではそそり立つ城壁のように思っている。(箴言一八10―11)

「財産家は、自分の財産をそそり立つ安全な城のように思っているが、人間にとって、ほんとうの安全な城・やぐらは神ご自身である」ということです。
私の息子は大学生のころも、まだ開いたばかりの小さな教会で、聖書の話をさせてもらったり新しい人たちの友人になったりして、彼なりに一生懸命やってきました。親の経済力を思ってか、奨学金とアルバイトでやり抜いた、ほんとうに忙しい生活でした。その教会に招かれて、聖書の話をした時、息子は一番前の席に陣取って、真剣に話を聞いてくれました。
彼の顔を見ているうちに、私の思いはいっぱいになりました。「息子よ。私は、お前にハンサムな顔立ちを伝えてやれなかった。息子よ。お前に研ぎすまされた頭脳力も、すばらしい芸術家の手も目も耳も、遺伝してやれなかった。息子よ。お前に、それこそ何の財産もゆずってやれない。しかし息子よ。お前が神をがっちり信頼し続けてくれるなら、お前は最高のものを持っている。お前は安全だ。……」
箴言の記者は言いました。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな」(箴言三6―7)。詩篇の詩人は歌いました。「私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」(詩篇六二7)。またパウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ八31)と語っています。罪をふりきり、主を認め、主によりたのみ、主の前に心を注ぎ出し、主の中に走りこむ者は、永遠に安全なのです。

 


◆火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。

2012年07月15日 09時44分50秒 | 聖書

消してはならない。(レビ六・一三)

個人の祈りの祭壇の上に絶えず火を燃やせ。これは信仰のいのちである。教会の祭壇も家庭の祭壇もここからその火種を取るのだから、この火をよく燃やさなければならない。密室の祈りは生ける実践的な信仰の真髄であり、証拠であり、バロメーターである。あなたの犠牲の脂肪をここで燃やせ。あなたの密室の祈りをできる限り規則正しくし、外部からじゃまされない頻繁な祈りとせよ。熱心な祈りには大きな力がある。あなたは祈る課題がないと言うのか。主のからだなる教会、伝道、あなた自身の義、あなたの子どもたち、親戚、隣人、国家、全世界にわたる神のみわざ、真理の道について祈っていただきたい。
この重要な問題について、自分自身を調べてみようではないか。私たちは、密室の祈りにおいて生ぬるくはないか。戦車の車輪が重くなってはいないか。もしそうなら、その衰退の兆候を見逃してはならない。私たちは涙を流して、恵みと祈りの霊が与えられるように求めようではないか。特別の祈りのために特別の期間を定めようではないか。なぜなら、もしこの火がこの世との妥協の灰の下にくすぶっているならば、それは家庭の祭壇の炎をけぶらせ、教会と社会に対する私たちの感化力を減じてしまうからである。
この聖句はまた、心の祭壇に適用できる。実に黄金の祭壇である。神は、その民の心がご自身に対して激しく燃えているのを見ることを好まれる。神の御前に愛に燃える心をささげ、その火が決して消えないように神の恵みを求めようではないか。主が燃やし続けられるのでなければ、自らの力で燃え続けるのは不可能だからである。多くの敵はそれを消そうとする。しかし、もし見えない御手が壁の向こう側から聖なる油を注ぐならば、それは高く高く燃え上がるのである。
聖句をもって私たちの心の火を燃やす燃料としようではないか。それは燃えている炭である。説教にも耳を傾けよう。しかし、とりわけ、イエスと共にいるために多くの時間をとろうではないか。