(11)
" We'll hold Ging-ko Matsuri on next Saturday. Are you free on that day? " (土曜日にギンコ祭りをするのだけど、あなたはひま?)とバイテル夫人から電話がかかってきた。
「ギンコ・マツリ」とは、一体なんだ?
" What's the ging-ko about ? " (ギンコって何?)
" Oh! You don't know ? It's a tree, perhaps you see it in Japan. " (知らないの?木のことだけど、日本にあると思うけど )
「ペンステイト」(Penn State:ペンシルバニア州立大学)には、当時日本人はほとんどいなくて、トシが知る限り、神戸大学、東北大学、それに京都大学から来た人たちがいたきりだった。皆さんが家族連れで来ていて、大学の宿舎に住んでいた。
僅かだが、ペンスステイトには、日本に関心を持つアメリカ人たちがいた。
日本や日本文化に関心を持つ人たちで、その中には、「禅と陶芸」(Zen and the Art of Pottery)というような専門書を著し、全米的に知られたバイテル教授のような人もいた。
バイテル教授は、日本によく行っていて、日本の高名な陶芸家や棟方志功とも親交があった。特に九州の有田にはかかわりが深いようで、当時の佐賀県知事池田直さんから「名誉県民」の称号を与えられた。
ビジネスで東京に住んでいた人、日本の大学に招かれ教えていた人などもいて、これらの人たちは、所謂知日家というか親日家の人たちで、ペンステイトの中に小さなグループ「ジャパンソサイエティ」(Japan Society)というのを作って、お互い交流していた。
手作りの情報誌を作って、お互いの近況を知らせあうことなどしていたし、時に皆さんで車を連ねてニューヨークに寿司を食べに行くこともあった。
パーティもよくしていて、家族や子供たちまでやってきて楽しんでいた。
パーティには、メンバーの人たちだけが呼ばれるというわけではなく、彼らの友人、知人、家族、子供まで自由にやってくるといった感じだった。
「ギンコ祭り」も彼らの活動の一つのようだった。
ギンコ(ging-ko)というのは、銀杏(イチョウ)の木のことで、アパラチアンの樹海のちょっと奥深いところに、だれかが日本でよく見た銀杏の木があるのを見つけたようだった。
一本だけ空に向かってそびえるように立ち上がったこの木が、何か日本を思い出させるものがあったのだろう。それからこの木の下に集まってパーティをするようになったということだ。
樹海の中の曲がりくねったダートロードを進むと、急に開けた草地が現れた。
公園みたいになっていて、その先には湖があり、はるか遠くにアパラチアンの連山が見えた。
車で行けるのは、この公園まででその先には道がなかった。ベンチがあったり、バーベキュー跡があるのを見ると、時に人々が訪れ、ここでパーティなど開いているのだろうか。
葉っぱが緑に茂るころ、ジャパンソサイエティの人たちが集まり、木の下でパーティをするようになったということである。
トシも、そのギンコパーティに招ばれた。
行ってみると、ペンステイトの先生たち、家族の人たち、子供たち、それに知り合い、友人たちがおよそ30人くらいが集まっていた。
ポトラックパーティ(potluck:持ち寄りパーティ)で、それぞれの人が持ち寄った飲み物、料理、ケーキなどをテーブルに広げて、お喋りしながら、ビールやジュースを飲んだり食べたりしていた。
驚いたことに、何処から来たのか和服姿の日本人女性が来ていて、シートの上にお茶会の用意を始めたのである。
アメリカ人たちも、彼女の周囲に正座して、お茶碗を渡され、静かにたしなむように抹茶を口にしていた。まるで日本で見るお茶会だった。
おそらく茶会は初めての体験ではなく、以前に何度もやっていたのだろう。別に戸惑うこともなく作法をわきまえた様子で、にこやかに会話をしながら茶会はごくスムースに行われていたのである。
バイテル夫人から電話があった時、「ギンコ」ときいて、はて何のことだろうといぶかしく思った。
辞書を引いてみると確かに英語で、Ging-ko というのがあって、日本の銀杏のことだと初めて知った。
銀杏の木は、日本ではなじみの木である。秋になると実った銀杏の実が、あちこちに落ちて散らばっていたのをよく拾いに行ったことがある。