マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" O-sensei,again " ( O先生、つづき )

2013-07-05 20:56:00 | 懐かしい人たち

 

 (4)

 

( トシの美術館 )

 O先生には、リーダーの教科書を習っていたが、教科書以外の副読本も習っていて、そちらのほうが印象的な授業だった。
 トーマス・ハーディ、サマセット・モーム、ジェイン・オースティン、O・ヘンリーなどで、英語を読む楽しみを教えられて、その後大学に入ってからも、自分で洋書を買い求めて、様々な英語の書物に親しむきっかけを作ってくれたように思う。
 授業中よく小テストを行っていて、そんな時生徒たちは、机に向かって前かがみに答案用紙に没頭していたが、先生は、生徒たちの机の間を歩き回りながら、時々答案用紙をのぞき込んでいた。

 コトコトと歩く先生の足音が、トシの机のところで止まる気配がした。
 答案用紙を見ているのかと思ったら、
 「ヤマダ!オマエの顔にひげが生えているぞ!」と先生が言った。
 シーンと静かな教室にこだますような声で、生徒たちが一斉に笑った。
 顔に薄くひげが生えだしているのは知っていた。
 友達が、「一度剃ると、癖になって毎日剃らなくてはいけないようになるぞ!」と言っていたので、面倒くさいからと敢えて剃るのを控えていたのである。

 家に帰って母親にそのことを言うと、次の日に、母は、どこからか貝印の細長い髭剃りを買ってきた。
 朝、顔に石鹸をまぶして、恐る恐る剃ってみた。上から下に向けて剃刀を下げるはずが、斜めに、あるいは横向きに剃ってしまったのか、あちこちの傷ができて、そこから血がにじんできたのである。
 急遽、母親がメンソレータムを持ってきて傷口に塗ってくれた。
 学校に着き教室に入ると、トシの顔の異変に気づいた友達が、「オマエ!傷だらけじゃないか!」とか言って、周りにいたみんなが大笑いした。
 家に帰ると母が女性用のフェイスクリーム「マダムジュジュ」を買ってきてくれていた。男性用化粧品など売っていないころである。

 ある時、放課後に図書館で、国語の女性の先生と話をしていて、O先生の個人的なエピソードを聞いてしまった。
 その頃はまだ戦後の混乱の時期を脱しきっていないころで、日本全体が、何か暗く打ちひしがれていた。
 国民は何事にも自信を持ちえないころだったが、そのような時、みんなを元気にしてくれるような明るい話題があった。
 一つは、湯川秀樹さんが、日本人として初めてノーベル賞をもらったこと、もう一つは、「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進さんが、水泳で立て続けで世界新記録を出していたこと、また一つが、石坂洋二郎さんが、「青い山脈」など、ことさら暗い世相にあって、明るい小説を書き続けていたことである。
 
 石坂洋二郎の描く舞台は、東北の高校だった。
 当時、東京などの大都会では、一人一人が生きていくために、獅子文六の小説の主人公のようにお茶の水で「モク拾い」(たばこの吸い殻)をしながら生きていた。
首相になった鳩山一郎さんでも、屋敷に畑を作って、人糞を肥料に野菜を育てていたのである。
 「蛍雪時代」を発行していた旺文社の赤尾社長も巻頭言の中で、いまどき羽振りのいい若者を見たら「ヤミ屋の息子と思え!」と言っていたの今でも覚えている。
 そのような中で、東北の田舎の高校で、健気に、逞しく、そして明るく生きていく若者たちの青春群像を新聞の連載物として描いていた小説に人々は熱狂したのである。
 「青い山脈」が映画化された時、みんなが映画館に押し寄せた。
 あの懐かしい原節子、池辺良、杉葉子、若山セツコ、小暮実千代などそうそうとした俳優たちが出ていた。

 「O先生は、石坂洋二郎のファンなのよ!」とその女性の国語教師が教えてくれた。
 O先生自身は、あまり個人的なことを授業中に話さなかったので、石坂洋二郎が好きだというのは、初めて知ったのである。興味があったので、もっと詳しいことも訊いてみた。
 
 O先生は、石坂洋二郎と同じように慶応大学を出て高校の先生になりたかったようである。
 石坂洋二郎は、青森県の弘前で育った。
 慶應大学を出て、地元の女学校に奉職した後、秋田県横手の女学校に移って、さらに横手高校で教えた。
 彼が描く世界は、東北のこれらの地方での彼自身の教師としての実体験がもとになっていた。