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日本の英語教育は,「実用英語」、あるいは「役に立つ英語」に向いていない。
「聞く」「話す」読む」「書く」の4技能が、英語教育の目標として標榜されていて、その4つをバランスよく学ぶことが求められている。
しかし、どうしても、「聞く」「話す」が疎かにされてきた。
「聞く」「話す」を授業で、生徒を指導しようにも、肝心の先生に、その指導能力がないのである。
授業では、「英語」を使う訓練というより、理解する能力を養うことに終始してきたのである。
教科書、問題集、参考書などがあって、辞書を使いながら、生徒は、「訳読」に集中する。
先生が予め、次の時間にやる範囲の予習を指示する。家に帰って、予習し授業に臨む。
指示された個所を生徒が、かわるがわる訳して、先生は、間違いの個所を指摘し、訂正し、模範解答を示す。
この過程で、聞いたり、話したりの作業はなのである。
トシの高校時代の英語の授業は、3つに分かれていた。
「リーダー」「文法」「英作文」で、それぞれ異なった先生が担当していたのである。文法を教える先生は文法ばかり、作文を教える先生は作文ばかりと言った専門の先生がいた。
同じ英語である筈なのに、3つ、それぞれが別の言語のようだった。
生徒によっては、文法が得意な者がいて、同じ生徒が、リーダーがまるで出来ないこともあったのである。
実際に英語が、どのような使われ方をしているのかを知る機会がなかった。
当時は、テレビもないし、辛うじてラジオはあったが、アメリカ人が英語をしゃべるのを聞いたのは、大学生になって、ラジオで、" Far East Network " 「ファーイーストネットワーク」を耳にしたのが初めてであった。
唯一英語の窓口と言えるアメリカからやってくる映画をよく見に行った。
出来るだけ字幕を見ないようにして、生の英語を聞きとろうと努力したものである。
高校の時、先生が、教科書を読んで聞かせてくれたが、あれは英語と言える代物ではなかった。
したがって、実際には、後になってから、必要に迫られて、改めて、しかも独学で、話し言葉を勉強することになったのである。
あるミッション系の女子高校の副校長と話したことがある。
新学年になって、クラス編成があり、時間割、担当教師が書かれたスケヂュール表が生徒の渡される。
生徒は、それを家に持ち帰り親に見せる。すると、間もなく、親から学校に電話がかかってきて、娘を担当する英語教師を、アメリカ人、カナダ人の教師ではない日本人の教師のクラスに変えてほしいという要望が、毎年必ず来るということである。
これは、教師に資質の問題でなく、ネイティブの教師に習うと、大学受験に不利で、いい大学に入れないということなのだ。 本来であれば、ネイティブの先生から、本物の英語を学べるのであるから、幸せだと考えるべきなのだが、卒業して行った先輩たちの言い伝えで、外人の先生に習ったクラスは、間違いなく進学率が低いようなのである。
大学受験を目標に、日本人の先生だと、文法、作文、長文読解などを、丁寧に訓練してくれるが、外人教師だと、話し言葉が中心になって、必ずしも指導法が大学受験の対策に向いてないということなのだ。
高校の進学向けの課外授業で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」を、英文に訳せ、というのがあった。
モナだったら、出来るだろうか、とつい考えてしまう。
高校の同じクラスに、アメリカから帰国した3つも年上の、2世のクラスメートがいた。
戦争中アリゾナの収容所に入れられ、戦後、解放されてロスアンジェルスの実家に帰ったものの、知らない人が家を占拠し住んでいたということだ。
当時は、あらゆることが日系人に不利で、住居権を主張され、それが認められて、やむなく日本に帰ってきたと言っていた。
彼は、アメリカで育ったので、英語は、文句なく「出来た」のだが、驚いたことに、一学期の定期考査で不合格になり、夏休みの強制補習に出ることになったのである。
最近の話だが、授業中、アメリカ人のTA ( Teaching Assistant ) が生徒から文法の質問を受けて答えることができず、日本人の先生に訊いてくる、と答えたという話もある。
本来の英語ではない、「日本の英語」があるのだろうか。