沖縄に行ったのは今度が3度目である。しかし前の2度は、ずいぶん昔のことで、那覇の町などすっかり変貌していて、驚いてしまった。
沖縄の街を歩きながら、ハワイで知り合った多くの沖縄出身者のことを思い出していた。
彼らは、この沖縄のどこからやってきたのだろう。ハワイには、沖縄から来た人たちが多い。
100年以上も前、沖縄の貧しく、生活に困窮した人たちが、故郷の町を脱出してハワイに「出稼ぎ」に来た。
サトウキビ畑やバナナ、パインナップル畑で仕事をして、夜には、小遣い稼ぎに洗濯の仕事をしたり、庭にささやかな畑を作り、花を育て売りに行ったり、小銭を貯え、故郷の家族や身内の人たちに送金したのである。
送金は郵便局ではなく地元の役場に送り届けてもらったということである。当初は、あくまで「出稼ぎ」で、いずれは沖縄に帰ってくるつもりだったようである。
事実初めのころは、数年間ハワイで働いた後で、ほとんどの人が、沖縄に帰っていたのである。
そのうちハワイに住み着く人たちもでてきて、それらの2世、3世が、今はハワイにたくさんいる。
名前が沖縄らしいというか、Chinen (知念)、Nakasone(仲宗根)、Miyazato(宮里)、Yara(屋良)、Matayoshi(又吉)、Yonamine(与那嶺)、Taira(平良)、Aragaki(新垣)、Kyan(喜屋武)と言った人たちで、明らかに先祖が沖縄だと思える友達や友人たちがいた。
ハワイを去って日本での生活も落ち着き、再びハワイを訪れた。
どうしても会いたいと思って土産持参で、訪ねて行った人の中に沖縄出身者が2人いた。
一人は仲村さんで、当時はハワイ大学で、リサーチアシスタント(research assistant:研究助手)をしていた。
彼は戦後、まだアメリカの統治下で、無残に荒廃していた沖縄からガリオワ基金で留学して、カリフォーニア大学のバークレーで大学院まで進んだ人である。
仲村さんとどのようにして知り合ったのかは思い出せない。お互いに何か相談事があると大学のコーヒーショップで話し込んだことを覚えている。ときどきは、ランチを一緒に楽しんだ。大学内のあちこちのコーヒーショップだったり、時に彼の車で、ダウンタウンまで行った。
もう一人は、女性で沖縄でアメリカ人の軍人と知り合って、親の反対を退けて結婚した人である。
一緒にアメリカまでやってきたが、結果うまくいかなくて離婚してしまい、親の忠告を無視し、一時の燃え上がった気持ちで結婚したことを後悔していた。
トシなど、彼女のことを「ナオミさん」と呼んでいて、苗字が何だったのか未だに知らないのである。「もう私は沖縄に帰れないのよ」と言っていた。
ナオミさんの家族は、アメリカの軍事基地を転々としていたようで、ハワイに来たのは離婚後で、小学生の男の子と住んでいた。
ときどき放課後に母親が経営するコーヒーショップにやってきて、厨房で従業員たちと英語で話していたが、母親とは日本で話していた。
端正な顔をしていて、ちょっとはにかみ屋で、笑うと可愛いかった。