レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

「到来」と「備え」と「待ち時間」の巻

2021-11-28 00:00:00 | 日記
こんにちは/こんばんは。

9月の25日におこなわれたアルシンキ(国会)議員選挙から、なんと八週間と三日後の先週の火曜日に、ようやく「新規」国会が招集されました。北西選挙区での投票の勘定間違いと投票用紙の管理不行き届きの発覚が、国会招集遅延を招いたのです。

その翌々日の木曜日に、国会審議でその問題に関し一応の決着がつけられました。巷では「国会議員の選出に関するプロブレムに、国会議員が決着をつけるのは茶番ではないのか?」という声も聞かれますが、「たしかにー」ですね。




ホコホコ感アップ用ピック 氷島ではなくハワイ!
Myndin er eftir Xavier_Coiffic@unsplash.com


さて、アドベントに入りました。教会暦の新年です。英語のAdvent、アイスランド語ではAdventa(Dは「ヒゲ」付きのアイスランド語の特有文字)アズベンタといいますが、これらはラテン語のAdventusからきています(と習いました)。

アドベントは普通「待降節」とか「降臨節」とも呼ばれますが、もともとはAdventusは「到来」を意味する言葉です。この時期がアドベントと呼ばれるのは「キリストの到来」を念頭においたからで、そこからその時を「待つ時期」という意味が派生してきたのです。

この時期、教会ではもうひとつ「備える」という言葉がよく聞かれます。もちろん「キリストの到来に備える」という関連でです。

Aduventusという言葉はローマ帝国が栄華を極めた頃、皇帝の「お出まし」にも使われた言葉なのだそうです。ローマ皇帝がどこかの都市を訪問するとなると、まずそのことを触れ廻る伝令が遣わされます。

そして迎える側では、道路の不具合を整備したり、町を掃除したり、それなりの「備え」をして皇帝の「お出まし」を待った、ということです。これはわかりますよね。

現在の日本でも、どこかの地方都市に例えば外国からの国賓や、皇族関係の方が訪問されるとなったら、町をあげて化粧を施し、歓迎のための「備え」をするものでしょう。





西街の古アパートより 朝8時


では、「キリストの到来」クリスマスに関して、教会がお勧めする「備え」とは何か?というと、もちろんきれいなイルミネーションのついたツリーでも、窓際に置く赤い長靴でもありません。

聖書の中では、イエスに洗礼を施したバプテスマのヨハネという人物が「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に教えています。「キリストの到来」と「天国の到来」は無関係ではありませんので、クリスマスへの備えとしてふさわしいことは、まずもって「悔い改める」「身を振り返って正す」ということだと教会では教えます。

カトリック教会や、聖公会(英国国教会)、ルーテル教会のように典礼(祭儀の行い方)での伝統を残す教会では、教会の暦に「色」が付随しています。アドベントの色は紫で、これは「悔い改め」を象徴する色なのです。

この紫が使われるのは、キリストの十字架の受難を偲ぶ春先のレントと呼ばれる時期と、このアドベントの時期だけです。そして、昔から悔悛を表すための日常行為は「断食」とされてきました。

アイスランドでは「ヨーラ・ファスタ」という言葉が今でも残っており、これは「クリスマス前の断食」を意味します。正確には断食ではないのでしょうが、「この時期、肉食はしない」という人は今でもいることはいます。

もっとも昨今ではヴェーガンがその上を行っているようですから、それほど珍しくはないかもしれませんが。




朝9時


このように、アドベントは「キリストの到来」の第一段階?であるクリスマスから遡って、その日を「備え」をしながら「待ち望む」時期というのが教会的な考え方になります。

ちなみにキリスト教会の中でも昔から「東方教会」と呼ばれてきたオーソドックス教会は、復活祭を暦の中心として考えるので、アドベントという時期は公式には暦の中には存在しません(と、習いました)。ですが、まったくない、というわけでもないようです。不学でスミマセン。機会があれば有識者に訊いておきます。

さて、ここまでなんかお堅い内容になってしまいましたが、まあ、これらのことトリビア的に知っておいても損はないと思います。機会があれば披露してみてください。(*^^*)

個人的に思うことですが、教会の暦がキリストの生誕であるクリスマスではなく、その日を「備えをしながら待ち望む」アドベントから始まっていることは興味深いですね。

特に「待ち望む」という点に、私の個人的な力点があるのですが、アドベントという時期の設定によって、「待ち望む」ということが公式に教会の暦の中に定められていることになります。

現代の私たちの生活の中では、「待つ」必要がない方が良い、「待ち時間」は無駄時間だ、というのが常識になりつつある気がします。すべて、その方向へ向けて努力していますよね。




午前10時 ようやく陽の光が


先日、イタリアから「無駄に」牧師シャツを買うという小悪を犯しましたことは前回懺悔いたしました。でも、驚くべきことはですね、日曜日の夜にネット注文したものが、なんと火曜日の夜には届いたのですよ! ワオ!

Amazon.co.ukはよく使いますし、そこからも同じような感じで届きます。ですが、Amazonはそういう体制ができているし、イギリスはアイスランドの隣りの駅です。

私がシャツを注文したお店はイタリアのモデナという中部北辺りにあります。Googleで見たのですが、片田舎。町中ではないのです。あそこから、よく二日間で届くものだ、と感心します。

もちろんDHLとかFEDEXとか、配達サービスが高度に発展しているから、というのもありますが、ポイントはそこまで努力して「待ち時間」をなくしているんだ、ということです。

待ち時間がなくて重宝することが多いのは確かですが、それが万能かどうかということは吟味してみたほうがいいかもしれません。

「待ち時間」がただただ否定的に思えてしまうのは、それが自分自身のペースを乱すものであり、ひいては活動効率を下げるものだから、ということでありましょう。

ですが、すべてが自分のペースで進んでしまい、活動効率が上がりっぱなしになったとして、それがどこに行き着きますか?私はちょい疑問に思います。




私の牧師シャツの発送点はこちら モデナ、イタリア
Myndin er ur Google.com


そういう効率良い時があるのは歓迎しますが、ずーっとそうなるのはちょっと怖いな。自分のペースが崩されるから考える間ができるし、効率が下がるから振り返ることをするわけでしょ?

フリーウェイを高速で走り続けるばかりになったら、むしろ抑制が効かなくなって、どこかで大コケしそうな気がしてしまいます。「待ち時間」というのは、私たちが自覚する以上に、生活にポジティブな影響を持っているのではないでしょうか?

キリストの到来を「待ち望む」というように「待つ」に「望む」が加わると、また別の意味が加算されるように思われます。ですが、長くなり過ぎましたので、今回はここでおしまい、としておきます。

間もなく師走でもありますね。慌ただしくなり過ぎないように、気をつけてお過ごしください。


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。

藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Church home page: Breidholtskirkja/ International Congregation
Facebook: Toma Toshiki
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする