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日本刀「伍箇伝」は政治・文化の歴史?!

2013-04-26 | 包丁について(総合)
日本刀「伍箇伝」は政治・文化の歴史?!

春一番もとうに終えゴールデンウィークがまもなくやってくる季節となりました。
私の趣味であるゴルフや釣りやバイクにはとてもいい季節となってきました。
皆様はどんな休日を予定していますか?

話は本題に戻りますが、前回は関鍛冶伝承館「信長の野望 日本刀の世界展」のお知らせをしました。
その中に「伍箇伝」の文字の入った画像がありました。
ブログに訪れた友人から「伍箇伝て何?」との質問を受けましたのでここに記したいと思います。

そもそも、昔は「伍箇伝」という呼び方はされなかったようで、わりと新しい定義というか呼び方なんです。
呼び名の始まりは、明治以降ではないかと言われています。
当時、江戸幕府から明治政府に政権が移り、
「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止」
という太政官布告の帯刀禁止令すなわち「廃刀令」が発令されたことが大きな要因だと考えられます。
これにより日本刀が必用でなくなった(持てなくなった?)武士や大名が収集家に競売をかけ様々な希少な日本刀が世に知られることになったのです。
帯刀できなくとも美術品、希少品、歴史的資料、コレクションとしての価値を見出され、それを選定するために日本刀の研究がすすみました。
その結果、日本刀は5つの作風・産地に大分類でき、「伍箇伝」と呼ばれることとなりました。
その内訳は、古い順に
1.DC700年頃始まったとされる「大和伝」(やまとでん)
2.DC990年頃始まったとされる「備前伝」(びぜんでん)
3.DC1000年頃始まったとされる「山城伝」(やましろでん)
4.DC1270年頃始まったとされる「相州伝」(そしゅうでん)
5.DC1320年頃始まったとされる「美濃伝」(みのでん)
に分類されます。

形状や技法の違いは他の五箇伝を記した他のWEBやHPをご覧になればよいと思います。(詳しく記されていますから。)
しかし時代背景的なことがあまり記されていないので、私の得ている知識と考察を簡潔に記したいと思います。

1.「大和伝」(やまとでん)
日本の畿内、大和国を指します。現代でいうと奈良県辺り。別名:和州ともよばれ7世紀後半には「倭国」と表記された地域。
藤原京、平城京、長岡京、平安京と日本の都とされた地域、持統天皇や藤原不比等、藤原道真らが活躍した時代で培われた技法。
優れた刀鍛冶が集まり技術を確立していった姿が眼に浮かぶようである。

2.「備前伝」(びぜんでん)
現代の岡山県辺りを備前国と指す。別名:備州とも呼ばれる地域。
平安時代から鎌倉時代にかけて多くの荘園が作られたとされており、それにより優れた刀鍛冶が備前に集まって技法が確立していったと考えられている。

3.「山城伝」(やましろでん)
日本の畿内、京都南部を山城国を指します。別名:山州、城州とも呼ばれた地域。
藤原道長、紫式部、平清盛ら平氏が活躍したた時代で培われた技法。
この頃、日本の政治は不安定で前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱(源平合戦)と騒乱が多発しており、多くの刀が必要だった。
その為、対立する組織により大和、備前、山城と刀鍛冶を使い分けていたのではないかと私は推察する。

4.「相州伝」(そしゅうでん)
現代の神奈川県辺りを指す。主に相模国と呼ばれていた。別名:相州と呼ばれることから相州伝となった。
1192年に鎌倉幕府が出来て日本の中心は鎌倉(神奈川)へ。
1268年に鎌倉幕府第8代執権に北条時宗が就任のち文永の役、弘安の役(俗に言う元寇)が起きた。また正中の変、元弘の乱などの騒乱も多く刀鍛冶は相州に集められ技法が確立していったと考えられる。

5.「美濃伝」(みのでん)
現代の岐阜県南部を美濃国と指した。別名:濃州と呼ばれた地域。
相州伝にも記した正中の変、元弘の乱はもとより、足利尊氏による挙兵、南北朝対立がおきて鎌倉幕府から室町幕府へ日本の中心は再び京都へ移る。
その京都へ入京する過程で刀が必要となり美濃国に優れた刀鍛冶が移り住んだ背景があるのではと推察される。
また岐阜県南部には刀鍛冶に必用な「黒松の根の炭」や「長良川の清く豊富な水源」「焼刃土が採れる」という地域だった。
環境的にも刀鍛冶に非常に向いた土地柄のため優れた刀鍛冶が集まり技法が確立していった。



地域ごとの始まりの時代背景はこんな感じだと思います。
「伍箇伝」は時(とき)の政治、経済、文化の中心地域で発展して行きました。
その中心が移り変わると、それまでの刀鍛冶が居なくなるわけでもなくそれぞれの地域性や特色を生かした刀鍛冶技術が磨かれていったのです。
だから、日本刀伍箇伝の地方は政治・文化の歴史といえると思います。

私ども包丁のトギノンが在する岐阜県関市は「伍箇伝」の美濃国=「美濃伝」に当てはまります。
美濃伝についてもう少し掘り下げてみると...。
室町幕府以降の美濃伝はさらに栄えます。
そのきっかけは「織田信長」です。信長が斉藤道三亡き後、義龍を破り美濃に進出。そして天下人を目指し京へ上がろうと試みます。
その過程で各地方で「市・座」(楽市楽座など)や大阪の堺商人との交易が盛んになり、取引商品の一つとして美濃国から堺にタバコ包丁がもたらされたとされています。(商人には刀が必要ないため)
大阪堺の包丁文化は美濃国の鍛冶屋技術を堺に持ち込んだことから始まったのです。
堺の当初は地産でなく交易による販売が主だったのです。その後、街が栄えるにつれ刀鍛冶でなく技術をもった鍛冶屋が出来、包丁を作り始めたといわれています。
また、信長は毛利元就の水軍を打ち破るべく鉄甲船を建造。当時、鉄甲船に貼るに軽くて強度が求められる鋼板を作る技術をもったのは美濃国の刀鍛冶たちだけでした。(他方でも試作しましたが重すぎて船が沈んだり強度が足りなかったりしたそうです。)
その結果、毛利水軍を見事打ち破ることが出来、信長や秀吉に美濃国の刀鍛冶は珍重されたそうです。
その後、時代背景からも戦国時代となった事や徳川と豊臣の戦いである関が原の戦いにおいても関の日本刀が優れていると珍重され最盛期になっていったのです。

だから私は先日のブログで
「関市も織田信長と強いつながりがあった街でした。
関の刀鍛冶、刃物造りのそれは織田信長がいたからこそ繁栄したと私は感じています。」
と記したのです。

簡潔に記すつもりでしたが長くなってきましたので、今回はこの辺りで。
それでは。