元旦 曇りの予報 日の出は望めない天気 定刻5時にウォーキングスタート
ラジオ体操8名参加
家族の健康祈願 受験生の合格祈願に 芦屋と三宮の神社参拝に出かける。
打出天神
阪神三宮駅
生田神社
元旦 曇りの予報 日の出は望めない天気 定刻5時にウォーキングスタート
ラジオ体操8名参加
家族の健康祈願 受験生の合格祈願に 芦屋と三宮の神社参拝に出かける。
打出天神
阪神三宮駅
生田神社
何時も ブログを見ていただいている 中国迷爺爺様より1155話にコメントいただいた「修聡クン、大きくなりましたねえ」。 自分は 彼の変化に 気付かなかったが お気に入り先輩コメントは 嬉しく その気になって 今春 訪れたときの写真と比べてみた。 爺バカのひいきめにも 半年で 明らかに 印象は変わっていた。
半年前 ラピート(南海電車) 4本指ポーズ
半年後(11/2) トーマス(京阪電車) 5本指でポーズ
さらに 10日後に届いた 七五三 記念写真
修聡が希望した 枚方パークの菊人形展は 明治 大正 昭和 平成の時代に 秋の風物詩として 百年以上の歴史があった。 しかし 平成17年秋で制作関係者の高齢化 後継不足のため 閉幕となった。來園の目的は 5歳の彼は 「花より団子」 花を見るより 京阪電車のトーマス号と公園内の乗り物が目的。 おじいさんは 花を楽しむことに。 伝統の菊人形展としてのイベントはなくなったが 広い公園内の 花壇 バラ園 初めて観る花などに 十分自分も満足した。随所に伝統の菊人形展の展示 栽培技術が生かされているなと感じた。
彼岸に 父より 母 自分 弟宛ての戦地よりの三通の 便りを読みかえした。 当時 神戸から母方の実家に疎開して 父の帰国を待っていた。あらためて戦地で帰国待機中の 父の心情を 痛切に感じた。 父は38歳で 戦病死となり 再び日本の土を踏むことはなかった。 特に 終戦で 引き上げ待機中 母に宛てた はがきには 70年の歳月を超えて 父の重い想いがあった。
母宛
・・・・・ 御地の様子もどうなっている事か 特に 神戸 東京の様子を一日も早く知りたいと思っている いずれ九州の何処かに上陸できるようになると思ふが 帰還の上一日も早く 坊や お前たちの顔を見たいと思っている お前たちもさぞ精神的並びに経済的に苦しい生活を送っていることと思ふが 小生 帰国の上は共に手を取り合ってこの苦難に打ち勝って行き度いと思ふ 何日になるか今のところ全く不明ではあるが 小生幸い病気もせずに漢口東方九江北岸五六里の所で 帰国できる日を待っている 東京の様子もできるだけ知り度い
坊や(小生) やす坊(弟)あて
字の読めない弟に(読んでやるべし)とあり
彼岸の墓参りの時 同行した弟が 昭和21年に戦死した父の古い手帳を見つけ コピーして持参してくれた。 「昭和十八年日記 皇紀2603年Pocket Diary」 出征した年 と推定。 70年以上の年月がたち 鉛筆書きで薄れ 判読しにくい字もある。自分とは異なり 几帳面な性格の弟が整理してくれていた。 当時4歳 父の記憶は少なくで断片的 まして 弟は1歳 全く 記憶は皆無ではと思う。 種々な記述もあるが 中でも新発見は父が俳句を嗜んでいた ということは 生前の母からも聞いたはことがなかった。 70数年ぶりの 未発表作品にスポットを当てたい。当時 神戸税関 植物検査課に勤務して神戸市葺合区の官舎に住んでいた。当時 実家の祖父の家(東京都新宿区戸塚)に 行ったことはかすかに断片的に記憶している 俳句より当時の官舎の様子や 夜汽車で実家に初孫(小生)を見せにゆくあたりの句は すごく新鮮で懐かしく父の思い出がよみがえってきた。自分には なかなかの貴重な名句を発掘した。
1月12日 東京へ汽車の旅(東海道線で 富士山 くっきり見えた 記憶あり )
初富士や 孫見せに行く 汽車のたび
初富士や 頂赤く 明けそめし
初富士や 薄紅に 明けそめし
初富士を おがめる春の 夜汽車旅
官舎の様子 終戦末期 若い人から出征し 自分には赤紙は来ないと言っていたとか
妻の下駄 一寸 ひっかけ ふところ手
ふところ手して 日曜の縁に 立つ
ふところ手し居るが村の助役とか
ふところ手していて官舎 最古参
我行けば 枯れ木くぐりて 月もゆく
修聡より 老人の日のプレゼント。読み書きには苦心の様子。どうしても 右上の字が解らない。電話で問い合わせ 「かなぶん」とのこと。
上より かぶとむし かなぶん かみきりむし くわがたの昆虫シリーズ ちなみに お婆ちゃんには花。