歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

橿原市・藤原宮跡 大極殿の北門跡を確認

2018年09月15日 | Weblog
 奈良文化財研究所(奈文研)は13日、奈良県橿原市の藤原宮跡(奈良県橿原市)で、天皇が重要儀式を執り行う「大極殿」を四方に囲む回廊の北門跡を確認したと発表した。
 北門の北側には天皇の住まいである内裏があり、天皇が政治を行う大極殿と内裏を行き来する際に利用したらしい。
 発掘調査では、門の4つの柱のうち南東隅の柱を据えた柱穴を確認した。門の南北規模は約5・8m、東西規模は約4・7mとみられる。 南門(東西約35m、南北約10m)、東門と西門(ともに南北約29m、東西約6・6m)よりもかなり小規模。
 また、大極殿院の回廊の東西規模は約116mと推定通りだった。
 現地説明会は15日午後1時半から行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、読売新聞、NHK,MBS毎日放送]

過去の関連ニュース・情報
 藤原宮


奈良・橿原の藤原京跡で「大極殿北門」跡を確認 天皇の公私の空間分ける重要な門

大極殿院の北門を確認、藤原宮跡 奈良・橿原、排水で苦労も
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橿原市・藤原京跡 唐三彩の破片が見つかる

2018年07月20日 | Weblog
 奈良県橿原市教委は20日、同市四条町の藤原京跡から藤原宮期(694~710年)の唐三彩を施した陶器の破片(縦2.6cm、横4.3cm、厚さ0.5cm)が見つかったと発表した。中国・唐代の陶器で、破片は陶器の「枕(ちん)」の一部とみられ、遣唐使が日本に持ち帰ったものの可能性があるという。
 藤原京跡での出土は2例目で、枕は初めて。

 出土した場所は、藤原京右京五条六坊西南坪・七坊東南坪で、鎌倉時代の耕作溝の中から見つかった。
 調査地の南側に古代寺院「山本寺」の可能性がある地があり、その遺物とする見方もあるらしい。
 国内で最も古い唐三彩の出土例は、藤原京跡の右京二条三坊(橿原市醍醐町)や縄生廃寺(三重県朝日町)で、今回も同時期のものである。
 大宝2年(702)に出国し、慶雲元年(704)に帰国した遣唐使が持ち帰った可能性があるという。
  粟田真人が遣唐大使(執節使)に任命され、702年出国、704年に帰朝している。道慈は702年出国だが、帰朝は718年であった。
[参考:毎日新聞、産経新聞、奈良新聞、NHK]

過去の関連ニュース・情報
 唐三彩

2014.11.26 大安寺(奈良市)の旧境内から唐三彩80点出土
 2013年12月から2014年1月まで奈良市文化財調査センターが行った発掘調査で、「唐三彩」の破片約80点が見つかった。過去の調査と合わせて計約300点が出土。見つかった唐三彩はほとんどが、「陶枕(とうちん)」とみられる。大安寺は、遣唐使として唐に渡った道慈(702年唐へ渡り718年帰朝)が造営に関わっていることから、道慈が唐から持ち帰ったものの可能性もあるとしている。
[参考:産経新聞]



最古の唐三彩 奈良の藤原京跡で出土 遣唐使が持ち帰ったか

最古級「唐三彩」の破片出土 遣唐使が持ち込む? 藤原京跡 


2018.7.27追記



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奈良市・西大寺旧境内 巨大な柱根(直径約0.7m)が見つかる 「幢幡」の支柱?

2018年07月11日 | Weblog
 奈良文化財研究所の調査で、西大寺旧境内で、古代から中世かけての巨大な柱根(直径約0.7m)が奈良文化財研究所の調査で見つかった。「幢幡(どうはん)」の支柱の可能性があるという。
 柱根は直径約0.7m、残存長約1.5mのヒノキ材。東西約2.2m、南北約2.6mの柱穴の西壁に寄せて建てられていた。
 宝亀11年(780)に作成された古文書「西大寺資財流記帳」にも、回廊南側に「幢」が6基あったと記述している。
[参考:奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 西大寺
 大安寺 奈良期の錦幡を新調し再現
 藤原宮跡 幢幡を支えた柱穴が出土

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亀岡市・佐伯遺跡 奈良時代創建の寺院跡か

2018年01月20日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは17日、亀岡市稗田野町の佐伯遺跡で、奈良から平安時代の柱穴や大量の軒丸瓦や、仏塔を模した土製の「瓦塔(がとう)」の一部が見つかったと発表した。寺院の痕跡と見られる。
 佐伯遺跡は縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡で、調査は2015年度に始まり、奈良時代に役所があり集落が形成されていたと推測されている。
南北に並ぶ方形柱穴(一辺1m弱)10個を南北24mにわたり連なって確認。東西には柱穴がないことから、建物ではなく比較的規模の大きい塀があったと考えられるという。付近からは瓦塔の屋根の一部や、蓮華紋が刻まれた軒丸瓦や丸瓦など大量の瓦が出土した。瓦塔や瓦の形式などから8世紀の奈良時代から9世紀の平安時代前期にかけの遺構とみられる。綾部市の綾中廃寺(注)と同型の瓦が見つかり、古代の亀岡と綾部で職人同士のつながりがあったと考えられるという。
 約100m離れた場所からは平安時代の墨書土器や皿、木簡などが出土した。
 同市内ではこれまで、丹波国分寺・国分尼寺を中心に4カ所で古代寺院跡が出土しており寺院や役所のある佐伯遺跡は地域の拠点だった可能性があるとみている。
 20日午前10時半から現地説明会がある。
[参考:京都新聞、産経新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報 
2017.1.⒛ 佐伯遺跡で奈良時代の建物跡など出土
佐伯遺跡で、奈良時代の掘っ立て柱建物跡3棟が見つかった。建物跡は方位を北にそろえて建てられていた。
 蹄脚円面硯(ていきゃくえんめんけん、直径約20cm)や、「正福」と記された墨書土器も見つかった。
 ほかにも平安時代の掘立柱建物跡2棟や緑釉陶器などが発掘された。[参考:朝日新聞]

(注) 綾中廃寺
綾部郷の中央部には七堂伽藍のあった所という伝承があり、近からは古代寺院の礎石や軒丸瓦・同平瓦、風鐸の風招(銅製)、須恵器などが出土している。 軒丸瓦のうちには山田寺式(7世紀末)と藤原宮式(8世紀初)のものがある。

佐伯遺跡の西北約5kmのところにある、天台宗神尾山金輪寺(亀岡市宮前町宮川神尾山)は延暦2年(783)に西願上人により創建というので、気になる寺院である。日本最初の医学書『医心方』を著した丹波康頼(912-995)の五輪塔があり、本尊の薬師如来像は、康頼の六代後の基康が康頼の念持仏を胎内に納めたものを寄進したと伝わる。
現在、東京国立博物館「仁和寺と御室派のみほとけ」展で「医心方(巻一、巻九)」(12世紀、国宝)が展示されている。

2018.1.30追記
約1か月後に、東大寺二月堂で行われるお水取り(修二会)、それに先がけて若狭のお水送りの行事が行われる。
いろいろと調べていくと、若狭神宮寺(神願寺)と和久寺(福知山市)、綾中廃寺(綾部市)、佐伯遺跡(亀岡市)から出土する瓦が、各々同型の瓦、すなわち山田寺式(7世紀末)ないし藤原宮式(8世紀初)が出土している可能性がある。より詳しい資料を探してみたい。

<佐伯遺跡>柱穴や軒丸瓦出土 奈良〜平安の寺院か 亀岡 /京都

佐伯遺跡地図


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明日香村・飛鳥寺 創建期の出土瓦に「飛」の文字 国内最古か

2015年06月12日 | Weblog
 奈良文化財研究所が10日、奈良県明日香村の飛鳥寺で、「飛」「女瓦(めがわら)」「白髪部(しらかべ)」などの文字がある計6点の飛鳥時代の瓦が出土していたことがわかったと発表した。
 1957年以降、同寺の発掘調査で出土した瓦を調べ、11点の文字瓦を確認。うち平瓦6点の文字が判読された。

「飛」は飛鳥寺を示し、寺創建期(6世紀後半~7世紀初め)の国内最古の文字瓦の可能性があるという。創建時から「飛鳥寺」と呼ばれていた可能性を示す資料という。

 1992年の調査で出土した「飛」とヘラ描きされた文字がある瓦片は、平瓦で縦10cm、横11cm。表面の特徴などから寺創建期の瓦の可能性があり、創建期とすれば、これまで最古とされる中宮寺(同県斑鳩町)出土の文字瓦(7世紀中頃)よりも古い。 
日本書紀(8世紀に編纂)には、飛鳥寺について、最初は「法興寺」、次に「飛鳥寺」として現れる。

■『日本書紀』崇峻天皇元年(588)是歳。(略)百濟國遣使并僧惠總。(略)獻佛舍利。百濟國遣恩率首信(略)等進調。并獻佛舍利。(略)蘇我馬子宿禰請百濟僧等。問受戒之法。以善信尼等付百濟國使恩率首信等。發遣學問。』壤飛鳥衣縫造祖樹葉之家。始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田。
■『日本書紀』斉明天皇三年(657)七月辛丑(15) 作須彌山像於飛鳥寺西。(略)

 女瓦(平瓦)の文字がある瓦は2点あり、いずれも7世紀後半で、女瓦の文字としては最古級の資料という。
  女瓦(平瓦)は男瓦(丸瓦)と対になる言葉。
 白髪部の瓦も女瓦と同時期のものとみられる。白髪部は第22代清寧天皇(白髪皇子)に仕えた集団をルーツとする。今回の発見で、白髪部が飛鳥寺の瓦生産にかかわっていた可能性が浮上した。

 このほか、文字を練習した痕跡とみられる「多」と「名」と記した瓦や、僧を管理する役職の「僧都(そうず)」の文字のある瓦も確認された。

 6点の瓦は9月13日まで奈文研藤原宮跡資料室(同県橿原市木之本町)で展示される。
[参考:奈良新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞]
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橿原市・藤原宮跡 東方官衙地区で格式の高い礎石建物跡

2012年07月26日 | Weblog
 奈良文化財研究所が25日、藤原宮跡大極殿東側約300mの東方官衙地区で礎石を据えた東西6m以上、南北8m以上の建物跡が出土したと発表した。
 直径約1〜1.5mの礎石を据える穴がコの字形に7個並んでいた。 穴の内部には直径10~30cm程度の石が敷き詰められていた。
 調査地は、過去の調査では檜皮(ひわだ)や板葺とみられる掘っ立て柱建物跡が出土していたが、瓦屋根の可能性がある格式が高い礎石建物跡の出土は今回が初めてで、皇族が利用する建物があったのかもしれないとしている。
 調査地は近く埋め戻される予定で、現地説明会は開かれない。
[参考:毎日新聞、産経新聞、日経新聞]
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橿原市・藤原宮跡 「建部門」に使用した?巨大な礎石2個が見つかる

2012年03月29日 | Weblog
 奈良文化財研究所が28日、橿原市の藤原宮 (694-710) 跡の宮殿の中心・大極殿跡から東約450mの場所で、礎石を据え付けたと見られる柱穴(直径2~4m)が東西に3つずつ、2列あるのが見つかり、さらにその西側で、重量が1トン近くもある大きな礎石2個(幅、奥行き、高さ各約1m)が見つかったと発表した。
 約1km四方を大垣(塀)で囲まれた藤原宮には、東西南北に3カ所ずつ、全部で12ヶ所の門があったとされ、柱穴はこれまで確認された藤原宮の門の跡と柱の間隔が同じことなどから、東側の真ん中の門に当る「建部門(たけるべもん)」(注1)の可能性が高いという。 また、2個の礎石は、都が藤原京から平城京に移された後に一帯が農地となった際、元の位置から動かして捨てられたとみられる。
 建部門は他に5か所で見つかっている門跡から、高さ約1mの基壇上に立つ礎石建物で、規模は幅(南北)25m、奥行き(東西)10m、瓦葺だったとみられる。
 藤原宮の門の跡が見つかるのは6例目だが、柱穴などとともに礎石が確認されたのは初めて。
 現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:共同通信、NHKニュース、産経新聞、読売新聞]

(注1)建部門: 藤原宮南面中央は朱雀門(一説には、大伴門と呼ばれた)で、東面は北から、山部門・建部門・小子部門が判明している。 宮廷を警護した軍事氏族・建部氏にちなむとされる。
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藤原宮跡出土木簡 和同開珎の銀銭の使用を示す墨書を発見

2012年02月13日 | Weblog
 奈良文化財研究所の調査で、橿原市にある藤原宮(694-710)の遺構から出土した木簡に、和同開珎の銀銭の使用を示す墨書があることがわかった。
 木簡(長さ9.4cm、幅0.9cm)は割れて左半分はなく下部も欠けた状態で、1980年、藤原宮の東側を区画する大垣の外濠跡で見つかった。 最近の研究で、「銀銭□文付□」(□は判読不能)と確認された。 一緒に見つかった別の木簡の年号と、藤原宮があった当時、銀銭は無文銀銭と和同開珎銀銭が存在し、無文銀銭は「枚」で、和同開珎は「文」で数えたことから和同開珎の記述と判断したという。
 銀銭は708年に発行されたが、翌年には製造を止め、その翌年には使用が禁止された(注)。 銀銭は銅銭と比べて流通の実態がわからなかった。使用を初めて裏付ける資料としている。

(注) 『続日本紀』
 和銅元年(708)五月壬寅十一日条 「始行銀銭。」
 和銅元年(708)八月己巳十日条 「始行銅銭。」
 和銅二年(709)八月乙酉二日条 「廢銀錢。行銅錢。」
 和銅三年(710)九月乙丑十八日条 「禁天下銀錢。」
[参考:読売新聞、NHKニュース]

和同開珎の使用示す木簡出土、流通裏付ける発見(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.9.2 藤原宮跡出土・富本銭 考察
 2008.6.17 隠岐・西ノ島・黒木山横穴墓群遺跡 銀の和銅開珎が出土
 和同開珎
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淡路市・横入遺跡 1世紀の大規模環濠が見つかる

2011年12月09日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館が7日、淡路市志筑(しづき)の「横入遺跡」(よこいりいせき)で、弥生時代中期(1世紀)の集落の環濠とみられる溝(幅0・7m、深さ0・4m、長さ32m)が見つかったと発表した。 昨年確認された分と合わせて長さ68mになり、40m四方の集落を囲んでいたとみられる。 本来の環濠の幅は約2mと推定される。 淡路島で弥生時代の環濠跡が見つかったのは洲本市の安乎間所遺跡(あいがまどころいせき)に次いで2例目となる。
 また、古墳時代中期(5世紀)の土坑4基(直径0.5~0.7m、深さ0.4~0.7m)も確認された。 3基は等間隔で並び、祭祀用とみられる土師器の甕や壺、鉢、高杯などが据えられていた。
 現地説明会が10日(土)午後1時30分から開かれる。
[参考:読売新聞、朝日新聞]

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 横入遺跡の詳しい場所が調べきれない。 志筑川河口近くの沖積地に立地され、藤原宮の複弁八葉蓮華文軒丸瓦と同じ笵を使って作られた淡路島で最古の寺院である志筑廃寺(奈良~平安時代)が北側近くにあるようだ。

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大津市・石山国分遺跡 藤原宮の瓦製作跡を発見

2011年07月22日 | Weblog
 大津市教委が22日、同市田辺町の石山国分遺跡から藤原宮(694~710年)で使われていたものと同様の特徴を持つ瓦と瓦窯跡2基が見つかったと発表した。 石山国分遺跡から藤原宮までの直線距離は約50kmあり、瀬田川、宇治川、木津川を使い運搬したとみられるという。
 窯跡は、ともに全焼成部が階段状で、全長6・7m、最大幅は1・5mだった。 天井部は削られていたが、トンネル状になっていたらしい。 近くで廃棄された瓦が数百枚見つかった。
 藤原宮の瓦を製作したとみられる窯は淡路島や香川県でも見つかっている。
 万葉集(注1)には、田上山の桧乃嬬手(檜の荒材)を八十氏河(宇治川)などに浮かべ流して、泉乃河(木津川)を経由して運んだという記述があり、瓦も同様に、主に水路で運ばれたのだろうとみている。
 見つかった瓦は7月26~29日と8月1~5日に大津市役所市民ギャラリーで、8月6~28日に同市歴史博物館ロビーで展示される。
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞、産経新聞]

(注1) 万葉集巻1 (50) 藤原宮之役民作歌
八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 
神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 
物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 
水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 
泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之

右日本紀曰 朱鳥七年(693)癸巳秋八月幸藤原宮地 八年(694)甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮

過去の関連ニュース・情報
207.10.25 大和郡山市・西田中瓦窯 藤原宮の瓦生産の登り窯跡が出土
 大和郡山市教委は24日、藤原宮の瓦を生産した7世紀末ごろの登り窯跡3基が同市西田中町で出土したと発表した。
 出土したのは「西田中瓦窯」と呼ばれる登り窯跡で、平成16年の試掘で6基を確認し、このうち3基を調査したところ、内部にあった軒瓦が藤原宮の朝堂院などの瓦と一致した。
 斜面に並んだ3基は同時期に使われていたとみられる。 窯跡はいずれも斜面がトンネル状に掘られ、燃焼室と階段状の焼成室、頂上部の煙道で構成され、全長約5m、幅1.5m前後で、30度ほどの傾斜角で築かれていた。
 周辺では、西田中瓦窯の南西約250mにある「内山窯跡」でも同形式の瓦と窯跡4基が確認されている。
 藤原宮の瓦を生産した窯としては、奈良県内では日高山瓦窯、県外では香川県の宗吉瓦窯などで確認されている。
[参考:産経新聞、読売新聞、毎日新聞、橿原市教育委員会HP]
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橿原市・菖蒲池古墳 2段構造の方墳と判明

2010年11月26日 | Weblog
 橿原市教委が25日、今年3月30日に、2段構造の方墳ないし八角形墳の可能性が高くなったとした同市の国史跡・菖蒲池古墳(7世紀半ばごろ)が約30mの方墳と分かったと発表した。また、築造からわずか数十年後の藤原京期(7世紀末~8世紀初頭)に古墳の一部が人為的に破壊されていたことも判明したという。
 石室の南西約20mで下段墳裾の隅部分を検出した結果、直角に加工した一辺約70cmの基底石が配置され、西辺と南辺は幅約30cmの石を直線的に並べていた。上段は、石室の北東約10m地点で長さ約3.3mにわたって直線的に並ぶ基底石8個を確認。上段も方形と断定した。
 また、墳丘西側2mで、古墳の一部を破壊して造った石組み溝が見つかった。幅約30cm、深さ約30cm、長さ約2.5mで、南北に水を流したと考えられる。溝から藤原京期の土器、付近からは鉄屑、鞴(ふいご)の羽口などが出土し、古墳築造から遠くない藤原宮期(694~710)に鋳造などの工房が営まれた可能性があるという。
 同古墳の横穴式石室は家形石棺二つを直列に安置。屋根や柱などの写実的な表現や、内面に施された全面漆塗りなどから、高位の人物と考えられていた。
 市教委は、古墳がぞんざいに扱われており、大化5(649)年に謀反の疑いを受けて自害した蘇我倉山田石川麻呂と長男の興志(こごし)の合葬墓とする説にやや有利な要素になるという。
 現地説明会は27日午前10時~午後3時に開かれ、650人が集まった。
[参考:共同通信、奈良新聞、産経新聞](2010.11.28改正版)

過去の関連ニュース・情報
 2010.3030菖蒲池古墳 墳丘本体を初めて発掘調査、墳丘裾で石列が出土
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橿原市・藤原宮跡 7世紀後半の運河跡が見つかる 

2010年11月19日 | Weblog
 奈良文化財研究所が18日、藤原宮(694~710年)跡で造営時の資材運搬に使ったとみられる7世紀後半の運河跡などが見つかったと発表した。
 「朝堂院」の広場(朝庭)を調査し、運河本流(幅4・5~7・5m)を30m分と、北東方向に枝分かれする支流(幅4~6m)を15m分確認した。運河は北に延びており、総延長は550m以上になる。
 運河は埋め立てられ、東西や南北方向の溝が3時期にわたって設けられていた。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース
 2008.9.29 藤原宮跡 宮殿造営の運河跡発見 資材を牛馬で運ぶ跡も
 2007.10.7藤原宮跡 運河は朝堂院まで続いていた
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橿原市・藤原宮跡 「国内最古の大嘗宮の建物跡などを発見」は誤り

2010年11月18日 | Weblog
 奈良文化財研究所は18日、今年7月1日付けのニュースで報じられた、「藤原宮跡 国内最古の大嘗宮の建物跡などを発見」については、「最古の大嘗宮」は誤りであると見解を明らかにして発表を訂正した。
 建物や門、塀のものだろうと判断した42個の柱穴跡のうち35個が柱跡穴ではなく藤原宮造営時に排水用に掘られた溝などで、かつ、藤原宮があった時代の柱穴は1基だけだったことが判明したためとする。
[参考:共同通信、毎日新聞、産経新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.1 橿原市・藤原宮跡 国内最古の大嘗宮の建物跡などを発見

藤原宮跡「最古の大嘗宮」は誤り 奈文研が訂正(共同通信) - goo ニュース
「最古の大嘗宮跡」発見は誤認?調査成果撤回(読売新聞) - goo ニュース
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下関市・長門鋳銭所跡 和同開珎の鋳造年「天平二年」が書かれた木簡などが出土

2010年08月10日 | Weblog
 下関市教委は10日、今年1月からの発掘調査で、銅銭「和同開珎」を鋳造していたと伝えられる同市長府逢坂町の国史跡「長門鋳銭所跡」付近の深さ1m前後の地層から、鋳造年代が書かれた木簡と和同開珎のかけらや鋳型などが大量に出土したと発表した。文献以外で和同開珎の鋳造年代を示す遺物の発見は全国初という。
 見つかった木簡は幅約1cm、長さ約22cm。左半分は欠けているが、「天平二年(730)五月四日主□□部車万呂」と墨で書かれていた。
 当時、長門国(現在の山口県西部)で銅銭が鋳造されていたとの「続日本紀」の記述(注1)が裏付けられるとともに、この場所に官営の貨幣鋳造所があったことが確実となった。
 木簡はほかにも約300点見つかり、和同開珎の破片1点、溶かした銅を鋳型に流し込むのに使う坩堝(るつぼ)や鋳型の「銭笵(せんぱん)」の破片数千点などが出土した。
[参考:共同通信、NHKニュース(動画)、読売新聞、毎日新聞]

(注1) 天平2年(730)3月丁酉。《十三》周防國熊毛郡牛嶋西汀。吉敷郡達理山所出銅。試加冶練。並堪爲用。便令當國採冶。以充長門鑄錢。

和同開珎の鋳造年示す木簡を発見 下関の史跡付近で(共同通信) - goo ニュース
和同開珎の鋳銭時期裏付ける初の木簡…下関(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.12.24 平城京で和同開珎の「種銭」が判明 地方へ供給し量産工程の証か
 2008.9.2 藤原宮跡出土・富本銭 考察
 2008.8.9 大阪市・細工谷遺跡 ぴかぴかの和同開珎見つかる
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橿原市・藤原宮跡 国内最古の大嘗宮の建物跡などを発見

2010年07月01日 | Weblog
 奈良文化財研究所は1日、藤原宮跡(694~710年)で天皇の即位に伴う重要儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」が行われた「大嘗宮(だいじょうきゅう」の一部とみられる建物跡などが見つかったと発表した。大嘗宮は過去に平城宮跡で確認されているが、藤原宮跡では初めてで、国内最古となる。
 発掘調査は4~6月、朝堂院の広場「朝廷」の約1500㎡で実施。東西12m(5間)、南北3m(1間)の建物跡と、それを取り囲む外塀跡、内部を区画する四つの内塀跡、二つの門跡が確認された。
 大嘗宮は、東側の悠紀院(ゆうきいん)と西側の主基院(すきいん)の2つの斎場からなり、見つかった遺構は悠紀院の北半分にあたる。建物跡は儀式用の穀物を準備する膳屋(かしわや)にあたるという。
 天皇は毎年11月、神に新穀を供えて収穫を感謝する祭り「新嘗祭(にいなめさい)」を行っていた。天皇が即位後に最初に行う「新嘗祭(にいなめさい)」を「大嘗祭」とし、儀式を行う仮設建物の大嘗宮が造られ、終了後は解体された。
 日本書紀などから、大嘗祭の儀式は天武~持統朝(673~697年)に整備されたと推定され、藤原宮では文武天皇(697年即位)と元明天皇(707年即位)が即位し、大嘗祭を営んだことが続日本紀に記されており、今回の遺構は、いずれかの大嘗宮だった可能性が高い。
 一方、平城宮跡(710~784年)の朝廷では、6代の天皇の大嘗宮跡が確認されている。
 現地見学会は3日(土)午後1時半に開かれる。
[参考:産経新聞、毎日新聞、時事通信]
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