歴歩

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羽曳野市・峯ヶ塚古墳 日本最大の木製埴輪が出土

2022年12月08日 | Weblog
 羽曳野市教委は8日、百舌鳥・古市古墳群を構成する峯ケ塚古墳(5世紀末、全長96mの前方後円墳)の前方部と後円部の境にある造り出し部を発掘し、国内最大となる木製埴輪が出土したと発表した。
 長さ352cm、幅75cm、厚さ8cmで、コウヤマキで作られていた。地面に立てて使うため、さらに1mほど長かったとみられるという。これまでの最大は奈良県天理市の御墓山(おおはかやま)古墳(5世紀末から6世紀前半、全長74mの前方後円墳)で出土した長さ263cmで、それより約90cm上回る。
 今回発見された木製埴輪は、石見型(いわみがた)木製品と呼ばれるもので国内での出土は16例目で、同古墳群では初めて。石見型は、奈良県三宅町の石見遺跡で出土したことにちなむ。権力者の象徴である玉杖(ぎょくじょう)を象(かたど)ったとみる説が強く、被葬者の権威を示したり、魔除けとする意味があったと考えられるという。
 市教委は10日午前10時~午後3時に現場見学会を開く。
[参考:共同通信、京都新聞、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、中日新聞]

過去の関連ニュース・情報
峯ヶ塚古墳
木製埴輪
 韓国の霊岩郡始終面泰澗里のチャラボン古墳(영암 자라봉고분)では、2011年末に長さ520cmの幡竿形木器(깃대형 목기)が出土している。6C初めの祭祀用木器と考えられている。
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橿原市・四条1号墳 南北の全体規模は約60mと判明

2017年11月21日 | Weblog
 橿原考古学研究所が20日、多数の木製埴輪が出土した同市の四条1号墳(方墳、5世紀末)の二重の周濠を含めた古墳の南北規模が約60mと判明したと発表した。
 昭和62年の橿考研の発掘調査で、古墳本体(南北約32m、東西約40m)のほか、最大幅約14mの内濠から鳥形や盾形、笠形など多数の木製埴輪が出土し、注目を集めたが、外濠は東側と南側でしか見つからず、全体規模が不明だった。 四条古墳群は5世紀後半から6世紀中ごろにかけて約600m四方に10基の古墳が築かれたとみられる。
 今回、30年ぶりにほぼ全面的な発掘調査を実施し、結果、北側に外濠(最大幅約6m)の存在を確認し、南北が約60mだったことが判明した。 東西は約75mと推定している。 古墳は藤原京造営時に壊され、埋葬施設は残っていない。
 現地説明会は23日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

過去の関連・ニュース情報
松江市・石屋古墳 力士や武人など人物埴輪を復元し5世紀中頃と判明
 四条古墳群で見つかった5世紀後半の力士埴輪を遡る。


四条1号墳を全面的に再発掘 南北規模は約60メートルと判明 橿考研が発表
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栗東市・椿山古墳 国内最大級の笠形木製埴輪出土

2017年07月20日 | Weblog
 滋賀県栗東市教育委員会は20日、同市安養寺の椿山古墳(5世紀)から、国内最大級の木製笠形埴輪が出土したと発表した。
周濠の底から、楕円形の木製笠形埴輪が6点見つかり、うち2点は長径が76cmと75cmで、応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)から出土した90cm台の埴輪2点に次ぐ大きさだった。
 椿山古墳は全長99mの帆立貝形前方後円墳、後円部直径70m、前方部長さ25m。
 笠形埴輪は高貴な人物にかざす蓋(きぬがさ、日傘)を模したとされ、奈良県を中心にこれまで計313点が出土しているが、大半は直径30cm程度。材料はコウヤマキで、内側を丁寧にくり抜くなど応神陵の出土品と共通点が多い。大和政権との深い結び付きをうかがわせる貴重な資料としている。
 栗東市小野の栗東歴史民俗博物館(077・554・2733)で、29日午後1時から調査報告がある。 
 出土品は25日~来月6日、同博物館で展示する(31日休館)。
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 笠形木製埴輪



国内最大級の木製埴輪出土=応神天皇陵に次ぐ―滋賀・椿山古墳
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堺市・ニサンザイ古墳 蓋形木製埴輪が初出土

2015年01月30日 | Weblog
 堺市は同市北区にある5世紀後半の前方後円墳「ニサンザイ古墳」(東百舌鳥陵墓参考地)の前方部側の濠から木製の蓋形埴輪の一部(最長約79cmの木製品3点)が見つかったと発表した。 
 切り込みや透かし、紋様が刻まれており、傘の先につく「立ち飾り」を模した一部とみられるという。
 木製の蓋形埴輪の出土は初めてで、素焼きの円筒形埴輪と一緒に墳丘に多数並べられていた可能性があるという。
 前方部側の濠の底では築造当時の墳丘の端も確認。墳丘長は約300mと確認された。墳丘は中段斜面に葺石を敷いているのに対し、最下段には殆どなかった。
[参考:産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
ニサンザイ古墳
 2014-02-06 後円部直径が、これまでの測量結果(1926年、156m)より10m以上大きく、約170mと推定される。古墳の葺石が簡素化され、まばらにしか敷かれていないことも判明。
 2013-02-21 周濠から木造の橋脚跡が見つかった。
 2012-11-28 墳丘の全長がこれまでの見方より約10m長い300m以上あることが分かった。5世紀後半の築造で、仁徳天皇陵(堺市堺区、全長486m)の次に築造されたとみられる。
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全南霊岩・チャラボン古墳 周溝から祭祀木器が出土

2011年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 霊岩郡は始終面泰澗里のチャラボン古墳(영암 자라봉고분)の20年ぶりの発掘調査を大韓文化遺産研究センターに依頼して、6世紀初めの築造が確認された。 さらに引き続いて周溝の発掘調査が行われており、霊岩郡は14日、100点余りの円筒形土器(원통형 토기、注1)とともに祭祀木器が完全な状態で出土したと発表した。
 発掘した祭祀木器には、笠型木製埴輪(개형 분주목기)、長さが520cmに及ぶ幡竿形木器(깃대형 목기)、両刃形木器(양날형 목기)があり、韓国では初めての出土例という。
 これら祭祀木器は単に古墳周溝に廃棄されたわけでなく、周溝内部に設けられた木造構造物に意図的に貢献したとみられるとしている。
 このような祭祀木器の出土は、前方後円墳築造と関連して進行された葬制の一面と考えられる。
[参考:聨合ニュースほか]

(注1) 円筒形土器: 円筒埴輪のことか。
 辞書にない語句がいくつかあり、同じ物を表す語句が韓国語と日本語で違う、そして写真が公開されているのに、写っている木器が何なのか説明がないために、正確に内容を把握することができない。したがって、内容に間違いがあるかもしれないので、そのつもりでお読みいただきたい。

関連ニュース・情報
 2011.11.23 全南霊岩・チャラボン古墳 20年ぶりに再発掘し、6世紀初めの築造を確認
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彦根・塚乞手古墳 スギ製の鳥形と笠形の木製埴輪2点出土

2008年07月26日 | Weblog
 25日滋賀県文化財保護協会は、彦根市肥田町の6世紀前半頃とみられる塚乞手(つかごって)古墳の周濠跡から、鳥形と笠形の木製埴輪2点が出土したことを発表した。
 鳥形の埴輪は、長さ59cm、胴部最大幅20・5cm、頭部最大幅13cmで飛行する鳥の姿を表している。胴部には、支柱を挿す穴があり、胴部の上面には翼を取り付けるための切り込み(幅24cm、深さ1・5cm)があり、飛ぶ鳥をかたどったとみられる。翼は確認されていない。
 笠形は円形で直径27cm、高さ8cm。貴人の傘を模っている。中央に9cmの方形穴がある。
 このほか、支柱とみられる長さ97cmの木材や土製埴輪の破片も出土した。
木製埴輪の樹種は、大半が古墳時代に棺に用いられたコウヤマキだが、出土した2点はスギ製だった。
 木製埴輪が出土した古墳は県内9基目で、計40点となった。湖南で7例、湖北で1例あり、今回は空白部だった湖東での発見で、協会は大和から近江を経て尾張へ伝播したという推論を裏付ける資料と評価する。
 ほかに木製埴輪は、奈良県で21例、京都府3例、大阪府2例、福岡と愛知両県、韓国で各1例が確認されている。
 木製埴輪は8月24日、安土城考古博物館(安土町)で開かれる埋蔵文化財整理調査成果中間報告会で展示、解説もある。

■木製埴輪 5世紀前半に河内(大阪)の大王墓造営に伴い考案された樹立物とされ、大和から近江を経て尾張などへ広まったとみられる。国内では37基の古墳から出土、滋賀県は奈良県の21基に次いで多い。

 同古墳は肥田城遺跡と重なっており、規模や形状は不明。周濠跡は水田で見つかった。
[参考:京都新聞、中日新聞]

肥田城
 高野瀬備中守隆重が大永年間(1521~1528)に築いたとされる平城。
 永禄2年(1559)、六角義賢に水攻めにあうが、洪水で失敗に終わった。
 慶長年間以降廃城となった。
 高野瀬氏は近江源氏佐々木氏の分かれとも藤原秀郷流ともいい、明確ではない。
 建武三年(1336)の『園城寺文書』に高野瀬信景の名が見える。
 平成18年からの試掘調査では、8世紀後半(奈良時代)の建物跡2棟が見つかり、その時代以降の遺構が見つかっている。


キーワード: 笠形木製埴輪、鳥形木製埴輪
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