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統一新羅初の双塔一金堂式・四天王寺址(慶州) 発掘調査で新たな出土

2008年12月16日 | Weblog
 12月10日の聯合ニュースで、史跡第8号慶州・四天王寺が、統一新羅時代の寺院で最も早い年代のものであることが確認されと報じられた。
 慶北慶州排盤洞四天王寺は、統一新羅初期の文武王19年(679)に創建された寺である。「三国遺事」は「文武王時期に唐と戦争をした新羅が明法師の建議で狼山南側神遊林に道場を建てて文豆婁秘法を行って、唐軍隊を大きく退けた」という記録がある。
 四天王寺が護国寺院としてだけでなく密教寺院の役割も果たしていたとみられる。
 四天王寺址は木塔2基が配置された双塔式伽藍配置(双塔一金堂式)である。先に明らかになっっている神文王2年(682)に創建された感恩寺の伽藍形態と似ている。(ただし、感恩寺の塔は三層石塔である)
 文化財庁国立慶州文化財研究所が2006年から継続してきた発掘調査で、東塔跡、東南回廊跡、中門跡、推定壇席跡(注1)等が現れた。
  注1:仏教儀礼を行う場所。これまでは、鐘楼および経楼と考えれれていた。
 講堂の右側では、感恩寺址のような長方形建物跡が確認された。
 
伽藍配置でわかったこと。
 南回廊(22間)の中央に中門(3間×2間)がある。この中門と金堂(5間×3間)、講堂(現在未発掘状態だし鉄道によって一部流失した可能性がある)が南北に1直線に並ぶ。金堂の両側に木塔が建てられていて、金堂と東西回廊(31間)を翼廊(9間)が連結している。講堂の右側で感恩寺跡のような長方形建物跡が確認された。
 寺刹の中心建物の金堂と木塔の基壇は川石と土砂を交互に重ねて固めて積んだ特異な構造で築造されている。土砂だけ何回も反復して基壇を築造する百済の版築技法とは根本的に違う。
 それらをまとめると、添付のような伽藍配置になる。
 その他にも繊細で躍動感あふれる人物が表現された綠釉塼3種が、西木塔跡(2006年調査)に続き東木塔址でも確認された。この綠釉塼は木塔の基壇部を飾った面石に使われており、配置順でも基壇の階段を中心に人物の顔方向に合わせて、各面に6ヶずつ(3像×2種)全24ヶ(4面×6ヶ)が配置されて、木塔の四方を守る姿であるのが明らかになった。
 そのほかに、調査区域では、国内で初めて現れた草花文が彫られた模様前石も出土した。
[参考:2008.12.10聯合ニュース]

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