GUMBO

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file.088 Jim LEYLAND【ジム・リーランド】

2006-10-21 | JKL
【ヘビースモーカー・ジム】
Jim LEYLAND

現役時代は一度もメジャーの舞台に立つ事なく、
26才の若さで引退したリーランド。
その後、指導者としての経験を積み、
ホワイト・ソックスでトニー・ラルーサのもと、
三塁コーチを勤めた後、
86年にパイレーツの監督に就任。
若きバリー・ボンズやボビー・ボニーヤ擁するチームを強化し、
90年から3年連続で地区優勝に輝いた。
パイレーツ時代はワールド・シリーズには進めなかったが
97年、フロリダ・マーリンズの監督に就任すると
チームをワイルド・カードでのプレーオフ進出に導き
ワールド・シリーズでもインディアンズをくだして
見事ワールド・チャンピオンの座についた。

選手を信頼し、意気に感じさせる事が得意なリーランド。
2006年は弱小チームだったデトロイト・タイガースを
ワールド・シリーズに導き、
師匠(?)のトニー・ラルーサとの初対決にのぞむ事になった。

「監督も選手と供に戦っている―――」
リーランドは監督でありながら、
選手と同じ歯の付いたスパイクを履いて指揮を司っている。


file.087 Ered LYNN【フレッド・リン】

2006-09-22 | JKL
【金粉ツインズ】
Ered LYNN

2001年、シアトル・マリナーズのイチローが新人王とMVPをダブル受賞したが
その時、よく引き合いに出されていたのが、フレッド・リンである。
リンは1975年、打率.331、21HR、105打点の成績を残し、
やはり新人王とMVPをダブル受賞した。
これは長いメジャー・リーグの歴史において初めての偉業。
加えて、その数字が語る打撃のみならず、中堅の守備でも
広い守備範囲と強肩を誇り、ボソックスファンにとっては、
まさに期待のニュー・ヒーローの誕生であった。
「Gold Dust Twins」
ファンはリンと、同年デビューのジム・ライスのコンビをこう呼んで
この先チームを支えていくであろう2人を讃えた。
大舞台にも強く、ポストシーズン、オールスター戦、共によく打った。
特にオールスターでは、9試合の出場で4本のホームランを放っている。

大胆な守備や、激しいスライディングなど、
アクレッシブなプレーを心掛けていたリンは
そうしたプレーがもたらすケガにも悩まされた。
ケガの影響もあったのだろうか、
1975年は打率.314を残したものの、
ホームランは10本と激減、打点も65にとどまり、
翌76年はホームラン18本、打率.260と中途半端な成績に終わってしまう。

が、リンは、78年に打率.298 22HRで復活すると、
79年には.333の高打率に加え、39HR、133打点を打ち、
打撃3部門全てにおいて、新人王に輝いた75年を上回った。
MVP投票でも4位に付け、誰もがリンの復活を確信した。

しかし、リンが眩いばかりの光を放ったのは、この年が最後になってしまった。

81年からエンゼルス、85年からはオリオールズと移籍を重ね、
90年、パドレスでそのキャリアを閉じるが、
その間、リンは打率.300も30HRも100打点も、
残す事は出来無かった。

ケガが多く、140試合以上出場の年すら4回しかないリンだったが、
そのキャリアを、毎年162試合出場の計算で平均すると
打率.293、25HR、91打点という数字が残る。
スラッガーとして、悪くない数字だと....思う。

file.062 Al KALINE 【アル・ケーライン】

2006-02-13 | JKL
【ミスター・タイガース】
Al KALINE

05年、デトロイトのコメリカ・パークで行われたオールスター、
元同僚のウィリー・ホートンと共に始球式を行ったアル・ケーライン。
1953年から22年間にわたりタイガースひと筋でプレー。
通算安打3007本、399本塁打、1583打点を誇り、
古くからのタイガースファンからの尊敬を一身に集める
『ミスター・タイガース』である。

53年にマイナーを経ずに
メジャーデビューしたケーラインは
54年、19才で、打率.276、4本塁打。
翌55年には20才で、打率.340、27本塁打、102打点を打って
史上最年少となる首位打者を獲得する。

この首位打者獲得には
テッド・ウィリアムスのアドバイスが
大きな役割を果たしたと言われている。
またこの年、こちらも最年少記録でオールスター出場を果たす。

56年、打率.314、27本塁打、128打点、
57年、打率.295、23本塁打、93打点.....と、
スランプ知らずの快進撃を見せたケーライン。
爆発的な長打力は期待出来なかったが、
勝負強い、安定した打撃が持ち味でタイガース随一の
主力打者としてチームを牽引した。

59年、打率.327、27本塁打、94打点の好成績、
さらに60年代に入り、ケーラインの打撃にはますます磨きがかかる。
63年には打率.312、27本塁打、101打点と
3度目の100打点以上をマークした。

68年、シーズン成績こそ、打率.278と平凡に終わったケーラインだが
ワールド・シリーズで爆発、
この年、最高の活躍を見せたボブ・ギブソン擁する
カージナルスを相手に奮闘。
シリーズMVPは『投』の伏兵ロリッチが獲得するが
『打』ではケーラインがチームを牽引、
打率.379 本塁打2 打点8の大活躍で
チームの世界一におおいに貢献した。

右翼の守備ではロベルト・クレメンテと
比肩される程の名手ぶりを発揮、
堅実な動きとズバ抜けた強肩で、
10度のゴールド・グラブ賞に輝いている。

通算15回のオールスター出場を誇り、
背番号6は当然のごとく永久欠番に指定されている。

80年、野球殿堂入りを果たしている。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=kaline

file.045 Tommy JOHN 【トミー・ジョン】

2005-12-24 | JKL
【バイオニック・トミー】
Tommy JOHN

フランク・ジョーブ博士..........、
日本では村田兆治、桑田真澄、荒木大輔らの治療で
有名な医師だが、『トミー・ジョン手術』という名は
意外と知られていない。
ジョーブ博士が開発したジン帯の移植手術.....
始めての患者がトミー・ジョンである。

63年にインディアンズでデビューしたものの、
ブレイクしたのは65年に
ホワイト・ソックスに移籍してからであった、
シンカーを武器に65年から2年連続で14勝をマークすると、
7年間で82勝をあげ、
72年、ドジャースへ移籍する。
その後も74年には、それまでの
キャリア・ハイとなる16勝をマークするなど
安定した活躍を見せていた。

が、7月までに13勝を稼ぎ
絶頂期にあったハズのジョンをアクシデントが襲う。
利き腕である左腕のジン帯が切断されてしまったのだ。
再起不能が囁かれる中、彼を救ったのがフランク・ジョーブ博士であった。
手術は成功、1年半の必死のリハビリを経て、
76年10勝をマークし、カムバック賞を受賞した。
77年、20勝、
78年、17勝、
79年、21勝、
80年、21勝.....と手術前よりパワーアップした感のあるジョンは
結局46才まで投げ続け、手術後だけで、164勝を稼いだ。

不屈の精神で再起不能とまで言われた怪我を克服し、
通算288勝をあげたトミー・ジョン、
手術の事ばかりがクローズアップされるが、
シソックスに在籍した65年から
ヤンキースで投げていた83年まで
不調に終わった69年、81年と
リハビリに費やした75年を除けば
実に19年で16度の10勝以上をマークした
安定感のある名投手である。
その彼が、殿堂入りに必要な
得票率が30%に満たないとは.....
何とも理解できない事実ではある。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=116550

file.038 Mark LEMKE 【マーク・レムキー】

2005-11-23 | JKL
【小型ミスター・オクトーバー】
Mark LEMKE

通算安打795 打率.246 本塁打32本
はっきり言って平凡以下の選手であろう、
守備は堅いがレギュラー選手としては弱い、
しかし、そんな選手がポストシーズンになると
手がつけられない強打者になる事があるから驚きである。

91年、パイレーツとのプレーオフで
決勝打のきっかけを作るヒットを放ち
この後も打撃好調を維持。
ツインズとのワールド・シリーズでは
敗れはしたもののレムキーは絶好調、
第3戦でサヨナラ打、第4戦は決勝の犠飛を呼ぶ三塁打、
結局24打数10安打5打点の大活躍であった。

96年のチャンピオンシップ・シリーズでも
27打数11安打と、魔法は解けてはいなかった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=lemke

file018 Bo JACKSON 【ボー・ジャクソン】

2005-08-04 | JKL
【Bo knows】
Bo JACKSON

長いメジャーの歴史の中にあって、
他のプロスポーツと野球の掛け持ちをした選手は
恐らく大勢いるのだろうが、
ボー・ジャクソンほどの
インパクトを残した選手はいないであろう。
85年、タンパベイ・バッカニアーズとの契約を蹴り、
カンザスシティ・ロイヤルズと契約、
86年にはメジャーへ昇格する。
87年、22本の本塁打を放つと、
オフにはNFLのロサンゼルス・レイダースと契約を交わした。
ここにMLBとNFLのスーパースター、ボー・ジャクソンが誕生する。

88年、打率.246、25本塁打、68打点。
89年は、打率.256、32本塁打、105打点、26盗塁と大活躍。
同年オールスターに出場し
先頭打者本塁打を含む2安打1盗塁をマーク、
ジャクソンは全世界にその実力を見せつける。
さらにこの年、NFLのオールスターにも出場、
「趣味」のフットボールでもスターの座を獲得するのである。

メジャーリーグのスーパースター達も
ジャクソンには脱帽状態で、
多くの選手から羨望の眼差しを浴びた。

ジャクソンの魅力はパワーとスピードだが、
守備面でもその2ツールを活かし、
華麗な超ファイン・プレーを時折魅せてくれた。

90年、NFLのプレーオフに出場したジャクソンは相手のタックルを受け、
臀部を手術しなければいけない程の重傷を負う。
これ以降、ジャクソンの成績は下降し、
94年、余力を残しながらも
カリフォルニア・エンゼルスで
その太く短いキャリアを終える。
31歳の若い引退であったが、
そのユニークな存在はMLB,NFL両方の歴史で光り輝いている。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=116446

file016 Harmon KILLEBREW 【ハーモン・キルブリュー】

2005-08-02 | JKL
【キラー】
Harmon KILLEBREW

ハーモン・キルブリューは
1954年、当時としては破格の
30000ドルという契約金で
セネターズに入団した。

マイナーを経ずにメジャーデビューするが、
全く打てず、以後は苦しむ事になるが
1959年、いきなり42本の本塁打を放ち、
本塁打王を獲得、三塁手のレギュラーに定着する。

以後、苦手な守備では
三塁/一塁/左翼とコンバートを繰り返すも打棒は絶好調、
61年、46本塁打、122打点の好成績を残すと、
62年には、48本塁打、126打点で2冠王に輝く。
63年、45本塁打.....64年、49本塁打で3年連続のホームラン王、
オールスターの常連になった。

1965年はワールドシリーズの舞台も体験するが
サンディー・コーファックスを擁する
ドジャースの前に3勝4敗で敗れている。

66年から71年の6年間は、怪我で
シーズンの後半を棒にふった68年以外、
全ての年で100打点以上をマーク。
67年、44本塁打、113打点で5度目の本塁打王に輝くと、
69年も、打率.276、49本塁打、140打点で、
二冠王と、シーズンMVPに輝く大活躍を見せ、
チームを地区優勝に導いた。

72年から、その打棒に衰えが見え始め、
75年、ロイヤルズでそのキャリアを終えた。

キルブリューが活躍した60年代、
ナショナル・リーグはブラック・パワーが席巻、
ウィリー・メイズ/オーランド・セペダ
/ハンク・アーロン/ウィリー・マッコビーらが
凌ぎを削って本塁打を量産した。
60年代に本塁打王に輝いた白人は、
ナショナル・リーグにおいては皆無である。
逆に黒人選手の門戸開放が遅れたアメリカン・リーグは
キルブリューとフランク・ハワードを中心に
白人が本塁打王をほぼ独占していた。

3割を打つ事は無かったが、
40本塁打8回、100打点9回........
相手投手からは“キラー”と恐れられた。

通算本塁打573本を放ち1984年には
殿堂入りを果たしたキルブリューも、
引退後は破産や離婚を経験、
私生活では“キラー”ぶりは発揮できなかった???

ちなみに現在のMLBロゴのシルエットは
キルブリューがモデルだという説がある。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=killebrew