GUMBO

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file .284 Barry BONDS【バリー・ボンズ】

2009-12-31 | ABC
【最強のプレーヤー】
Barry BONDS


1985年、パイレーツからドラフト1位指名を受けたボンズは
86年にはメジャーデビューを果たし、
打率.223 16本塁打 48打点 36盗塁をマーク。

その後は、やや伸び悩むも
90年、打率.301 33本塁打 114打点 52盗塁と
その果てしない才能が開花。
92年にも打率.311 36本塁打 103打点 43盗塁をマークするなど
トリプル3は当たり前クラスの
球界を代表する5ツールプレーヤーとして
その名を全米に轟かす事となった。

1993年、父ボビー・ボンズも所属した
ジャイアンツへ移籍。
ゴッドファーザーのウィリー・メイズの背番号「24」を希望したが
さすがに永久欠番だったため諦め、父の「25」に収まった。

選球眼が良く三振は少ない。
バットを長く持つ事はせず、
並外れたスイングスピードでコンパクトに振り抜く、
確実性とパワーを兼ね備えた、ボンズにしか出来ない完璧な打撃。
加えて、ゴールドグラブを8度獲得するなど左翼の守備も抜群。
さらに通算514盗塁でも証明されている走塁のセンス。
ジャイアンツ移籍1年目の93年も
打率.336 46本塁打 123打点 29盗塁。
圧倒的な成績で本塁打/打点の二冠を獲得した。

以後も90年代最高のプレーヤーとして
好成績をマークし、史上初の400本塁打/400盗塁を記録するなど
快走を続けるボンズだったが、
マリナーズのケン・グリフィーや、
98年に本塁打狂騒を巻き起こしたマグワイア/ソーサなどに比べると
その評価は正当とは言い難く、全米クラスの知名度で見ると
上記スター選手よりも低い位置にいると言わざるを得なかった。

が、そんなボンズが一気にスーパースターの座に登り詰めたのが
2001年であった。
2000年も、打率.306 49本塁打 106打点という好成績だったボンズだが
2001年、打率.328 73本塁打 137打点。
98年にマグワイアが記録した年間最多本塁打70をあっさりと更新。
2002年には打率.370 46本塁打 110打点でキャリア初の首位打者を獲得、
さらに出塁率は.582...と、本塁打こそ減ったものの
圧倒的な存在感を示した。

2004年には打率.362 45本塁打 101打点に加え
120の敬遠を含む232の四球を選び、出塁率は脅威の.609。
守備/走塁に衰えは隠せなかったが、打撃では比類無き力を見せつけた。

が、この頃からボンズに「薬物使用疑惑」の影が忍び寄りつつあった。

あらゆる記事や暴露本によって、
ボンズの薬物使用は決定的となり、
アウェーの試合では、観客の激しいブーイングを受け、
グラウンドに注射器が投げ込まれた事もあった。
2007年にはハンク・アーロンの通算本塁打755を抜き去るも
疑惑の所為で全米のファンの歓迎を受けたとは言い難い状況になってしまった。
また、この年限りでジャイアンツとの契約が切れると、
その後、契約を結ぶ球団も現れず、
2009年現在、実質引退の形となっており、
数年後の野球殿堂入りの投票でも苦戦が予想されている。

父ボビーが甘やかして育てた所為か、
従兄弟にレジー・ジャクソンがいる...という血の所為か
若い頃から不遜な性格でチームメイトから孤立し、記者の受けも悪かったボンズ。
さらに薬物疑惑の影響も加わって、
バリー・ボンズといえば、メジャーリーグ史上
トップクラスのヒール.......というイメージが固まってしまっている。
また、その華々しいキャリアも、薬物の力を借りた物として
疑問視する声も多い。

しかしながら、多くのメジャーリーガーが
ボンズの打撃成績は、薬物使用が事実でも、その価値が損なわれる事は無いと語っているように
私的な考えながら、通算打率.298、762本塁打、1996打点、514盗塁、出塁率.444という輝かしい数字は
彼がメジャー史上最高のプレーヤーの一人だという事を如実に物語っていると思う。

file .283 Gil HODGES【ギル・ホッジス】

2009-12-20 | GHI
【ミラクルメッツ】
Gil HODGES


19歳でメジャーデビューを果たしたホッジスが
その後、兵役を得て
本格的に、そのキャリアをスタートさせたのは1947年。
この年は、かのジャッキー・ロビンソンの
メジャーデビューの年でもあった。

47年はキャッチャーとして
24試合に出場、打率.156で終わるが、
翌年、ロイ・キャンパネラの入団に伴い
一塁手にコンバートされると、49年、才能が開花
打率.285 23本塁打 115打点をマーク。
オールスターにも出場を果たすなど、
チームの主力打者としてブレークした。

以降、7年連続で100打点をマーク、
その間、オールスターにも毎回出場し
リーグを代表するスラッガーとして名を馳せたホッジス。
49年、打率.283 32本塁打 115打点、
52年、打率.254 32本塁打 102打点、
53年、打率.302 31本塁打 122打点....と活躍、
チームをリーグ優勝に導くものの、
ワールドシリーズではヤンキースにどうしても勝てず、
特に52年のシリーズでは、21打数無安打....と
屈辱を味わった。

55年、打率.289 27本塁打 102打点と、
相変わらずの打棒でドジャースのリーグ優勝に貢献したホッジスは、
この年のワールドシリーズで打率.292 1本塁打 5打点をマーク、
勝負どころでクラッチな活躍を見せ、
チームのワールドチャンピオンに大きく貢献。
5度目の挑戦にして、ようやくヤンクスを打ち破った。

その後も、ドジャースの主力打者として活躍するが
年齢と共に、成績も下降。
1962年にはメッツに移籍し、
63年、現役を退いた。

打撃だけでなく、一塁の守備でも好守を見せ、
ファンの人気も絶大。
ブーイングを浴びた事が無いとまで言われている....。

ホッジスが現役引退後、
再び脚光を浴びるのは1969年の事である。
68年にリーグのお荷物球団メッツの監督に就任したホッジスは、
1969年、チームを奇跡の逆転優勝に導き、
ワールドチャンピオンの座まで押し上げた。
俗にいう、ミラクルメッツの指揮者は、ホッジスである。

1972年、心臓発作で急死。

現役通算2071試合 打率.273 370本塁打 1274打点。
監督としての成功もありながら、
野球殿堂入りは果たせていない。

監督時代、
橋から飛び降り自殺を計ろうとした選手を説得し、
自殺を思いとどまらせた事もるという。

file .282 Masanori MURAKAMI【村上雅則】

2009-05-24 | MNO
【Herman take a hike!】
Masanori MURAKAMI

1962年、鶴岡一人率いる南海ホークスに入団を果たした村上は、
64年、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A、フレズノへ
野球留学という形で派遣された。

いきなりの米国生活に戸惑いもあった20歳の村上だったが、
必殺武器のスクリューボールと、アメリカで会得したチェンジアップが冴え渡り、
リリーフ左腕投手としてマイナーで結果を出し始める。
珍しい日本人選手という事で、同僚からからかわれたり、
イヤミのような事を言われる事もあったが、
血気盛んな村上は、なめられてなるものかと相対し、
周囲から認められる存在になってゆく。

本来なら6月までの野球留学だったが、
どういうわけか、ホークスから帰国の令は出ず、
そのままフレズノで投げ続け、
村上は、マッシーと呼ばれ、
いつしかアメリカでの選手生活を満喫するようになっていた。

8月31日、
メジャー昇格が伝えられる。
1Aからメジャー.....という『二階級特進』。
村上は、急ぎ、チームの遠征先ニューヨークへ飛んだ。
翌日のメッツ戦で、メジャー初登板を果たし、
この年、9試合で1勝、1セーブ、防御率1.80。
メジャーリーガーとして、日本人で初めての登板/勝利/セーブをあげ、
歴史にその名を刻んだ。
チームメイトも村上を暖かく迎え入れ、
とりわけウィリー・メイズは困った時に助け舟を出してくれたり
自宅でのパーティーに招待したりと、何かと気を配ってくれたという。

翌65年、村上はこの年もジャイアンツと契約していたが、
南海が返却を要請。
両球団は、所有権をめぐり、激しく対立する。
結局、65年のみ、ジャイアンツでプレーするという形で双方が和解。
マッシー村上は、メジャーで一ヶ月遅れの開幕を迎えた。

当時のジャイアンツは、野手にウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビー、オーランド・セペダら
投手にホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリー、ウォーレン・スパーンらを擁する
後に殿堂入りを果たすスターがゴロゴロいるタレント集団であった。
村上はそんな面々と並んでチームの勝利に貢献、
二年目の65年も、45試合で4勝1敗、8セーブ、防御率3.75と大活躍。
8月には『ムラカミデー』も開催され、メジャー初先発、
3回も持たずにKOされるが、打線が奮起しチームは勝利を飾った。

ウィリー・メイズの超絶守備をバックに投げ、
ロベルト・クレメンテから三振を奪い、
サンディ・コーファックスからヒットを放つ...........。
かの有名なホアン・マリシャルとジョニー・ローズボロの乱闘騒ぎも
村上はその場にいた。
パーティーでジャッキー・ロビンソンやスタン・ミュージアルとも交流を持った。

ある試合では、キャッチャーのジャック・ハイアットから
「マウンドに監督(ハーマン・フランクス)がやってきたら
 Herman take a hike!と言えばいい」とアドバイスを受け、真に受け、実行。
Herman take a hike!とは『おととい来やがれ!!! ハーマン!!』という意味。
キョトンとする監督と試合中にも関わらず大爆笑する内野陣。
この事件は翌日の新聞に大きく扱われ、
『Herman take a hike!』はマッシー村上の代名詞となった。

66年からは、契約通り、日本球界に復帰。
南海や日ハムなどで、計103勝をマークした。

マッシー村上、真の『パイオニア』である。

file .281 Lou PINIELLA【ルー・ピネラ】

2009-05-23 | PQR
【sweet lou】
Lou PINIELLA

1969年、ロイヤルズで本格的なキャリアをスタートさせたピネラ。
主にレフトを守り、打率.282、11本塁打、68打点で、新人王を獲得。
翌70年も打率.301、11本塁打、88打点を叩きだし、
チームの主力の一人として活躍した。
72年には打率.312、11本塁打、72打点をマーク、
初のオールスター出場も果たし、その名を大いに売った。

74年、30歳でヤンキースへトレード。
移籍一年目こそ、打率.305、9本塁打、70打点と安定した打撃を見せたが
75年、76年は、怪我の影響もあって不調をかこった。

77年、あのレジー・ジャクソンがヤンキースへ移って来た年。
ピネラは規定打席には足りないものの、打率.330、12本塁打、45打点と復調。
ドジャースとのワールドシリーズでも3打点をあげる活躍を見せ、
チームの世界一に貢献した。

その後も、78年に打率.314、6本塁打、69打点をマークするなど
勝負強い打撃で、レジー・ジャクソン、サーマン・マンソン、ミッキー・リバースといった
アクの強い面々と並び、チームの勝利に貢献したピネラ。
結局84年までプレーし、ヤンキーズのユニホームで現役を引退した。

通算1705安打、102本塁打、766打点、打率.291。

現役時代のピネラは、熱血漢で激情家。
スウィート・ルーなるニックネームで呼ばれていた程のハンサム・ガイだったが、
チャンスで凡退などした時には、
興奮状態でベンチに戻り、バットでウォータークーラ、椅子、天井のライト........etc
手当たり次第に破壊しつくした。
ピネラがこの状態になると、さしものレジー・ジャクソンも武闘派ビリー・マーチンも
立ち向かう事は敵わず、及び腰になって逃げ回った。

また、スタンドから罵詈雑言をファンから浴びせられた際には
「打てないのはテメエの所為だ。テメエのワイフがしつこいから
 俺はいつもクタクタだ。あの女をベットから連れ出してくれさえすれば、俺の体力も復活するんだがな!!」
などとやり返したという。

現役引退後は、レッズやマリナーズの監督として采配をふるい、
しばしば、現役時代を彷彿とさせる、瞬間湯沸かし器ぶりを見せつけている。


file .280 Joe TORRE【ジョー・トーリ】

2009-05-16 | STU
【名選手/名監督】
Joe TORRE

1960年、19歳でフリーエージェントとして
ミルウォーキー・ブレーブスと契約を交わしたトーリ。

その年にはメジャーデビューを果たし
翌61年には正捕手としてレギュラーを獲得、
ハンク・ハーロン、エディ・マシューズといった錚々たる面々と共に
チームを支える一角を担った。

63年、打率.293、14本塁打、71打点をマークすると
64年には打率.321、20本塁打、109打点と打撃開眼。
65年は打率.291、27本塁打の猛打に加え、
ゴールドグラブも獲得するなど、
24歳にしてアーロン、マシューズに並ぶ、
チームの中心選手となった。

66年も打率.315、36本塁打、101打点...と好成績を残し、
63年~67年まで5年連続でオールスターに出場。
押しも押されぬリーグのトップ選手となったトーリだったが
69年、カージナルスへトレード入団すると、
同じポジションに名捕手ティム・マッカーバーがいた影響で
内野手にコンバート。
主に、一、三塁を守りながら、打棒でチームに貢献、
70年、打率.325、21本塁打、100打点、
71年には打率.363、24本塁打、137打点、
首位打者と打点王の二冠に加え、最多安打、シーズンMVPにも輝き、
最高のシーズンを送った。

75年からメッツでプレー、
77年にはシーズン途中からプレーイングマネージャーとなるも
この年限りで現役を退いた。

その後、
メッツ、ブレーブス、カージナルスで采配をふるったものの
さしたる結果を残せず、名監督と呼ばれるには程遠かったトーリだったが、
96年にヤンキースの監督に就任すると運命が変った。
ポール・オニール、ティノ・マルティネス、デビッド・コーン、
チャック・ノブロック、クレメンス、さらには
バーニー・ウィリアムス、デレク・ジーター、
ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラら、
チームの勝利に並々ならぬ執念を燃やすプロ集団を見事にまとめあげ、
12年間で地区優勝10度、リーグ優勝6度
ワールドシリーズ制覇を3年連続を含む4度、達成するなど
名将の名を欲しいままにした。

2008年からはドジャースを指揮、
08年はチームを地区優勝に導いている。

選手としては通算2342安打、252本塁打、1185打点、打率.297。
名監督として名高い人物であるが、
選手としても一流であった。


file .278 OIL CAN BOYD【オイルカン・ボイド】

2009-02-20 | ABC
【缶ビール・ボイド】
OIL CAN BOYD

メジャーリーグ史上、屈指のカラフルな投手である。

1980年、レッドソックスに入団したボイドは
83年、本格的にメジャーデビューを果たし、
防御率3.28、4勝8敗...とまずますの成績を残した。

翌84年は、ローテーションの一角を占め、防御率4.37、12勝12敗。
85年は、272イニングを投げ、防御率3.70、15勝13敗...と
ブルース・ハーストや、若きロジャー・クレメンスらと共に、チームを支え、
86年は防御率3.78、16勝10敗で、リーグ優勝に大きく貢献、
リーグを代表するピッチャーの一人に成長した。

ボイドの名を全国区にまで知らしめたのは
投手としての実力だけでは無く、
むしろ、そのキャラクターの濃さであった。
エキセントリック/短気/派手なパフォーマンス....。
相手打者を打ち取ると、腕を突き上げ咆哮し、
時には、手をひらひらとそよがせて打者を小馬鹿にするような仕草をしてみせた。
86年、好成績を残していながらオールスターに選ばれなかった時は
我を忘れて怒り爆発、精神病院に担ぎ込まれ、
さらに同年、ワールドシリーズ7戦の先発を天候の影響で逃すと、
(スライド登板出来ず、ハーストにその座を奪われた)
子供のように泣きじゃくった。
尊敬するサッチェル・ペイジを真似て
『シンキング・シンカー』『スリッパリー・スライダー』など、
自分の持ち球に名前を付けたりもした。
ちなみに本名はデニス・ボイド。
『オイルカン』のニックネームは、ボイドが大のビール好きで
マイナー時代、試合前に6本もの缶ビールを飲んでいた事に由来する。
ボイドの故郷、ミシシッピでは、ビールをオイルと呼んでいたのだ。

ともあれ、メジャーリーグの名物男として
知られるようになったボイドだが、
87年以降は、腕の故障もあって、精彩を欠いた。
90年にエクスポズへ移籍し、防御率2.93、10勝6敗と好成績をおさめ
久方ぶりに光を放ったが、それまで。
91年を最後にメジャーリーグの世界から姿を消した。

.......が、しかし
『50歳まで投げるのが夢』と語りしボイドが
31歳で夢を捨てるわけが無かった。
その後、97年まで独立リーグを中心に投げ続け、
2005年、45歳にして、独立リーグの『カナディアン アメリカンリーグ』の
ブロックトン・ロックスと契約。
17試合を投げ、防御率3.83、4勝5敗、69三振と、
年齢を感じさせない投球を披露した。

メジャー通算78勝77敗、防御率4.04。

50歳まであと一歩の今も、
虎視眈々とメジャー復帰を目指している.......かもしれない。


file .277 Ray KNIGHT【レイ・ナイト】

2009-01-30 | MNO
【良妻】
Ray KNIGHT

1970年、ドラフト10位でレッズに入団したナイト。
74年にメジャーデビューを果たしたが、
思うような結果を残すには至らなかった。
また、75~76年の間、まさに『ビッグ・レッド・マシーン』の絶頂期には
メジャーでのプレーを果たせず、歴史的チームの一員になり損なってしまう。

77年に再度メジャーへ昇格し、
78年までの2年間、80試合程度の出場ではあるが
着実に力を付けていく。

78年オフ、ピート・ローズがチームを去り、
三塁のポジションが空くと、
ナイトに、そのポジションが与えられた。
ようやく定位置を得た26歳のナイトは奮起し、
79年、打率.318、10本塁打、79打点でブレーク。
MVP投票で5位につけるなど、大躍進する。

82年、アストロズへトレード移籍すると
この年、打率.294、6本塁打、70打点
83年も打率.304、9本塁打、70打点....と
抜群の安定感でチームに貢献。
レッズ時代に続き、新チームでもオールスター出場を果たすなど、
順風満帆に見えたナイトだったが、
84年、シーズン途中でメッツに移籍すると、
85年、打率.218、6本塁打、36打点.....と
極端に成績を落としてしまう。

『奴はいらない。放出してしまえ』
メッツのフロントはナイトを終わった選手として
不要論をぶちまけたが、
監督のデーブ・ジョンソンは、頑なにそれを拒否した。
ナイトの経験を必要な力と信じたのである。

そのオフ、意気に感じたナイトは猛ハッスル、
減量に務め、自宅の庭に設置したバッティングケージで
打撃練習に没頭した。
「頑張って、メッツのサードはあなたのポジションよ!!!」
82年に娶った二人目の妻ナンシー・ロペス(殿堂入りの名女子ゴルファー)
は、夫の練習中、可能な限り傍らにおり、エールを送った。

86年、ナイトは、ハワード・ジョンソンやケビン・ミッチェルといった
イキのいい若手選手を制して三塁の定位置を獲得、
打率.298、11本塁打、76打点...と華麗に復活。
カムバック賞を受賞したばかりか
レッドソックスとのワールドシリーズでも
打率.391、1本塁打、5打点、4得点の大暴れ!
メッツの世界一に大きく貢献し、シリーズMVPを獲得。
監督の妻の恩に十二分に報いたのであった。

86年の大活躍で燃え尽きてしまったのか、
ナイトは88年、タイガースでそのキャリアを終える。

通算1495試合、1311安打、84本塁打、打率.271。


file .276 Bill BUCKNER【ビル・バックナー】

2009-01-29 | ABC
【Billy Buck is BACK!!!!!!!!】
Bill BUCKNER

ビル・バックナー=WSでのトンネル....。
一度付いてしまったイメージはいかんともし難いが、
バックナーは、当時メジャーでも屈指の、打撃の職人であり、
60~90年代にわたりメジャーに在籍した
4ディケードプレーヤーでもある。


1968年、ドラフト2位指名でドジャースに入団したバックナー。
71年、21歳の若さでメジャーデビューすると、
72年には打率.319、5本塁打、37打点をマーク、
早くも、その好打者ぶりを発揮する事となる。

74年には打率.314、7本塁打、58打点、31盗塁、
76年は打率.301、7本塁打、60打点、28盗塁...と
安定した成績を残していたバックナーだったが、
77年、トレードでカブスへ移籍。
新天地でも78年に打率.323、5本塁打、74打点、
80年には打率.324、10本塁打、68打点で首位打者を獲得するなど活躍。
リーグを代表するヒットマシーンとしての地位を確立した。

バットコントロールに秀で、三振は少ないが
その一方で、早いカウントから打ちに行くので四球も少なく
出塁率は高く無い。
元々は外野手 兼 一塁手だったが、カブス移籍に伴って
本格的に一塁手へコンバート。
名手までとはいかないまでも、守備は悪くは無かった。

その後もカブスの主力打者として活躍、
82年には打率.306、15本塁打、105打点...と
勝負強いクラッチヒッターぶりも見せつけた。

84年、打率.209と低迷するバックナーは
シーズン途中でレッドソックスへトレード移籍、
初のアメリカンリーグであったが、
新天地では打率.278、11本塁打、67打点と
期待通りの働きをしてみせた。

85年、打率.299、16本塁打、110打点と、
ベテランらしい渋い活躍を見せ、
86年も打率.267、18本塁打、102打点..でチームを牽引、
ウェイド・ボッグス、ジム・ライスらと共に、
無くてはならない貴重な戦力として
レッドソックスのリーグ優勝に大きな貢献を果たした。

.......が、思わぬ出来事がバックナーを襲う。
メッツとのワールドシリーズ、
レッド・ソックスが3勝で優勝にリーチをかけた第6戦。
ランナーを置いた状況で、メッツのムーキー・ウィルソンの一塁ゴロをトンネル、
決勝の走者を還してしまい、
チームのサヨナラ負けを大いに演出してしまう。

結局、ワールドシリーズはメッツが制し、
バックナーは最大の戦犯として、
ファンから非難を浴びる事となってしまった。

その後、エンゼルス、ロイヤルズと渡り、
90年、因縁のレッドソックスで22年におよぶキャリアの幕を降ろした。

通算2715安打、183本塁打、1208打点、打率.289。

殿堂入りは果たせず、
バックナーについて語られるのは常にエラーの事ばかりである。
が、10回裏、あと1つアウトを取れば勝ち...という、二死走者無しの状態から、
三連打&ワイルドピッチで同点......。
これは異常ともいえる状況であり、件の敗戦はバックナーの所為とは言い難い。
結局、バックナーは、この歴史的敗戦の責を一人で背負わされてしまったに過ぎないのである。

2008年4月、フェンウェイパーク、
レッドソックスの本拠地開幕戦のオープニングセレモニーは
バックナーの始球式がハイライトであった。
すでにバンビーノの呪いは解かれ、
満員の観客はバックナーに割れんばかりの歓声を送った。
こみ上げる涙をこらえられないバックナー。

バックナーの長い『トンネル』が終わった瞬間であった。

file .274 Max PATKIN【マックス・パトキン】

2009-01-27 | PQR
【クラウン・プリンス】
Max PATKIN

アメリカ野球ファンなら
知っておいて欲しい、有名な『野球道化師』である。

元々は、150km以上の速球を投げる速球投手だったパトキン。
が、制球力がからっきしの三級品だった事と
腕の故障でメジャーへは、上がれないでいた。

1944年、兵役に就いたパトキンは
同じく兵役中のジョー・ディマジオと
戦地での試合で対戦する機会を得た。
メジャーを代表するスター、大ディマジオと
ノーコンの三流投手では勝負になるわけもなく、
ポカーンと大ホームランを打たれてしまう。
が、この被弾がパトキンの人生を大きく変える事となるのだ。
ダイアモンドを優雅に回るディマジオの後を、
その真似をして、フザけて付いて回るパトキン。
球場は、大きな笑いに包まれたのであった。

兵役から戻ったパトキンは、
戦場での爆笑が忘れられなかったのか、
マイナーの試合で、同僚の物真似や、変テコなダンスで
ベンチや、観戦客を楽しませる方に夢中になっていた。
その噂を聞きつけたインディアンズのオーナー、ビル・ベックは、
パトキンを引き抜き、チームの『お笑いコーチ』に任命。
一塁コーチャーズボックスで相手捕手のサインを盗み見るジェスチャーなど
その『芸』は多くのファンを楽しませ、
球団の集客増加に大きな貢献を果たした。

やがて、もう役目は終わった....と考えたベックにより
マイナー・リーグに戻されたパトキンは
野球選手の道をあきらめ、現役引退。
ジョー・ディマジオの後押しもあって、
フリーの『野球道化師』として生きる道を選んだ。

野球道化師・パトキンは、
マイナーリーグの試合を中心に、
呼ばれれば、何処へでも駆けつけ、
ファンを楽しませた。
ゴムのように自在に変化する顔芸や
お得意の、変テコダンスに物真似。
グラウンド上をひたすらゴロゴロ転がると思えば、
砂塵を巻き上げる派手なスライディングを敢行。
口に含んだ水を観客や選手に噴射し、
バッターボックスに向かう選手の頬にキス。
キャップを斜めにかぶり、背番号『?』のヨレヨレのユニホームに身を包んだ
マイナーリーグの人気者は
いつしか『ベースボール・クラウン・プリンス(野球界の道化師王子)』
と、呼ばれるようになり、
約50年、毎日休む事なく土まみれになりながら、
4000試合に〝出場〟し続けた。

95年、怪我を理由に〝引退〟するが、
道化師王子は74歳になっていた。

1999年、79歳で死去。

3000本安打に500本塁打、300勝.........、
球界には、幾多の偉大な選手が存在するが、
パトキンのような人物も、彼らに負けず野球を愛した
堂々の殿堂級人物でろう。

file .273 Charlie LAU【チャーリー・ロウ】

2009-01-22 | JKL
【ロウ師】
Charlie LAU

1956年から11シーズンに渡り、
タイガースや、オリオールズで
捕手としてプレーしたロウ。
選手としては、通算527試合、打率.255、16本塁打、140打点...と
平凡以下の成績しか残せず、67年に現役を引退する。

ロウの名が広く球界に知れ渡るのは
コーチとしてロイヤルズに入団してからであった。

打席で前屈み状態になり、
体重を軸足にかけ、ボールを待ち、
そして身体をひねるようにスイングする。
前屈み状態になる事でストライクゾーンを狭め、
打球は右へ左へ打ち分けるスプレーヒッティングを心がける。

その打撃法はメジャーリーグに広がり、
それまで打撃のバイブルとされていた
テッド・ウィリアムスの論理に取って変ったと言われており、
当のテッドはロウの方法論を忌み嫌っていたという...。

ロウの一番弟子といえば、
何と言ってもジョージ・ブレットであろう。
師の教えに忠実に従ったブレットの偉業は
今更語る事も無い事である。

特に76年は、ブレットとハル・マクレー、
同じ師を持つチームメイト同士が
激しい首位打者争いをくり広げ、
(結果は1厘差でブレットに軍配)
ロウの名を一層、世に知らしめる事となる。

他にも、ピート・ローズやトニー・グウィン、ウェイド・ボックスら、
錚々たる面々に影響を少なからず与えた...と考えられている。

1984年、51歳の若さで癌の為、死去。

ブレットは語る。
「ロウの教え.......、当初は、それが私の人生を
 どれほど変える事になるか、全く解っていなかったよ」


file .272 Bill GULLICKSON【ビル・ガリクソン】

2009-01-21 | GHI
【インスリン投手】
Bill GULLICKSON

高校時代、2年で23勝をあげ、
ノーヒットノーランを3度も達成する怪童ぶりを見せつけ、
1977年、ドラフト1位指名で
モントリオール・エクスポズに入団したガリクソン。
80年、21歳の時に本格的なメジャーデビューを果すと、
この年、防御率3.00、10勝5敗の好成績で
新人王投票2位に付ける活躍を見せ、
チームのローテーション投手の座を獲得する。

その後、
82年防御率3.57、12勝、
83年は防御率3.75、17勝をあげるなど
エクスポズの主力投手として活躍。
80~85年の6年間、200イニング以上登板が3度、
10勝以上が5度、防御率は3点台を切った事はなく、
絶対的なエースとは言わないまでも、
ローテーションをきっちり守る、
優秀なイニング・イーターぶりを発揮する。

86年にはレッズに移籍するが、
ここでも防御率3.38、15勝をマークし、
87年はレッズとヤンキースで14勝をあげた。

88年、日本のジャイアンツへ通算101勝の実績をひっさげてFA移籍。
1年目は、防御率3.10、14勝をマークして
前年に現役を引退した江川卓の穴を埋める活躍を見せるが、
2年目は怪我に泣き、思うような成績を残せず、退団する。

アメリカに戻ったガリクソンは、
90年、アストロズで防御率3.82、10勝の成績を残すと、
翌91年はタイガースで防御率3.90、20勝。
キャリア唯一のタイトルとなる最多勝を受賞する。

その後、2年連続で10勝以上をマークし、
94年に現役を引退。

通算398登板、162勝、防御率3.86。

現役中は糖尿病を患っており、インスリンを打ちながら投球を続けた。

ジャイアンツ(日本)時代にチームメイトだった桑田真澄とは
固い友情で結ばれ、息子のミドルネームを『クワタ』とした程。


file .271 Rey ORDONES【レイ・オルドネス】

2009-01-17 | MNO
【the man from cuba】
Rey ORDONES

キューバはハバナ出身のオルドネス。
1996年、アメリカに亡命し、ドラフト外入団でメッツと契約、
その年、メジャーデビューを果たした。
(亡命キューバ人としては史上2人である。)

打率.257、1本塁打、30打点、1盗塁と
打撃面では非力で出塁率も低く、見るべき点は皆無であったが、
オルドネスの武器はその遊撃守備にあった。

守備範囲がズバ抜けて広く、
頻繁に見せるアクロバッティングなフィールディングは
見る者を、おおにに魅了した。

守備に堅実さが加わった1997年からは
99年まで3年連続でゴールドグラブを受賞し、
オジー・スミスですら
「ありゃ俺の再来だぜ」と公言してはばからず、
その世の常のものとは思えない華麗な守備は、
日本のスポーツ番組も、単独でオルドネスを特集した程であった。

99年は、4失策で守備率.994をマークし
101試合連続無失策の記録を樹立したものの、
2000年、東京での開幕シリーズでエラーしてしまい
記録がストップしてしまう....という事もあった。

守備では他を寄せ付けない存在感を見せつけていたオルドネスだったが、
打撃だけは上達する事は無かった。
99年にマークした打率.258、1本塁打、60打点、出塁率.319という数字が
キャリアハイな位である。

2004年にカブスで23試合プレーしたのを最後に
メジャーではプレーしていない。

通算9年間で、打率.246、12本塁打、287打点を記録。

打撃スタッツでは平凡以下の数字しか残せなかったが
その守備は、永くメジャーファンの間で語り継がれるであろう。


file .270 Thurman MUNSON【サーマン・マンソン】

2008-12-31 | MNO
【captain of the bronx zoo】
Thurman MUNSON

1969年にメジャーリーガーとしての
キャリアをスタートさせたマンソン。
翌70年には打率.302、6本塁打、53打点で、新人王を獲得。
ファイト溢れるプレーと勝負強い打撃を見せ
プロ2年目にして、名門ヤンキースの正捕手の座を確固たるものにした。

73年には打率.301、20本塁打、74打点をマークするなど
クラッチヒッティングに定評のあったマンソンは、
75年には4番打者を任されるようになり、
打率.318、12本塁打、102打点と、その期待に見事に応えてみせた。

チームに勝利に貢献するべく、頑丈な身体でホームベースを死守、
自分の出来得る最大限のパフォーマンスを怠る事は無かった。
そんな熱いプレーをチームの首脳も見逃す訳もなく、
マンソンは、76年ゲーリック以来となる、チームの『キャプテン』に指名される。

意気に感じたマンソンは打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁と
変らぬ勝負強い打撃を披露し、チームをリーグ優勝に導き、
シーズンMVPを獲得。
レッズとのワールドシリーズを制する事は出来なかったものの、
自信は打率.529と気を吐き、
キャプテン・マンソンは、リーグを代表するキャッチャーにまで登りつめた。

77年、ヤンクスとマンソンに大きな転機が訪れる。
FAでレジー・ジャクソンがチームに入団したのである。
自己顕示欲と、エゴの固まり....、
自尊心は果てしなく高い...............。
尊大なジェクソンは、チーム内での己の立場を確固たるものにするべく、
チームリーダーのマンソンを批判し始めた。

が、そんな挑発にマンソンが動じるわけもなく、
打っては、3番打者として打率.308、18本塁打、100打点、
守っては、ギドリーや、ハンターらを巧みにリードし、
人望厚いキャプテンとして個性派揃いのチームを見事に統率、
チームをリーグ優勝に導いた。
レジー・ジャクソンが大爆発したドジャースとのワールドシリーズでも、
負けじとばかりに打率.320をマークし、
ヤンキースの世界一に大きな貢献を果たした。

78年も世界一のリングをゲットしたマンソンだったが、
79年に悲劇が待ち受けていた。
8月2日、自らが操縦した自家用機が墜落し、
32歳で、その命を落としてしまったのだ。

通算1423試合、1558安打、打率.292、113本塁打、701打点。

口べたで、マスコミとの折り合いは決して良くなく、
その所為か、ファンからも、無愛想と誤解されていたというマンソン。
が、実際はジョーク好きの明るい性格で、
チームメイトからは絶大な信頼を置かれていた。

ライバルのカールトン・フィスクを異常なまでに意識し、
フィスクの守備成績まで常に調べていたという。

レッズのスパーキー・アンダーソンは、
自軍の名捕手ジョニー・ベンチと比較し、
「ベンチとマンソンを比べるなぞ、ベンチに失礼だよ」などと宣ったが、
マンソンも前述のフィスクやベンチに比肩しうる名捕手であった。

その死から数日後、
ヤンキースタジアムでマンソンの追悼セレモニーが行われた。
「He lived. He led. He loved」
~彼は生き、導き、愛された~
弔辞を読み上げたボビー・マーサーは
この日、サヨナラ打を含む2本のホームランを放ち、
天国の親友に勝利を捧げたのであった。


file .269 Lonnie SMITH【ロニー・スミス】

2008-12-17 | STU
【3つのリング】
Lonnie SMITH

1974年、ドラフト1位指名でフィリーズに入団したスミスは
80年、100試合、打率.339、3本塁打、20打点、33盗塁...という
見事な成績をおさめ、チームのリーグ優勝に大きく貢献、
ロイヤルズとのWSでも打率.263と健闘、
世界一の覇業の一翼を担い、
華々しい活躍で、スピードスター誕生と相成った。

81年、怪我で62試合の出場にとどまるも打率.324、21盗塁をマークすると、
そのオフ、カージナルスへトレード移籍。
打率.321、8本塁打、69打点、68盗塁、
シーズンMVP投票で2位につける活躍で
チームをリーグ優勝に導くと、
WSでも打率.321をマーク。
ブルワーズを撃破し、2個目のリングを手に入れた。

83年も打率.321、8本塁打、45打点、43盗塁と
看板通りの活躍ぶりを見せたスミスだったが、
ドラッグ服用が明るみに出て、
85年、シーズン途中でロイヤルズへ放出さる。
.........が、驚くべき事に、
移籍先でもスミスは打率.287、6本塁打、41打点、40盗塁と大活躍、
なんと、チームはリーグ優勝し、
自分を追い出した因縁のカージナルス相手のWSでも、
『コノウラミハラサデオクベキカ』とばかりに
打率.333、4打点、2盗塁の大暴れ。
大いに溜飲を下げる3度目のリングをゲットした。

87、88(この年からブレーブス)と
怪我でそれぞれ40試合程度の出場にとどまったスミス。
89年、打率.315、21本塁打、79打点、25盗塁をマークし、
91年は打率.275、7本塁打でブレーブスはリーグ優勝。
在籍4球団目で4度目となるWSで、スミスは致命的なボーンヘッドを犯してしまう。
ツインズとの対戦となったこのシリーズ、
勝負は7戦目までもつれこむ。
スミスは0-0で迎えた8回にヒットで出塁。
次打者のテリー・ペンドルトンは外野フェンスにブチ当たる長打を放つ。
スミスの脚力なら悠々とホームに帰還できる当たりだったが、
彼は、セカンドベースにスライディングしてしまう。
理由はツインズの二塁手/チャック・ノブロックと遊撃手/グレッグ・ギャグニーであった。
打球を見ないで走るスミスのクセを知っていたのか、
二人は内野ゴロダブルプレーのジェスチャーで
この一塁走者をまんまを騙したのであった。
事態に気づいたスミスは慌てて3塁まで走るも、その後得点には至らず、
試合は延長10回、1-0でツインズが勝ち、WSを制覇した。
スミスはブレーブスファンから轟々の避難を浴びてしまう。

その後、92年にもWSに出場したがチームは敗退。

94年、スミスは38歳で現役を引退する。
最後の球団はオリオールズであった。

通算1613試合、1488安打、打率.288、533打点、370盗塁、出塁率.371、
巧打と選球眼と快速を併せ持った素晴らしいリードオフマンだった。

余談になるが、1999年あたりから
チャック・ノブロックは謎の「悪送球病」いわゆるイップスに悩まされる事になる。
野球ファンはそれを「ロニー・スミスの呪い」........と、まことしやかに噂した..........(?)


file .268 Buck LEONARD【バック・レナード】

2008-12-16 | Negro League
【黒いゲーリック】
Buck LEONARD

父親が、鉄道のボイラーマンをしていた事もあってか、
小さい頃は、駅で靴磨きしていたというレナード。
1933年、世界恐慌の際、この時働いていた駅の売店の仕事を失い、
25歳でブルックリン・ロイヤル・ジャイアンツと契約を交わしたが、
翌34年、彼のレナードのプレーに惚れ込んだスモーキー・ジョー・ウィリアムスの紹介で
ホームステッド・グレイズへ移籍。
ここで、ジョシュ・ギブソンと出会う。
強打のレナードは、同じく強打のギブソンと
パワーデュオを結成、その豪打ぶりは
多くの対戦相手を震え上がらせた。

一塁の守備も超一流、
なめらかなグラブ捌きと、バント処理の上手さには定評があり、
かのジョージ・シスラーと比肩すると言われる一方、
当時のメジャーリーガにも、彼以上の守備力を持った一塁手はいなかった....
とも言われている。


当然、ファンからは絶大な人気を誇り、
オールスターには12回出場。
メジャーリーグオールスターとの対戦にも
8試合プレーし、打率.500の大活躍。
ニグロリーグ側の勝利におおいに貢献し、
当時、メジャーのコミッショナーだった
悪名高きケネソー・ラウンディスをして
「もう、あいつらとは試合をしない」と言わしめた。

詳しい数字はほとんど残っていないレナードだが、
1940年、打率.383、
1948年には打率.391、42本塁打をマークしている。

ニグロリーグのシーズンオフには
プエルトリコ、キューバ、
ベネズエラでもプレーしていたというレナード。

1952年、44歳のレナードに、
ブラウンズのオーナーだったビル・ヴェックが声をかけた。
メジャーでプレーする夢は当然持っていたレナードだったが
「俺が入団する事で、多くの人に迷惑がかかる。
 まだまだこれからの若い選手だって一杯いるんだしな」と
ブラウンズ入りを固辞したという。

引退後は、体育教師や、マイナーチームの役員などを勤め、
94年に行われたピッツバーグでのオールスターには
名誉主将として招かれ、多くの観衆の前で
グレイズのユニホーム姿を披露した。

ニグロリーグでの生涯打率は、.341

1972年、野球殿堂入り。
1997年、死去。