GUMBO

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file .299 Jim GILLIAM【ジム・ギリアム】

2011-09-30 | GHI
【ジュニア】
Jim GILLIAM

1951年、ニグロリーグの
ボルチモア・エリートジャイアンツから引き抜かれ、
ブルックリン・ドジャースと契約したギリアム。

53年にデビューすると
打率.278 6本塁打 63打点 21盗塁、
さらに100四球 出塁率.383と抜群の選球眼を発揮。
見事、新人王に輝いた。

54年も打率.282 13本塁打 52打点 出塁率.361と
安定した働きでチームに貢献、
『ジュニア』の愛称で呼ばれファンに愛された。

非力に加え、決してスピードスタータイプでも無い。
が、ギリアムはフォア・ザ・チームに徹したプレーで
ブルックリンの個性派集団の一翼を担っていた。
三振は少なく、四球は多い粘っこい打撃スタイル。
守備でもユーティリティぶりを発揮し、
二塁を中心に内外野を転々としたが
どこを守っても堅実な守備を見せた。
野球偏差値のレベルが高いプレーヤーであったといえよう。

55年、打率.249 7本塁打 40打点 出塁率.341で
チームのリーグ優勝に貢献すると、
宿敵ヤンキースとのWSでも
打率.292 出塁率.469(!)、
7試合で8つの四球を選ぶいぶし銀の働きでヤンクス撃破に大きく貢献。
勝利の美酒に酔い痴れた。

翌56年は打率.300 6本塁打 出塁率.391とキャリアハイの成績を残し、
オールスターにも出場。

58年にチームがブルックリンからL.Aに移ってからも
世界一に輝いた59年にリーグトップの96四球(打率.282 3本塁打)を選ぶなど、
貴重な脇役として活躍した。

打率282 6本塁打 49打点 19盗塁 出塁率.354をマークした63年、
チームはサンディ・コーファックスの活躍で世界一に輝いたが、
レギュラーメンバーの中で、
55年にブルックリン・ドジャースとして活躍した選手はギリアム一人となっていた。

結局66年までプレー、65年にもWS制覇に貢献し
14年のキャリアで4度の世界一を経験した。

現役引退後はアフリカ系黒人としては初のコーチとして
チームを支えていたが、78年のシーズン中に急死した。

通算1889安打 65本塁打 558打点 打率.265 203盗塁
通算四球数1036、出塁率.360。

フォア・ザ・チームの化身とも言うべき名選手であった。

file .298 Deion SANDERS【ディオン・サンダース】

2011-09-29 | STU
【ネオン・ディオン】
Deion SANDERS

高校~大学時代、
野球/バスケ/アメフト/陸上と
あらゆるスポーツで才能を発揮。
若きトップアスリートとしてその名を馳せたサンダースは
1988年、ドラフト27位でヤンキースに入団。

89年春にメジャー昇格し、
14試合で打率.234 2本塁打をマークすると
6月にはNFLのファルコンズからドラフト1位指名を受ける。
紆余曲折の末、ファルコンズとも契約を交わしたサンダースは
8月のアメフトでの開幕戦でタッチダウンを決め、
また同じ週に野球でホームランを放つという離れ業をやってのけた。

派手好きで目立ちたがり屋、
ファッションも含めた、きらびやかなその佇まいから
「ネオン・ディオン」のニックネームで呼ばれたサンダース。
一方でトラブルメーカーとしても一流で、
チーム、チームメイト、ファン、解説者に至るまで
あらゆる人々を敵に回した。
怠慢プレーを批判したカールトン・フィスクとは
人種問題を持ち出して論争した程だったという。

90年打率.158に終わったサンダースは
91年、ブレーブスへ移籍。
この年も打率.191に終わり、
才能を発揮して活躍していたアメフトとは違い、
野球では苦戦を強いられていた。

が、92年、97試合で打率.304 8本塁打 28盗塁をマークしブレーク。
ようやく二刀流としての成功をおさめる事と相成った。

93年、95試合 打率.276 6本塁打 19盗塁(ブレーブス) 
94年、92試合 打率.283 4本塁打 38盗塁(ブレーブス→レッズ)
持ち前のスピードを活かしたプレーで
安定した活躍をみせていたサンダースだったが、
アメフトでも大活躍。
94年には最優秀守備選手賞を受賞し、49’Sをスーパーボウルに導き、
95年度もカウボーイズでスーパーボウル出場を果たした。

96年はNFLに専念したサンダース、
97年、レッズに復帰すると
打率.273 5本塁打 56盗塁をマーク。
一旦、この年限りで野球は引退し、
2001年に再復帰。
この年、正式に引退を表明した。

野球では通算558安打 39本塁打 打率.263 186盗塁と平凡な数字に終わったが
アメフトでは通算8回のプロボウル出場に加え、
1990年代のオールタイムディケイドプレーヤーに選ばれるなど多大な実績を残した名選手であり、
2011年には殿堂入りも果たしている。

ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手である。

file .297 Tino MARTIEZ【ティノ・マルティネス】

2011-09-28 | MNO
【バンティーノ】
Tino MARTIEZ

1988年、マリナーズから1位指名を受けプロ入りしたマルティネス。
大学時代に強打者として名を馳せ、ドラフト後に開催されたソウル五輪では
四番打者としてアメリカの金メダル獲得に多大な貢献を果たした。

1992年に打率.257 16本塁打 60打点をマークし、
チームのレギュラー選手に成長したマルティネスは、
95年には打率.293 31本塁打 111打点・・・ようやくその才能を開花させた。

翌96年はヤンキースにトレード移籍。
117打点をマークし、チームのリーグ優勝に貢献。
ポストシーズンでは不振を極め、ブレーブスとのWSでは
打率.091 0打点とドン底の絶不調に陥るも、
チームは世界一に輝いた。

97年、打率.296 44本塁打、141打点とMVP級の成績を残すと
98年以降、4年連続で90打点以上を叩きだすと共に、
ポストシーズンでも印象に残る活躍をみせ、
98~2000年の3年連続世界一に大きく貢献。
派手さは無いものの、勝負強いバッティングと堅実な守備。
勝利に対する飽くなき姿勢はポール・オニールと双璧で、
トーリヤンキース黄金期の棟木としてチームをガッチリと支えた。

2001年、打率.280 34本塁打 113打点と
変わらぬ打撃でチームのWS進出の一翼を担ったマルティネスだったが
02年にチームに加入したジェイソン・ジアンビに追われるように
カージナルスにFA移籍。
引退したマーク・マグワイアの後釜として大いに期待されるも
打率.261 21本塁打 75打点・・・と
前年の数字を下回る成績に終わり、
翌03年も同様に全盛期の打撃には程遠い内容に終わった。

04年、デビルレイズへトレード移籍し、
05年は古巣ヤンキースへ復帰。
ジアンビのバックアップ的な役割を期待されての
ヤンキース加入だったが、
開幕戦では打席に立つと客席総立ちの歓声で迎えられ、
変わらぬNYでの人気ぶりを証明した。

結局、05年限りで現役を引退。
通算1925安打、339本塁打、1271打点、打率.271

file .296 Gregg JEFFERIES【グレッグ・ジェフリーズ】

2011-04-05 | JKL
【神童】
Gregg JEFFERIES

元プロ野球選手だった父親から英才教育を受け、
中学~高校時には、
大学の選手にまじってプレーする程の怪童だったジェフリーズ。
当然、全米が注目するトッププロスペクトとなり、
1985年、高校卒業と同時にメッツに1位指名され入団。
マイナーリーグでも2度に渡り最優秀選手に輝くなど
期待通りの成長を見せていた。

87年、弱冠19歳でメジャーデビューを飾ると
89年にはセカンドのレギュラーに定着し、
打率.258 12本塁打 56打点 21盗塁。
90年は.283 15本塁打 68打点 11盗塁、
順調に成長を続けていると見えたのだが、
91年、打率.272 9本塁打に終わると、
92年、メッツはジェフリーズをトレード放出。

移籍先のロイヤルズでも.285 10本塁打 75打点 19盗塁・・と
プロ入り前の期待とは大きくかけ離れた成績に終わったジェフリーズは
93年、今度はカージナルスへトレード移籍。
かつての神童は齢25にしてジャーニーマンのような扱いを受けた。

が、この年ついにジェフリーズの天賦の才が花開く。
.342 16本塁打 86打点 46盗塁。
翌94(短縮シーズン)年も.325 12本塁打 55打点 12盗塁。
2年続けてオールスターにも出場し、
ついにリーグ屈指の名選手と相成ったジェフリーズは
95年、FAでフィリーズへ入団。
.306 11本塁打 56打点 9盗塁をマークし、
サイクルヒットも記録するが、
足の怪我の影響もあり、以降は成績が振るわず、
結局2000年、タイガースで現役生活を終えた。

抜群の野球センスを持っていた所為か
二塁~三塁~1塁~外野・・・と
ポジションを転々としながら
通算1465試合 .289 126本塁打 663打点 1593安打を記録した。

file .295 Phil RIZZUTO【フィル・リズート】

2011-04-04 | ABC
【Holy Cow!】Phil Rizzuto

生粋のブルックリン子だったリズート。
が、地元球団のドジャースには身長の低さゆえに入団できず、
37年、ヤンキースと契約を結ぶ。

41年にメジャーデビュー。
1年目から.307をマークし、
チームのワールドシリーズ制覇に貢献。
2年目には.284 68打点 22盗塁。
オールスターにも初出場を果たした。

ショートの守備面においては、
肩は強くないものの、
俊敏な動きでカバー、沢山の華麗なダブルプレーを決め、
その動きから『スクーター』のニックネームで呼ばれた。
打撃面では、非力ながら粘っこいアプローチで
相手投手を嫌がらせ、バントをさせれば当代随一の名手であった。

43年~45年、兵役に就いたため
3年間のブランクができたものの、
46年にチームに戻ると、
チームは47年~53年の間、
実に6度のワールドシリーズ制覇を成し遂げ、
リズートは内野守備の要として、
攻撃面でも渋い名傍役として
ジョー・ディマジオやヨギ・ベラといった面々と共にチームの黄金期を支えた。

49年、.275 5本塁打 65打点 18盗塁という平凡な成績にも関わらず
シーズンMVP投票では2位という高評価を得ると
50年は.324 7本塁打 66打点をマークし堂々のMVP獲得。
170cmに満たない小兵が、リーグNo.1選手の栄冠に輝いたのであった。

56年、38歳までヤンキース一筋でプレーを続け、
通算1661試合 打率.273 38本塁打 563打点 149盗塁。

現役引退後はヤンキースのキャスターとして
試合の実況を担当、名調子で人気を博し、
『Holy Cow!』(なんてこった!!!)は
リズートのトレードマークとなった。
ロジャー・マリスが61本目の本塁打を打った試合も実況。
『Holy cow, what a shot!』
(すげえ! なんて当たりだ!!)
・・・と例の名調子で試合実況を盛り上げた。

打撃成績が若干見劣りするためか
チームの黄金期を彩った名選手だったにも関わらず
殿堂入りが遅かった。
ファンはリズート殿堂入りキャンペーンを実施し、
1994年、ようやく晴れて殿堂選手の仲間入りを果たした。

file .294 Enos SLAUGHTER【イノス・スローター】

2011-04-03 | STU
【マッドダッシュ】Enos SLAUGHTER

1935年、カージナルスに入団したスローター。
38年にメジャーへ昇格すると
39年、.320 12本塁打 86打点という好成績を残し
2年目にして早くも頭角を現す。
この年から5年連続で打率.300以上をマーク、
42年は.318 13本塁打 98打点
46年は.300 18本塁打 130打点で打点王を獲得、
両年共にチームの世界一に大きな役割を果たす。

特に46年のボソックスとのワールドシリーズでは、
死球による怪我の所為でシリーズ出場も危ぶまれる中、
ドクターストップを制して強行出場。
世界一を決める大事な第7戦の8回で
走者として一塁にいたスローターは
次打者の単打性の当たりで大激走。
あっけにとられたジョニー・ペスキー遊撃手の判断ミスを誘い
一気にホームを陥れる事に成功した。
結局、この得点が決勝点になり
カージナルスは世界一の栄冠に輝いたのである。
この走塁は『マッドダッシュ(狂気の走塁)』と呼ばれ
伝説になるわけだが、スローターにしてみれば
平常時から心がけているハッスルプレーの一旦に過ぎないわけだった。

その後も49年に.336 13本塁打 93打点をマークするなど
安定した勝負強い打撃を披露。
40~53年の間10年連続でオールスターに出場し(43~45年は兵役)
リーグを代表する名選手としての地位を確立した。

54年からはヤンキースやアスレチックスを渡り歩き、
56年と58年はヤンキースで世界一の美酒に酔った。

通算2380試合 2383安打 打率.300 169本塁打 1304打点。
絶頂期の3年の兵役が無ければ、あるいは3000安打も達成していたかもしれない。

殿堂入りは1985年。
これほどの名選手の殿堂入りが遅れたそのわけは、
ジャッキー・ロビンソンに絡む人種差別問題があったからと言われている。
ロビンソンのドジャース昇格時には大いにそれに異を唱え、
ストもやむなし・・とナ・リーグ会長のフォード・フリックに詰めよった・・・とか
内野ゴロを打った時に、一塁を守るロビンソンに強烈なスパイクを浴びせた・・・とか
この件にまつわる逸話は少なく無い。

が、いずれも確証のない逸話の域を出てはいない。

file .293 Kirk GIBSON【カーク・ギブソン】

2011-04-02 | GHI
【ザ・ホームラン】
Kirk GIBSON

大学時代は野球/アメフトの両方で
八面六臂の大活躍を見せていたアスリートだったギブソン。
78年のドラフト時にはアメフトを蹴り、野球の道へ進む事となった。

そのポテンシャルの高さから
『ネクストマントル』の異名を戴いたギブソンは
79年にはメジャーデビューを果たし、
徐々に力を付け、83年にはレギュラーに定着。
84年、打率.282 27本塁打 91打点 29盗塁をマーク、
ワールドシリーズでも.333 2本塁打 7打点 3盗塁と大暴れ。
タイガースのリーグ優勝及び世界一に大きく貢献した。
85年、.287 29本塁打 97打点 30盗塁。
87年は.277 25本塁打 79打点 26盗塁で
地区優勝に貢献するなどチームの主軸として活躍していたギブソンだったが
88年、ドジャースにFA移籍、
.290 25本塁打 76打点 31盗塁と看板通りの活躍を見せ、
チームはリーグ優勝。
アスレチックスとのワールドシリーズに臨む事となった。

このシリーズ、ギブソンは折からの足の故障を悪化させ
まともに歩く事もままならない状態で迎える事になり、
ベンチ入りは果たしたものの、
スターティングラインナップにその名は連ねる事はどだい無理な事だった。
第1戦、チームは4-3と一点ビハインドのまま9回を迎えた。
アスレチックスのマウンドにはデニス・エカーズリーが
そのワイルドな風貌をたたえてドジャースに立ち塞がった。
たちまち2アウトを取られ、敗戦濃厚なムードが漂う中、
マイク・デービスが執念の四球で歩く。
次打者は投手のペーニャ。
当然代打の場面だが、その瞬間、
ドジャースタジアムの観客は信じられない光景を目の当たりにする。
手負いのギブソンがびっこを引きながら代打の打席に立ったのである。

騒然となるスタジアムだったが、
ギブソンはさらに魅せた。
なんとギブソンはエカーズリーから
奇跡の代打逆転サヨナラホームランを放ったのだ。
ガッツポーズを決めながら、
ヨタヨタと足をひきづりながらダイアモンドを回るギブソン、
チームメイト/ファンは狂喜乱舞。
そしてこの奇跡の一打の効能は絶大だった。
勢いづいたドジャーズはアスレチックスを破り、
ワールドシリーズの覇者となった。
このシリーズにおいてギブソンの出番はこの1打席のみ。
が、この活躍の印象のおかげもあってか
ギブソンは88年のシーズンMVPを獲得する事となった。

その後のギブソンは故障に苦しめられ、
ロイヤルズ~パイレーツ~古巣タイガースとチームを変え、
結局95年に現役を引退した。

通算1635試合 打率.268 255本塁打 870打点 284盗塁。
殿堂入りには程遠い通算成績だが
大舞台での勝負強さと件の『ザ・ホームラン』。
印象度においては堂々の殿堂選手といえよう。



file .292 George SISLER【ジョージ・シスラー】

2010-10-16 | STU
【現役引退後】
George SISLER

通算2055試合、2812安打、打率.340、102本塁打、1175打点、
1920年に記録した年間257安打は、
イチロー(鈴木一朗)に更新されるまでメジャー記録であった。
守備・走塁も一流、当時最高の一塁手と言われていた。

現役を引退したシスラーは、
ブランチ・リッキーの右腕として
ブルックリン・ドジャースでスカウトを担当。
数多いニグロリーガーからジャッキー・ロビンソンを見いだしリッキーに推薦。
メジャーリーグの歴史において最大の案件の一翼を担った。
ロビンソン入団後は、
慣れない一塁の守備に就かなくてはならない彼に一塁守備を伝授。
プレー面でもロビンソンをサポートした。

その後、ピッツバーグパイレーツの打撃コーチに就任したシスラーは
1961年のシーズン前に、ロベルト・クレメンテを指導。
スイングが早過ぎるクレメンテに重いバットを使うようアドバイスし、
これに従ったクレメンテはこの年、
打率.351で首位打者を獲得。
大ブレークを果たす事となった。

プレーヤーとしてだけではなく、
フロントとして、
指導者としても優れた眼力と指導力を見せつけたシスラー。

年間最多安打だけで語るような人物では無いのであった。

file .291 Mickey RIVERS【ミッキー・リヴァース】

2010-10-15 | PQR
【Mick the quick】
Mickey RIVERS

1970年、エンゼルスでメジャーデビューを果たしたリヴァース。
キャリア2年目の71年には79試合に出場し、
打率.265 、13盗塁で、その才能の片鱗を伺わせる活躍を見せた。
74年にレギュラーに定着し、打率.285、30盗塁をマーク、
翌75年は打率.284、70盗塁、キャリア唯一となる盗塁王を獲得。
リーグ屈指のスピードスターとして、その名を大いに売った。

76年にトレードでヤンキースに移籍したリヴァースは
打者としても成長を見せ、打率.312、8本塁打、67打点、43盗塁をマーク。
MVP投票では、サーマン・マンソンやジョージ・ブレットという
名だたる名選手の後につける3位の評価を受け、オールスターにも初出場。
個性豊かな『ブロンクス・ズー』の一員として
全米クラスの選手にまでのし上がった。

気性が荒く、気まぐれ。
気分が乗れば攻守ともに素晴らしい働きを見せるが
そうでない時は散漫なプレーでファンやベンチをやきもきさせた。
部類のギャンブル好きで、試合前や練習中にチームメイトとカード遊びに耽り、
それをたしなめられると
「ああ、そうかい、じゃカードはやんねえよ。ついでに野球もやらねえけどな!」とうそぶいた。
競馬にも目がなく、試合中にクラブハウスのボーイに馬券を買わせていた。
それをたしなめられると
「ああ、そうかい、じゃ競馬はやんねえよ。ついでに野球もやらねえけどな!」とうそぶき、
実際に「足が痛い」と仮病を使い、試合を堂々と休んだ。

77年、打率.326、12本塁打、69打点、22盗塁、
78年は打率.265、11本塁打、48打点、25盗塁で
チームの2年連続世界一に貢献。
79年にレンジャースに移籍し、
80年には打率.330、7本塁打、60打点、18盗塁と結果を残すも、
以降は徐々に出場機会が減り、
84年、35歳で現役を引退した。

通算1468試合、打率.295、267盗塁を記録。

快速選手がカードゲーム好き・・・
どこかで聞いた事のあるような話である。

file .290 Manny SANGUILLEN【マニー・サンギーエン】

2010-03-28 | STU
【Sangy】
Manny SANGUILLEN

1969年、129試合に出場し
打率.303 5本塁打 57打点をマーク。
25歳で、強豪パイレーツの正捕手となったサンギーエン。
70年には打率.325 7本塁打 61打点。
71年は打率.319 7本塁打 81打点、
オリオールズとのワールドシリーズでも打率.379と活躍し、
チームの世界一に大きく貢献した。

パナマ生まれの陽気なサンギーエンは、
チーム屈指の人気者で、同僚のロベルト・クレメンテとは
大の親友であった。

巧打者でありながら極度の悪球打ち。
それだけに四球は極端に少なく、
プロ13年で四球が30を超えたのは一度だけである。

72年にクレメンテが飛行機事故で海に消えると、
73年は、クレメンテが守っていた右翼を60試合近く守った。

75年、打率.328 9本塁打 58打点と、
変らぬ好打者ぶりを発揮したサンギーエンだったが、
77年、監督とのトレードという珍事でアスレチックスに移籍。
が、翌年にはパイレーツに戻り、
79年、控え捕手ながら、チームの世界一に再び貢献した。

1980年、現役を引退。

通算1448試合 打率.296 65本塁打 585打点 1500安打

同年代にマンソン、フィスク、ベンチなど
殿堂級の偉大な捕手が揃っていただけに、決してメジャーな存在では無いが
70年代を代表する、名捕手の一人である事に間違いは無い。

72年のオフ、
ロベルト・クレメンテの葬儀にサンギーエンは唯一参列していない。
何故なら、その時サンギーエンは、
クレメンテの遺体を探すダイバーチームに参加していたからである。

現在は、パイレーツの本拠地PNCパーク内で
バーベキュー屋を営んでいる。

file .289 Nomar GARCIAPARRA【ノマー・ガルシアパーラ】

2010-03-19 | GHI
【スーパースターの早過ぎる落日】
Nomar GARCIAPARRA

1994年、ドラフト1位指名で
レッドソックスに入団したガルシアパーラ。

96年にメジャーデビューを果たし、
翌97年、2年目にしてリーグトップの209安打
打率.306 30本塁打 98打点 22盗塁という
素晴らしい成績を残し、新人王を獲得する。

98年も打率.323 35本塁打 122打点、
MVP投票で2位にランキングされるほどの活躍ぶり、
24歳にして、リーグを代表するスーパースターの地位を確率した。
当時、ア・リーグには、
ガルシアパーラの他、
マリナーズのアレックス・ロドリゲス、
ヤンキースのデレク・ジーター・・と
実力とカリスマ性を兼ね備えた大型スター遊撃手が3人も君臨しており、
この3人は、並び称される事が多かった。

99年、ガルシアパーラはさらなる飛躍を見せる。
この年、打率.357 27本塁打 104打点で首位打者を獲得。
さらに2000年は打率.372 21本塁打 96打点で2年連続の首位打者。
26歳にして、古豪レッドソックスの『顔』に成長を遂げた。

打撃のみならず、守備もゴールドグラブ級。
さらに端正でハンサムな顔だち。
バッターボックス内では、せわしなく動き回り、
1球ごとに外しては、プロテクターやバッティンググローブを締め直す。
スター性に加え、上記のようなユニークな仕草を見せる
キャラクターの立ったスーパースターであった。

2001年、本来ならこの年にメジャー入りしたマリナーズのイチローと
激しい首位打者争いを繰り広げてもおかしく無かった筈だが
手首の怪我で、シーズンのほとんどを棒に振ってしまう。

復活を期した2002年は打率.310 24本塁打 120打点、
2003年も打率.308 28本塁打 105打点をマークしたが
守備面での衰えが見え始め、
2004年、契約問題で揉めた球団は、
シーズン途中にガルシアパーラを放出してしまう。

以後は、怪我に泣かされた。
2004年~2009年の6年間、
100試合以上の出場を果たしたのは2度だけ、
2006年(チームはドジャース)こそ打率.303 20本塁打 93打点をマークするが
その後は、泣かず飛ばず。
チームを移籍しても注目を浴びる事もほとんど無く、
2010年春・・・、
古巣レッドソックスとマイナー契約を結び
レッドソックスの選手として現役を引退した。
35歳・・・怪我さえ無ければ、まだまだ溌剌とプレー出来たであろう。

通算1434試合、1747安打 打率.313 229本塁打 936打点

かの大テッド・ウィリアムスは
初めてガルシアパーラをテレビで目の当たりにした際、
旧友のドム・ディマジオに電話をかけている。
「おい、お前さんガルシアパーラを知ってるか??
 奴を観てると誰かを思い出さないか??
 わからんのか! ディマジオだよ!
 奴は、あのジョー・ディマジオを彷彿とさせるじゃないか!!」

file .288 Dan QUISENBERRY【ダン・クイゼンベリー】

2010-03-18 | PQR
【サブマリンストッパー】
Dan QUISENBERRY

1975年、ドラフト外契約でロイヤルズに入団したクイゼンベリー。
79年にメジャー初登板を果たし、32試合 3勝 5セーブ 防御率3.15をマーク、
まずまずの結果を残した。

が、当時の監督ジム・フレイは、今のままだと、
この程度が限界の並みの投手に終わってしまうと考え、
コントロールに光る物があるクイゼンベリーを伸ばすため、
アンダースローへの転向を画策。
80年のオープン戦、対戦相手のパイレーツにいた
サイドスローのストッパー、ケント・テカルヴィに引き合わせる。
テカルヴィに師事し、アンダースローに転向したクイゼンベリーはこの年、大変身。
75試合 12勝 7敗 33セーブ 防御率3.09、リーグ最多セーブをマークする。

クイゼンベリーの武器はなんと言っても、コントロールの良さと
精度の高いシンカーである。
相手をねじ伏せるような速球は無く
ランナーをしばしば出したが、必殺のシンカーでゴロを打たせ打ち取る。
当時のロイヤルズは、フランク・ホワイトを始め、ジョージ・ブレットら
内野に名手が多かった事もクイゼンベリーに幸いしていた。

「クイゼンベリーは、30-30-30を達成したんだぜ
 100イニング以上投げて三振がわずか37
 で、30セーブをあげて、奴が投げてる間・・・
 30ものファインプレーが産まれたんだよ」
これは、ジョージ・ブレットの弁である。

その後も、クイゼンベリーは、
チームのストッパーとして活躍。
82年~85年にかけて4年連続でリーグ最多セーブを記録。
83年には、32試合 5勝 45セーブ 防御率1.94、
ア・リーグでは前人未到の40セーブを記録し
85年は84試合 8勝 37セーブ 防御率2.37、
カージナルスとのワールドシリーズでも4試合に登板し1勝 防御率2.08。
チームの世界一に貢献した。

チームとも、終身雇用の契約を交わすなど、
まさに絶頂のクイゼンベリーだったが、
86年以降、徐々に調子を落として行く。
88年には、終身雇用だった筈がチームを解雇され、
カージナルスに移籍。
89年は63試合 3勝 6セーブ 防御率2.64で
セットアッパーとしてチームの勝利に貢献するも、
90年、大けがの影響もあって、そのまま現役を引退した。

愛嬌のある風貌と、頭の回転の早さを活かした軽妙な発言で
大いに、人気を博したクイズことクイゼンベリーだったが、
98年、ガンでこの世を去った。

通算674試合 56勝 244セーブ 防御率2.76

メジャーリーグの歴史で、最も成功した
アンダースロー投手といえるだろう。

file .287 John ROCKER【ジョン・ロッカー】

2010-03-09 | PQR
【でも憎めないよね~】
John ROCKER

1999年、ブレーブスは、メッツとの
リーグチャンピオンシップを控えていた。
この年、4勝 38セーブ 防御率2.49で
チームの守護神に成長したジョン・ロッカーは
対戦前、「メッツは、あんだけ好打者を揃えながら、なんでウチに3勝しか出来ねえの??」
(この年、メッツはブレーブスに対し、3勝9敗)
とメッツを挑発した。
当然、メッツファンの怒りを買ったロッカー、
第3戦で、9回を抑えると、試合後ファンを挑発するような態度を見せ、
メッツファンの怒りは倍増した。
「メッツのファンは人間以下、野蛮な奴らだ」
「メッツファンなんて地獄に落ちろ!」等、
ブーイングを浴びせるメッツファンに、ロッカーは更なる挑発を繰り返す。

結局、このブレーブスはワールドシリーズ進出を果たすも、
シリーズではヤンキースに敗れ去った。

同年、年末・・・
スポーツイラストレイテッド誌に掲載されたロッカーのインタビューは、
衝撃的な内容だった。
「ニューヨークは最悪だよ、疲れるし、イライラするな
 地下鉄の7番線で球場に行くとするだろ・・
 ありゃまるでベイルートだね!
 髪を紫に染めたガキはいるわ、そんで隣にはエイズ患者だな、
 で、その隣が刑務所に4回入った野郎で、
 さらにその隣は4人の子がいる20歳のママってわけさ
 気が滅入ってしょうがないね!」

「ニューヨークで最悪なのは外国人の連中だね。俺は奴らの事があんまり好きじゃねえな
 タイムズスクエアに行って1ブロックほど歩いてみ、誰も英語で話しちゃいねえ。
 アジア人や、韓国人、ベトナム人、インド人、ロシア人、スペイン系、なんでもござれだ
 奴ら、どうやってこの国に入ってこれたんだよ?」
...等

この記事により、
ロッカーは、一躍メジャーリーグのヒールとして名を馳せる事となり
ハンク・アーロンや、同僚のトム・グラヴィン、チッパー・ジョーンズなどが
公式にロッカーを避難した。

さらに、ニューヨーク市長のジュリアーニが、
ロッカーの地下鉄利用を禁じ、怒るファンにも自制を求める事態にまで発展。
ロッカーは試合後の移動にも警護をつけなくてはいけなくなってしまった。

その後・・・
インデジアンズやレンジャーズを経て、
2003年に、現役を引退。
通算13勝 22敗 88セーブ 防御率3.42

引退後は、タレント活動にも熱心で
数々のコメディ番組に出演。

引退前の2002年には
The Greenskeeper(邦題・殺戮職人芝刈男)にも出演。
※映画学校の一年生でも、もうちょっとマシな映画作るだろ・・と思うよな
 超が付く程のゴミ映画で、ロッカーは、演技力なぞ微塵も必要としないような役を
 嬉々として(?)演じている。

file .286 Ellie HENDRICKS【エロルド・ヘンドリックス】

2010-03-06 | GHI
【最強オリオールズの頭脳】
Ellie HENDRICKS


1969年~71年にかけて
アール・ウィーバー率いるオリオールズは
3年連続でリーグ優勝を果たした。
(ワールドシリーズ制覇は70年)
チームには、ブルックス/フランクの両ロビンソンを筆頭に
ブーグ・パウエル、デイブ・ジョンソンなど
名選手がズラリと並んでいた。

また、投手陣においては、
71年に、ジム・パーマーやパット・ドブソンら4人が20勝以上するなど
まさにオリオールズ史上、最強の布陣であった。
その最強投手陣を牽引したキャッチャーが
エリー・ヘンドリックスである。

メジャーデビュー(68年)は27歳と遅い。
69年にレギュラーに定着し、打率.244 12本塁打 38打点。
チームはリーグ優勝を果たすも、
ワールドシリーズではミラクルメッツの引き立て役となってしまった。

70年もチームはリーグ優勝。
ヘンドリックスは、ジム・パーマーなど
名投手をリードしつつ、打率.242 12本塁打 41打点。
レッズとのワールドシリーズでも
打率.364 1本塁打 4打点と活躍、
チームの世界一に大きく貢献した。

71年は、パーマー、ドブソン、クェイヤー、マクナリーの4人が20勝以上をマーク。
ヘンドリックスは、この豪華投手陣の女房役として奮闘し
打率.250 9本塁打 42打点をマークした。

その後、72年にトレードでカブスへ移籍したのを皮切りに
古巣オリオールズに戻ったり、出たりを繰り返しながら
79年までプレー、同年、現役を引退した。

ヘンドリックスがレギュラーだったのは、
オリオールズ黄金期の1969年~1971年の3年だけである。
メジャー史上屈指の名捕手・・・というわけにはいかないものの、
この輝ける3年間はヘンドリックスの栄光であったに違いない。

2005年、死去。

感情を抑えられないウィーバーや
プライドの高いパーマーの間に入って
淡々と、自分の仕事をこなしていただけあって
ヘンドリックス自身は温厚そのものであった。
ウィーバーと犬猿の仲で知られる名物審判のロン・ルチアーノは
自身の著書で、
「ヘンドリックスのクレームの付け方は、
 メジャーでも随一のスマートさを誇っていた」
と書いている。

file .285 Albert BELLE【アルバート・ベル】

2010-03-05 | ABC
【意外と、勉強は出来たらしい】
Albert BELLE


実働12年ながら
その間、圧倒的な打撃力と、
同じく圧倒的なトラブルメーカーぶりで
異様な存在感を示したスラッガーである。

大学時代から、その実力を遺憾なく発揮し、
1987年、インディアンズから2位指名を受け入団。
89年にメジャーデビューを果たすと
91年、打率.282 28本塁打 95打点をマーク。
当時、貧打に喘いでいたチームにとって
待望のスラッガーの登場であった。

以後も、チームの主力打者として
その打撃力を遺憾なく発揮したベル。
93年、打率.290 38本塁打 129打点で打点王を獲得すると
95年には、打率.317 50本塁打 126打点で二冠王。
チームのリーグ優勝に大いに貢献した。
ちなみに、この年のリーグMVPは
打率.300 39本塁打 126打点のモー・ヴォーン(レッドソックス)。
数字上ではベルの方が上を行っていたが、
マスコミに対する粗暴な態度が災いしての落選・・と言われている。

96年も打率.311 48本塁打 148打点(打点王)・・・と
豪打爆発のベルだったが、
97年、FA移籍でホワイトソックスへ入団。
同チームには、かのフランク・トーマスもおり、
稀代のスラッガーの競演は、ファンの期待を膨らませた。
この年・・・
ベル/打率.274 30本塁打 116打点
トーマス/打率.347 35本塁打 125打点
翌98年・・・
ベル/打率.328 49本塁打 152打点
トーマス/打率.265 29本塁打 109打点
コンビを組んだのは上記の2年だけであったが、
どちらかが突出した成績をおさめると、
どちらかが少々調子を崩す・・・・・、
数字だけ見れば、そろい踏み・・・
という訳には行かなかったようである。

99年からは、オリオールズに在籍
2000年の打率.281 23本塁打 103打点という成績を最後に
以後は、故障等で試合に出場出来ず、
そのまま引退してしまった。

通算打率.295 381本塁打 1239打点、
殿堂入りも可能な成績ではあるが、恐らく無理だろう。
理由は何といっても、そのトラブルの多さである。

●ファンにボールをぶつけて骨折させる。
●デッドボールに怒り、ピッチャーをボコボコにする
●ハロウィンの日に、お菓子をねだりに来たチビッ子達を車で追いかけ回す。
●コルクバットの使用がバレると、
同僚のジェイソン・グリムズリーを使って証拠隠滅を計る
 (審判団の部屋に忍び込ませ、審判団に没収されたバットを同僚のそれとすげ替えさせた)
●賭博
●暴言
・・・etc・・・
トラブルのデパート状態である。

最近、ここまでの悪童はMLBでは聞かなくなってしまった。
・・・不謹慎かもしれないが寂しい気もする。