寺嫁な日々

嫁・妻・母・坊守として日々感じた事、大きな声じゃ言えない本音の所・・・お話しします

第11回・大経の会ご案内

2012-10-10 23:28:26 | 

日時  10月23日 10時~15時

会所  当山

講師  N先生

テキスト 「浄土三部経(上)」岩波文庫

      ※昼食代として、500円お持ち下さい

 前回は、前々回に引き続き第十八願成就文について学びました。
 法然上人は、「お念仏は不回向の行」と言われ、「ありがたい心で称えなければならない」とか「念仏の意味を理解していなければならない」とか「悪い行いをしてはいけない」等、一切の条件をつける事の無い行とし、故にすべての衆生は救われるとした。 が、漢文の通常の読み方では、「信心歓喜出来ないもの」「至心に回向して、かの国に生まれんと思わないもの」は18願成就文からも漏れてしまう。歎異抄第九章の唯円の問い、「念仏申しそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは・・・」は、お念仏の喜びも、浄土往生したい気持ちも希薄になる日常生活において「救い」(第十八願成就)は成り立つのかということを問題にしているのではないか。親鸞聖人は、浄土に生まれる人は皆、この世で既に正定聚であるとし、お念仏を臨終の念仏から日常の念仏に引き戻した。日常に心散らしている煩悩具足の私たちであるが、お念仏を聞いて微かでも喜びの心が起きることがある。それは、自分が自分の心を変えたのでは無く、仏から差し向けられた。如来回向の働き。だからこそ往生は可能であると読みかえられた。(講義より)

さて、
次回は「唯除の文」からです。
すべての衆生を漏れなく救う第十八願成就文において
「唯除五逆 誹謗正法」はどのように解釈されるのでしょうか! 
時間の許す方は、事後学習会にも是非ご参加下さい!

 

 


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