アポなし、突然、遠方よりの来寺。
ここ20年はお付き合いの無かったご門徒の分家の方。
相談事は、直葬されたお身内の方のこれからについて
何もわからないので・・・ご相談を・・・と言いつつも
もう、ご自分の中では、どうしたいのかというのがはっきりしている
おそらく
言われるままににお勤めをして
それでお終いになるんだろうな
そんなふうに思っているうち、
なんだか段々無力感に押しつぶされそうになってきて
そういう気分が表に出てしまっていたかもしれない
横で、義母が一生懸命世間話やもう何十年も前の昔話に相槌を打っていた
こういう所、母は徹底している
誰の、どんな話でも一生懸命聞く、
真宗のお寺でその話は無いんじゃない?と思うような話題でも
「真宗の教えではこうですよ」と相手を遮らない
私も母のように、ただ話を聞けばよかったのかなと思った。
もう、ご縁が無いかもしれないけど、今、ちょっと後悔している
ここ20年はお付き合いの無かったご門徒の分家の方。
相談事は、直葬されたお身内の方のこれからについて
何もわからないので・・・ご相談を・・・と言いつつも
もう、ご自分の中では、どうしたいのかというのがはっきりしている
おそらく
言われるままににお勤めをして
それでお終いになるんだろうな
そんなふうに思っているうち、
なんだか段々無力感に押しつぶされそうになってきて
そういう気分が表に出てしまっていたかもしれない
横で、義母が一生懸命世間話やもう何十年も前の昔話に相槌を打っていた
こういう所、母は徹底している
誰の、どんな話でも一生懸命聞く、
真宗のお寺でその話は無いんじゃない?と思うような話題でも
「真宗の教えではこうですよ」と相手を遮らない
私も母のように、ただ話を聞けばよかったのかなと思った。
もう、ご縁が無いかもしれないけど、今、ちょっと後悔している
>「真宗の教えではこうですよ」と相手を遮らない
これは大事なんじゃないかと思う。
こちらの言いたい事はなかなか伝わらないし。
私も「うんうん」って聞いてるけど、
結構ストレスだしジレンマもあるし。
でもそれでいいのかも、って最近思う。
似たような事があった時、僕は約1時間ほど
聞き役に徹した上でハッキリと
言いました。
『あぁ、○○さん、ご相談と言いながら結論
はもう出てるじゃないですか』
と。
相談する人はkobaさんのおっしゃるように
結論は出ているのです。
ただ誰かに頷いてもらいたいだけなんです。
やっぱり大事な事だし、みなさん心がけていらっしゃるんですね
でも、言いたくなるんですよね
(まだまだ、若いのかな)
言ってもすぐには伝わらないことの方が圧倒的に多いんですけどね
そうなんですよね
先日来られたその方も、お話してるうちにいろんなご苦労をされて、今ここに来られた事が段々わかってきたんですよ。昔はお寺とご縁も度々あった事もわかったし。
何が正しくて、正しくないかなんて事ではなくて
こういう話は、やっぱりお寺で、ご本尊の前でしか出来ない話だったんじゃないかなと
世間話のようで、それだけに留まらないものが合ったんじゃないかなと
今更ながら思い返しています
そんな場を、自分の思いとは違うからと気のない対応をしてしまった自分を反省しています
凄いですね
聞いてもらえてるってとても嬉しいものです
そのご縁はきっと次に繋がっていきますよね
思えば、お月忌ってそういう場で有りました
大切にしていかなければですね
義母は、小難しい理屈や、確固とした信念があって
聞き役に徹しているわけではなさそうなんです
聞法会や研修会には殆ど出ませんし、
掃除、花生け、住職の世話・・・・そして客人のもてなしに自分の生きる場所を見つけているような人です
頭でっかちの私には、時にそれがはがゆく、そんなんでいいのか・・・・と思うことも有りますが
今回のようなことがあると
見習うべきことも多いなぁ・・・と改めて思います
以前坊守研修で女性住職の方のお話を聞いたんだけど
「お寺で世間話をすると仏法に変わる」
と言われてた。
ほぼ毎日ご門徒のおじいさんがみえて、
どうでもいいような世間話をしていかれた。
忙しい時などは迷惑にも感じて(お相手はその方の
お母さんが大体はしてらしたそうだけど)
そんな話をなぜお寺に来てまでするのか?
と問われたところこの答えが返ってきたそうです。
ああ、そういう事なんだ…って感動したのを思い出しました。
こうでなければならない、とかこうすべきだとかは
お釈迦様の教えではないものね。
ホントにね
若坊守会講師のN先生は「日常生活の中では決して、考えたり、口にしたりしない話が、お内仏や本堂ではなされます」ということを言われてました
こうでなければならない
というのはやはり「私」の了見なのですね