寺嫁な日々

嫁・妻・母・坊守として日々感じた事、大きな声じゃ言えない本音の所・・・お話しします

大経の会(23回)ご案内

2014-04-25 20:57:53 | 

第23回「大経の会

以下のようにご案内申し上げます。繰り合わせてご参加ください

日時  5月9日 10時~15時

会所  当山

テキスト 「浄土三部経(上)」岩波文庫

 

前回は、五悪段序文(212P11行目)~一悪・二悪途中(215P末)まで。

ここでは、釈尊が衆中(私たち大衆と同じ生活をしている)の弥勒に向かってこの世の五悪・五痛・五焼が如何なるものかを述べ、悪を諌め、善を勧める。これは道徳あるいは儒教の思想であって、仏教ではない。釈尊の初期の経典や、親鸞上人の言説にもこの部分(観念)は見られない。では、なぜ釈尊は、悪を諌め、善を勧めるのか?悪をなせば悪い報いを受け苦しみの世界を経巡る。身を正し、善をなせば良い世界に生まれる(善行楽果、悪因苦果)。悪を為さず善を為す人には、仏道を説きやすく、悟りへと導きやすいからだと釈尊は説く(倫理と宗教の関係)。しかし、この五悪段に説明されているような因果応報・宿業の考え方は、行為の指標として分かりやすく、安心感を与えると同時に、現実社会における格差や差別を矛盾のないものとして是認・説明するという誤った使われ方をされる可能性がある。事実、浄土真宗も時代の通念の中に取り込まれ御用教学として利用されたこともあった。そもそも個人の業が時間、世代を経て、そのままその個人に輪廻流転していくという考え方は、(アートマン・変わらない私)を否定する仏教の思想(無我、非我)とは矛盾する。ただし、人間の身体・言語・思考による行為(身口意の三業)は必ず自他に影響を与え、新しい展開を生む(縁起)事は間違いなく、この私は縁起によって成り立っていると言える。大経の五悪段の言う因果応報と仏教の縁起説に基づく因果応報…この二つの違いを押さえておきたい。 (講義より) 


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