図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

困難と感性

2018-05-13 15:57:09 | 日記






ノグチの作品は1938年、はじめて高い評価を受けニューヨークのロックフェラー・センターのAP通信社ビルに設置する作品「報道の自由」

主題を象徴的に表現した大規模彫刻を完成させます

展示される展望台は、「トップ・オブ・ザ・ロック」の愛称で親しまれており、このロックフェラー・センターで一番高いGEビル(かつてのRCAビル)という、

現在はNBCの本社が入っている







イサム・ノグチの感性を育てたもの


父、若くして欧米において小説の才能を評価された野口米二郎

母、ヨネの才能を慕いエセルとヨネの関係から身を引いたレオニー・ギルモア

イサム・ノグチが産まれた後、日本への誘いを断るレオニー

2歳になったイサム・ノグチと日本へ渡るレオニー

数か月、米二郎の家に住むも茅ヶ崎へ転居、その後米二郎が訪ねることはなかった

亡くなる前に兄がいることを話し、暖かく迎えてくれるよう頼む米二郎

偉大な彫刻家になることを知らなかった米二郎

欧米の感性を日本の文壇に評価されず、軍国賛歌に進む米二郎


言葉には残せなかった帰国してからの変化があったのだろう



英語教師としてイサム・ノグチを育てるレオニー

混血児として好奇といじめに会い10歳の時一年休学する

この時指物師(木工細工)について見習いに行く

木彫りに熱中し、自然を友とし、自然の中に興味を描き立てるものを探し求めた

母の意思により13才で単身アメリカのインターラーケン校へ7月入学、8月に廃校となる




以下ディスカバー・ニッケイ

偉大なる彫刻家 イサム・ノグチの生涯より


両親の知人でもあり、後見人だったエドワード・ラムリー博士は、彼をスウェーデンボルグ派の聖職者サミュエル・マック博士の家に下宿させます。
そこで、イサムはスウェーデンボルグに心酔していたウイリアム・ブレイクの詩に出会う、両親が文学者であった事もあり、周りには両親の知人などがいた環境もあった。


1919年、インタラーケンの創立者であったエドワード・ラムリー博士の知遇を得て、同州ラ・ポートの高校で寮生活を送る事になる。
ラムリー博士は、イサムを医者になるよう勧めるが、イサムは芸術家になりたいという意志があり、スタンフォードの彫刻家ガツン・ボーグラムの助手にさせてもらう、しかし、ボーグラムから「芸術家にはなることはなかろう」とラムリー博士にも伝えた。


1923年、ニューヨークヘ移り、コロンビア大学の医学部に入学し、夜はレストランで働き生計を立てる。
やがて、17年間、日本に滞在していた母レオニーが、カルフォルニアに帰米し、その後、ニューヨークで母と共に暮らすようになる。
その頃、黄熱病などの研究で知られていた野口英世博士との出会いもあり、芸術家になるよう勧められた。


1924年、それから、イサムは医学部に在籍しつつ、母の勧めでレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻のクラスに通い始める。
イサムは、まもなく才能を発揮して、ミケランジェロの再来とまで賞された。
入学してすぐに学校にて初の個展を開催。父ヨネからは、野口の姓を使うことを許されていなかったが、しかし、イサムは、この頃から野口の姓を名乗ることになる。
イサム・ノグチの誕生である。ナショナル・スカルプチャー協会の会員に選ばれ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに出品する。
美術学校の校長、オノリオ・ルオットロに彫刻に専念することを勧められる。医学の勉強をやめて、グリニッジ・ビレッジにアトリエを構える。


師と仰ぐブランクーシ一のもとで助手になるという願いも叶い、多くを学んだ。
1年間だけのグッゲンハイム奨学金は、それ以上の延長は許されず、イサムは、1928年、やむなく、パリからニューヨークに戻った。
翌年の1929年、最初の個展を開催する。しかし、出品した抽象彫刻は、まったくと言っていいほど評価が得られなかった。


一方、生活のために請け負った具象の頭部彫刻は絶賛された。
それらを売った金で1930年から1931年にかけてパリを経由して、ベルリン、モスクワを経て、シベリア横断鉄道で北京へ、斎白石のもとで水墨画を学び、もちろん、最終地は日本であった。
東京では、ノグチ姓を名乗っての来日を許さなかった父と13年ぶりに再会を果たす、憎しみは幾らかおさまるが、やはり、互いに解け合い理解するまでには至らなかった。
そして、京都へ宇野仁松のもとで陶芸を学ぶ。イサムは、京都を訪ねて、日本の美を新たに吸収してアメリカに帰国する。
日本にいれば、アメリカ人、アメリカにいれば、日本人と見られるイサムは、何処にも帰属しないまま孤独は増すばかりであった。







運命の中でいかに感性を研磨していったか




四国新聞に掲載された日米54人のイサム・ノグチにオマージュと思い出と感想




丹下健三は「イサムさんは、古代の弥生的な世界から禅や侘びの境地までを自分のものにしていました」と書いた。
丹下はイサム・ノグチが「自然の理法」と「彫刻家としての意志」を格闘させていた


ヒュー・ハーディはオペラハウスの設計をしようとしているときに四国を訪れて、「それなら本当の歌舞伎劇場を見にいくべきだ」と言われ、ノグチ自身が半日をかけて、おそらくは金丸座を案内した思い出を書いている。
ハーディはそういうイサム・ノグチに「不可分」という言葉を贈っている


バックミンスター・フラーとイサム・ノグチの両方のパートナーをしたショージ・サダオは、幸運にもパリのユネスコ庭園のために日本の庭を追跡していたノグチに出会えている。
重森三玲が『作庭記』片手にアドバイスをしていた。ショージはその後もノグチの仕事にかかわるが、そこにあったのは「実物と効果のあいだの矛盾の研究」だったと言っている。
そうなのだろう、とおもう。イサム・ノグチは「矛盾」に立ち向かったのだ。
そのパリのユネスコ庭園で作庭の実際の指揮にあたった佐野藤右衛門は、これはぼくも本人から聞いたことがある言葉なのだが、「ひともんちゃくばっかりですわ」と言った。
それは「悶着を恐れない人」という意味である。


 なぜ、矛盾や悶着に向かうのだろうか。最高裁判所にイサム・ノグチと共存する空間をつくりだしたかった岡田新一は、イサムさんは「守らなければならない根幹をおさえている」と言っている。
そして、その根幹は「身をもって芸術を生活した人」としての根幹だったのではなかったかと指摘する。


磯崎新はたいてい海外でイサム・ノグチと会っていたし、実にいろいろの話を交わしてきたようだが、あるとき牟礼で聞いた「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。
その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです」という一言が、思い返せばイサム・ノグチのすべてだったと述懐した。


マルセル・デュシャンもイサム・ノグチも、いっときブランクーシの秘書だった。
それを思ってノグチの秘書となったのがボニー・リッチラックである。イサム76歳だ。
そのボニーは、イサム・ノグチが若い女性が芸術家然とすることにかなり懐疑的だったという証言をする。
女性たちが本気で犠牲を払っていないというのだ。それにつながるようなことを安藤忠雄も言われたらしい。
「建築家は幸せになるから、ダメなんだ」。安藤は、そこから「つねにつきまとう人生の不安こそが作品に緊張を与えるのだ」という声を聞く。
 ちなみにノグチがブランクーシに学んだもの、それは反モダニズムだったのではないかと、中原佑介は本書に寄せている。


写真家でイサム・ノグチの弟にあたる野口ミチオは、兄貴が「一番扱いにくい素材は空気なんだ」といつもこぼしていたという話を紹介し、ずうっとイサム・ノグチの石のパートナーを担ってきた和泉正敏は、「ぼくは周りが荒れたところにきれいなものを作るのが好きなんだ」という言葉を紹介した。


意外で唐突なエピソードもいくつもある。
ボストン在住でハーバード大学で教鞭もとっていたアーティストの片山利弘は、1979年のアスペン・デザイン会議で長すぎたルドフスキーの講演のあとに演壇に立ったノグチが、「さあ、みなさん、窓をあけましょう」と言っただけで講演を終えたという有名な話のあとに、イサム・ノグチには偉大な自信と自由への挑戦を果たさなければならない責任感のようなものがあったと述べた。片山はまた、そこにはつねに「侘び寂びと科学性の世界が両立する」とも書いた。


勅使河原宏がそこにつながるエピソードを書いている。
牟礼の仕事場に訪れたときのことである。土をかぶった石の前でイサム・ノグチはこんなふうに呟いていたというのだ、
「自然が許してくれる過ちよ!」。


イサム・ノグチが「常識をくつがえすために空想に遊んだのは、新しい世界観をつくるためだった」(酒井忠康)。
けれどもその新しい世界観は、ほれ、これがそれですというようなものではなかった。
仮にそういうものができたとしても、イサム・ノグチは翌日にはまた新しい世界観の発見に向かっていったのだ。
 よく知られているように、イサム・ノグチの原点には「プレイ・マウンテン」(遊び山)がある。それはうんと小さくすれば滑り台「スライド・マントラ」になるし、うんと大きくすれば札幌のモエレ沼公園にもなる。
「遊び」こそはイサム・ノグチの世界観の源泉なのである。
しかしそうだとしても、イサム・ノグチはそこで遊び続けられる人ではなかったのだ。
 上下2巻におよぶ分厚い『イサム・ノグチ』を書き切ったばかりのドウス昌代は、そういうイサム・ノグチに「宿命の越境者」という言葉を捧げた。
むろんこの言葉には、日本人とアメリカ人の両方の血をもった宿命的存在者としてのイサム・ノグチの来し方行く末が含まれている。


三宅一生はその宿命的な去来の感覚をたった一言で、「橋」とよぶ。
広島に生まれ育った三宅は、焼野原がまだいっぱい残っている街に出現したイサム・ノグチの「橋」に、言い知れぬ衝撃をおぼえたのだ。
それは『生きる・死ぬ』と名付けられていた(のちに『つくる・ゆく』に改変された)。
三宅はパリで修業しているあいだずっと、この「橋」を魂に刻み込みつづけたという。
 東西を越え、生死をも跨ぐ「遊び」こそがイサム・ノグチの存在を告知する「橋」だとしたら、われわれはこれからも次々にまだ誰も見たことがない「橋」を、みんなで創り続けなければならないということなのだろう。
本書の構成デザインを終えて亡くなった田中一光は、本書には二つのイサム・ノグチに関する印象をしるした。
 ひとつは、1956年の大手町サンケイホールでおこなわれたマーサ・グラハム舞踊団のときの舞台をつくったイサム・ノグチ。そこには装置でもなく衣装でもなく彫刻でもない「前衛」が出現していたという。
もうひとつは、一光さんが奈良から出てきて東横ホールの緞帳に出会った衝撃のことである。
これはイサム・ノグチが川島織物の協力を得てデザインしたもので、和紙を切り貼りしてモデルをつくり、それを川島織物が織り綴った。
一光さんはこの緞帳に魅せられて、それが見たさに何度も東横ホールに通ったほどだった。
そこにはプロセニアム・アーチいっぱいに錆朱と紺と黄土色の矩形があしらわれているのだが、その余白がまことに絶妙で「最上質の日本」を感じたという。
川島順吉がそのときのことについて感想をのべていて、これがなんともおもしろい。
イサムさんはあの緞帳で「能の老松の鏡板に代わるものを狙っていたのだ」というのである。
 広島の橋が橋掛かり、渋谷の緞帳は松羽目なのか。
もし、そうだとしたら、なるほどこのようにしてイサム・ノグチは、何百キロも離れた能舞台をも作っていたということになる。





Play Equipment ( 遊びの計測装置 )




これは、あの子どもたちの世界。
私が創造したものを子どもたちに発見してもらいたいのです。
そして、ちょうど原始、人がしたように、子どもたちにも直接、大地と向き合ってもらいたいのです

                         イサム・ノグチ





イサム・ノグチは、日常生活の中にアートを持ち込む観測装置として、遊具をとらえ自然や古代文明にある形を抽象化し、世界中の子どもたちへ宇宙への夢を託しました。円環から、空、太陽、月、星、宇宙との対話を楽しめる遊具彫刻として今なお 私たちに多くのメッセージを伝えてくれます。







モエレ山公園で感じていた空、太陽、月、宇宙を祀る構図






大地と向き合う感性はどこから産まれたのだろうと調べてみました







古代の祭りとは自然をたたえる想いを祀りとしていたように思えます





その想いが生きる糧になると







お金以外の生きる糧を探す時と囁くようです












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