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図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

陽 遁

2012-12-27 20:28:54 | 日記


夏至をすぎてからの甲子の日は隠遁、冬至をすぎてからの甲子の日は陽遁。
明日、月が満ちる28日の次の日に甲子祭が出雲大社で祀られます。

出雲大社東京分祠のコラムに

出雲大社では、甲子(きのえね)の日がご縁の日です。
 ではなぜ甲子の日なのでしょうか。
いろいろな説がありますが、例えば、古事記の中の一説です。
 ある時、ダイコク様がおじい様である素盞鳴命(すさのおのみこと)の元へ参ります。
そこで、須勢理毘売命(すせりひめのみこと)に出会います。
 そして、素盞鳴命は「蛇の室の試練」「大野の鏑矢(かぶらや)の試練」「八田間(やたま)の大室屋の試練」という3つの試練をダイコク様に与えます。
須勢理毘売命の助けを借り、ダイコク様はこの3つの試練を切り抜くことができました。
 この試練の中のひとつ「大野の鏑矢の試練」で、ダイコク様はネズミに助けられます。
そして、甲子の子(ネ)とはネズミの事で、「ダイコク様と甲子の日は、深い縁があると考えられています。
また、甲子は十干十二支の最初の干支であり、 ものごとのはじまりで、種子(タネ)の状態を表しています。
このことから、五穀豊穣を祈願するおまつりが甲子祭であり、出雲大社では特殊神饌として、その時々に麦、あわなどをお供えしています。

 現代では、ものごとのはじまり、これから育っていく種の様子から、幸せの種を植える祈願の日として、農業に携わっていない方々もご参列になります。

大国主命を祀る とよあしはらのみずほの国では、冬至をすぎて満月を迎えてから、
「幸せの種を植える祈願の日」 と考えていたのでしょう。
日と月の天地のサイクルが目に見えぬご縁を結ぶ。

日月神示 地震の巻では目に見える物理と、目に見えぬ理の結びが示されています。
少し長くなりますが主だったところを抜粋します。

第一帖 (三七八)
 われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。
太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。
只自分自身のみの行為はない。只生れゆき栄えゆくのみである。
生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。
存在は生命であり、生れつつあるもの、
そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。
必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。
地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。
また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。
また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。
しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。
善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。
霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。
また、その理によって一定せる方位もない。
また時間もなく只情動の変化があるのみである。
地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、
創造されたものではない。
創造されたものならば、永遠性はあり得ない。
宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。

第二帖 (三七九)
 天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。
その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。
秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。
しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。
総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。
分類しては、生命の統一はなくなる。
其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。
一なるものは、平面的には分離し得ない。
二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。
分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、
陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。

第三帖 (三八〇)
 愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。
地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。
地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。
地上人は常に霊界により弥栄する。
弥栄は順序、法則、形式によって成る。
故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。
個の弥栄は、全体の弥栄である。
個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。
個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。
神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。
歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。
世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。
地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、
霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、
社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。
天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。
地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。
因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。
天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。
何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、
それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。
この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、
また地獄は地獄でない。
地獄は本来ないのである。
また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、
そこでは、天国も天国ではない。
只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。

第五帖 (三八二)
 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。
故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、
生前も死後の世界もまた神の中にあり、
地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、
呼吸し、生長している。
故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。
部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。
故に、歓喜が生ずる。
本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。
故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。
影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。
悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。
悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。
善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。
故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。
善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。
生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。
生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。
生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。
何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。
地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、
それは何れもが弥栄である。
これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、
そこには地獄的なものはあり得ない。


第六帖 (三八三)
 霊界人は、その向いている方向が北である。
しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。
中心は、歓喜の中の歓喜である。
それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。
霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、
その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。
故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。
それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、
生命しているのである。
要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。
地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、
同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。
上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、
それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。
各々が独立していて、他からの障害をうけない。
しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。
各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。

第七帖 (三八四)
 地上には、地上の順序があり、法則がある。
霊界には、霊界の順序があり、法則がある。
霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。
また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。
しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、
歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。

第十三帖 (三九〇)

 地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、
その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。
各々の段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、
その想念も各々の段階に於ては必ずしも同じではない。
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。
と同時に、真善 真善美愛 歓喜 大歓喜と現われる神秘なる弥栄があり、
悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。


今の世界は、時間と空間を計ることから生まれる物理に基づいて思考しています。
地震の巻では、目に見えぬ世界が原因で、目に見える世界が結ばれている。
「目に見えぬ世界の理は、時間や空間は存在しない」としています。

実際、目に見えぬ運やツキで人の進む道は大きく変わります。
ただ日月神示では、悪も神の意思のもとに生まれるとしています。
「悪には本来の力はなく、影にすぎない」とは、
艱難辛苦の状況でも、有難し、と受け取ること。
苦しい状況では物事を良く受け取ることはできにくいもの、
不平や不満の言葉を口にしてしまうものです。
弥栄への道は、悪の存在、偽の必然性の上に善が生まれる。

「無限の段階の違いにおいて、
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、
真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。」
と示されていることからすると、

ツキや運だけを良くしようということは、
地上的利害に囚われぬように気をつけることが大切なようです。

予言というのは目に見えて起こる前にあるビジョンを見ることですから、
目に見えぬ世界のビジョンを垣間見ることのように思います。
「霊界が、原因の世界であるからと云って、
その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。」
とあるように、
目に見える世界と目に見えぬ世界の立体的構造をどう捉えるかが、
予言の精度を変えるように思います。

アメリカ合衆国の経済学者であるラビ・バトラ氏は予言に

1979年にイランで革命が起こり、パーレビ国王が退位するであろう

1980年からイランとイラクとの間に7年間に及ぶ長期間の戦争が勃発するだろう

西暦2000年前後までに共産主義と資本主義の双方が崩壊するだろう
共産主義は早死にするだろう。資本主義は爆竹のように弾けて終焉するだろう

1990年1月から3月第1四半期の間に東京株式市場で株価の大暴落が起こるだろう

瞑想から予言の時期を産み出したとするラビ・バトラ氏の予言は、
資本主義の崩壊以外は正確に時期を予言しています。
その中で共通していることは、誰もが予言した時はそうなるとは思っていませんでした。
ただ資本主義の崩壊は、東京市場の大暴落で、ラビ・バトラ氏の予言に同調する人が生まれました。
2012年まで時期を延長しましたが、まだ破裂していません。
資本主義の富の偏りが崩壊を招くという理論です。
そのことに目に見える世界が意識し、変更を加えているため、
時期がずれているのでしょう。
でも目に見えぬ世界のビジョンは、いずれ形を変えて目に見える世界に訪れるのでしょう。
目に見える世界が変わることにより、
目に見えぬ世界の立体的結合が変わるということは、
現実として想定することで、避けることが可能。

目に見えぬ世界があることを想定する人は普通にいますが、
目に見えぬ世界は、命の元の大神様が、すべて産みだしたことを想定する人はいるでしょうか?
日月神示では心の中心にまことの神をもつことの大切さを示しています。

上つ巻に示されている
二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、
仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
人間の算盤では弾けんこのむすびは、神の力でないと何も出来ん。
親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、
苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、
人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ

「一筋の誠」にヒントがあるようです。

今の時代は、個の利益、家族の利益、会社の利益、組織の利益、国の利益の考えの上で成り立つ時代。
それは、自由貿易という名のもとに、いかに自分のもとに富を集めるか。

「個の弥栄は、全体の弥栄である。」とは相反する
「他から利益を奪い自分の利益とする」
その仕組みを変えるには大きな天災が起こりえる
と日月神示の中に書かれています。


目に見える世界のなかに目に見えぬ世界があり、
その世界を命の元の大神様が産み出していることに気づけば、
変更することができる。

日の大神様、月の大神様が御一体になられたミロクの大神様を祀る人が生まれていくと、
目に見える世界に起こることが変わっていく。
大地に感謝しても、先祖に感謝しても地上的生活を守る祈りでは、
変更はできない。

命の大神さまにご縁を結ぶことを
日と月の神様は示している。
それは、個を主張することから、目に見えぬ世界を含めた全体が繁栄する視点を持つことへの変化。
個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。

甲子(きのえね)の日に すべてを産み出だす命のの元の大神様にご縁を結ぶことができるといいですね
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 限りなき段階

2012-12-20 14:56:52 | 日記


ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの キ) 全十九帖第十三帖 (三九〇)

 地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、
その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。
各々の段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も各々の段階に於ては必ずしも同じではない。
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。
と同時に、真善 真善美愛 歓喜 大歓喜と現われる神秘なる弥栄があり、
悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。
故に、段階の異なる交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、
半面に於ては、極めて尊いものとなるのである。
ある段階で 善なりと信じて行為することが、地上人には 悪と現われることが多いのである。
何故ならば、同じ想の感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、
極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。
それがため、感応してくる同じ想の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、
遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。
所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。
地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。
奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。
かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。
浄化し、改心し得ないものである。

また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。
脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。
総て戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。
半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。
それは強(シ)いるが為である。
神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。
戒律あるところ必ず影生じ、闇を生み出し、カスが残るものである。
それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。
中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、
地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。
霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。
直線的なものは、月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。
但し、高度の霊人となれば文字はない。
ただ文字の元をなす・と○と+ があるのみ。
また高度の霊界人の文字として、殆ど数字のみが使用されている場合もある。
数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。
しかし これは不変のものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。


奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。
とは、
奇跡願うことは、目に見える努力をせずに神社でお願いごとをすることと同じようなこと。
願いが実現するための目に見える努力、目に見えぬ努力を重ねることが、
神と結ばれ、弥栄する。
マヤ暦で有名になった12月21日を明日に控え、今日は上弦の月。
月の中で目に見える部分と目に見えぬ部分が調和します。
目に見える世界と目に見えぬ世界の調和した後に冬至を迎えます。
冬至は太陽の陰の極み、0でもあります。
新たな012345678910の循環のはじまり。
月の大神様も日の大神様もご一緒に努力されているように感じます。
アセンションという言葉に命の元の大神様と結ばれる意味が含まれるようになるといいな。
そう日月神示で伝えているように思えます。

私にとっては、ひふみ神示地震の巻13帖の画像をアップすることは目に見える努力。

12月21日は、ミロク(567)の世の黎明かもしれない、
曼荼羅とは心の内と向き合うこと、
足りぬものがあれば、さらに描いていけます。
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すべてに

2012-12-12 12:07:21 | 日記
 


ひふみ神示17巻 地震(二日ン)の巻 第八帖 (三八五)
 生前の世界に、霊人が生活している。
山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。
しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす神が歓喜していた、
その神が生後、地上世界にうつされて、
地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、
その結果が、死後の世界につづき、
死後の世界の様相は神の原理によって、
生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、
その神を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的神に向って弥栄する面と、
外的、地上的に進む神と、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄する
神と、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、
全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。
而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。
また、生命の大歓喜として湧き出ている。
故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、
霊人により育てられると同時に、
人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。
かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、
真の三千世界の実相を十分に知り得ない。
故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。
新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。
この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、
何れも神の形に於けるが如く同一形式のものではあるが、
同一のものではない。
より小なるものより、より大なるものが生れ、
より大なるものより、より小なるものが生れ、
より新しきものより、より古きものが生れ、
より古きものより、より新しきものが生れる


地震の巻8帖はまだ難解な文章が続きます。
文字ではなく律動する線で書かれているのは、
人の概念にないものを示しているからでしょうか?
真の三千世界の実相のヒントが次の帖にあるように感じます。


 第九帖 (三八六)
 目に見えぬ存在、その作用、目に見える存在の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、
生命する。
これは根元からの存在であり用であるが、
動き弥栄する道程に於て、命の作用ナルトのうごきをなす。
目に見えぬ存在の立場よりすれば目に見えぬ存在は善であって、目に見える存在は悪、
目に見える存在の立場よりすれば、目に見える存在は善であって、目に見えぬ存在は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。
善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。
悪は悪善として神の中に、
善は善悪として神の中に弥栄える。
作用がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。
故に目に見えぬ想いは、生前界のみにては善なく、生命なく、
地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。
地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、
目に見えぬ想いとの交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。
而して、尚地上人は死後の世界に通じなければならぬ。
死後の世界との関連により複数的目に見えぬ悪善におかれる。
善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのである。
善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。
善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、
悪のみにても また同様である。
故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、
地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、
その行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、
三千世界は弥栄となり、
不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。
地上人のもつ想念の本は目に見えぬ存在そのものであり、
目に見えぬ存在のもつ想念の本は神であり、
神のもつ想念の本は大歓喜である。
故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。
何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。
歓喜の内奥より湧き出づるものは、目に見えぬ存在に属し、
外部より発するものは体に属する。
目に見えぬ存在に属するものは常に上位に位し、
目に見える存在に属するものは、常に下位に属するのであるが、
目に見える歓喜と目に見えぬ歓喜の軽重の差はない。
しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、
力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。
すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。
動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。
目に見えぬ世界にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。
目に見える世界のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。
悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。
常に、動き栄えゆく、大和のナルトの作用を中心とする上下、左右、前後に円を描き、
中心を 神とする立体的うごきの中に呼吸しなければならない
。それが正しきカムナガラの歓喜である。
カムナガラの歓喜は総てのものと交流し、
お互いに歓喜を増加、弥栄する。
故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。


霊、力、体の岡本天命氏の持つイメージと現代人の霊のイメージは変わってきているように感じますので、
目に見えぬ存在、その作用、目に見える存在に置き換えてみました。

現代の思考は、
「地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、
その行為こそ、悪そのものである」
そのものですね。
この度の選挙でも、色々な主張がなされていますが、
自分の主張の法則の下に総てをはめんとする一方的な考えの方ばかりですね。
この悪の作用に大和する方法があるのか?
目に見えぬ世界、その元である神を大切にすることでは?
日の大神様と月の大神様がご一体になられたとする日月神示を読む方も多くなりましたが、
大神様を祀っている方は何人いるのでしょうか?
アセンションという言葉を使う方は大神様が見えるのでしょうか?
日と月の調和した大神様が現れるとき、
内在神や先祖供養を日と月の大神様に結んで
祀られてるのでしょか?

マヤ暦で話題になっている12月21日は冬至の日でもあります。
日と月の周期では13日に新月のサイクルが冬至にむけてはじまります。
目にみえぬ大神様を祀る人が広がらなければ、
目に見えぬ存在が目に見える存在に作用し、
地震という目に見える変動が起こるように感じます。
目に見える世界は目に見えぬ世界と一体であり、
目に見えぬ世界の元は神である。

ご一体になられた神を祀る機会がすべてに用意されているのでしょう。


久しぶりに地震の巻の原本から画像を作成してみました。
3.11の震災が起きてからどうも地震の巻からは、イメージが浮かんで来なくなっていました。
画像の構成がイメージできたころ、ちょうど再び三陸沖の地震がありました。
単なる偶然なのでしょうが、地震の巻に関してなんらかのアクションをしますと
スマトラ沖地震、チリ沖地震、3.11の震災が起こります。
ただなんとなく、目に見えぬ元の大神様を祀る心が広がらないと
大きな地震を呼んでしまうのではないか、と思います。
でも、日本に普通に暮らしている人にとっては、
元の大神様を祀ることが地震を避けることになるということは
想定外のことなのでしょう。
古代では、世界中で神殿が作られ、神を祀ることが、あたりまえでしたが
今の市場経済の中で生きることを考える方には、受け取れない考えなのでしょう。
時代や土地が違うと常識はまったく異なります。
政治や経済が麻痺しないうちに目に見えぬ存在を大切にすることへ
想いの向きを変えることはできないのでしょうか。
江戸に元の大神様を祀る場所が産まれるといいですね。
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