夏至をすぎてからの甲子の日は隠遁、冬至をすぎてからの甲子の日は陽遁。
明日、月が満ちる28日の次の日に甲子祭が出雲大社で祀られます。
出雲大社東京分祠のコラムに
出雲大社では、甲子(きのえね)の日がご縁の日です。
ではなぜ甲子の日なのでしょうか。
いろいろな説がありますが、例えば、古事記の中の一説です。
ある時、ダイコク様がおじい様である素盞鳴命(すさのおのみこと)の元へ参ります。
そこで、須勢理毘売命(すせりひめのみこと)に出会います。
そして、素盞鳴命は「蛇の室の試練」「大野の鏑矢(かぶらや)の試練」「八田間(やたま)の大室屋の試練」という3つの試練をダイコク様に与えます。
須勢理毘売命の助けを借り、ダイコク様はこの3つの試練を切り抜くことができました。
この試練の中のひとつ「大野の鏑矢の試練」で、ダイコク様はネズミに助けられます。
そして、甲子の子(ネ)とはネズミの事で、「ダイコク様と甲子の日は、深い縁があると考えられています。
また、甲子は十干十二支の最初の干支であり、 ものごとのはじまりで、種子(タネ)の状態を表しています。
このことから、五穀豊穣を祈願するおまつりが甲子祭であり、出雲大社では特殊神饌として、その時々に麦、あわなどをお供えしています。
現代では、ものごとのはじまり、これから育っていく種の様子から、幸せの種を植える祈願の日として、農業に携わっていない方々もご参列になります。
大国主命を祀る とよあしはらのみずほの国では、冬至をすぎて満月を迎えてから、
「幸せの種を植える祈願の日」 と考えていたのでしょう。
日と月の天地のサイクルが目に見えぬご縁を結ぶ。
日月神示 地震の巻では目に見える物理と、目に見えぬ理の結びが示されています。
少し長くなりますが主だったところを抜粋します。
第一帖 (三七八)
われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。
太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。
只自分自身のみの行為はない。只生れゆき栄えゆくのみである。
生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。
存在は生命であり、生れつつあるもの、
そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。
必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。
地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。
また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。
また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。
しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。
善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。
霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。
また、その理によって一定せる方位もない。
また時間もなく只情動の変化があるのみである。
地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、
創造されたものではない。
創造されたものならば、永遠性はあり得ない。
宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。
第二帖 (三七九)
天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。
その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。
秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。
しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。
総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。
分類しては、生命の統一はなくなる。
其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。
一なるものは、平面的には分離し得ない。
二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。
分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、
陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。
第三帖 (三八〇)
愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。
地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。
地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。
地上人は常に霊界により弥栄する。
弥栄は順序、法則、形式によって成る。
故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。
個の弥栄は、全体の弥栄である。
個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。
個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。
神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。
歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。
世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。
地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、
霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、
社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。
天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。
地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。
因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。
天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。
何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、
それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。
この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、
また地獄は地獄でない。
地獄は本来ないのである。
また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、
そこでは、天国も天国ではない。
只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。
第五帖 (三八二)
全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。
故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、
生前も死後の世界もまた神の中にあり、
地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、
呼吸し、生長している。
故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。
部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。
故に、歓喜が生ずる。
本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。
故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。
影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。
悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。
悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。
善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。
故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。
善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。
生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。
生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。
生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。
何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。
地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、
それは何れもが弥栄である。
これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、
そこには地獄的なものはあり得ない。
第六帖 (三八三)
霊界人は、その向いている方向が北である。
しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。
中心は、歓喜の中の歓喜である。
それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。
霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、
その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。
故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。
それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、
生命しているのである。
要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。
地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、
同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。
上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、
それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。
各々が独立していて、他からの障害をうけない。
しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。
各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。
第七帖 (三八四)
地上には、地上の順序があり、法則がある。
霊界には、霊界の順序があり、法則がある。
霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。
また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。
しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、
歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。
第十三帖 (三九〇)
地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、
その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。
各々の段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、
その想念も各々の段階に於ては必ずしも同じではない。
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。
と同時に、真善 真善美愛 歓喜 大歓喜と現われる神秘なる弥栄があり、
悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。
今の世界は、時間と空間を計ることから生まれる物理に基づいて思考しています。
地震の巻では、目に見えぬ世界が原因で、目に見える世界が結ばれている。
「目に見えぬ世界の理は、時間や空間は存在しない」としています。
実際、目に見えぬ運やツキで人の進む道は大きく変わります。
ただ日月神示では、悪も神の意思のもとに生まれるとしています。
「悪には本来の力はなく、影にすぎない」とは、
艱難辛苦の状況でも、有難し、と受け取ること。
苦しい状況では物事を良く受け取ることはできにくいもの、
不平や不満の言葉を口にしてしまうものです。
弥栄への道は、悪の存在、偽の必然性の上に善が生まれる。
「無限の段階の違いにおいて、
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、
真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。」
と示されていることからすると、
ツキや運だけを良くしようということは、
地上的利害に囚われぬように気をつけることが大切なようです。
予言というのは目に見えて起こる前にあるビジョンを見ることですから、
目に見えぬ世界のビジョンを垣間見ることのように思います。
「霊界が、原因の世界であるからと云って、
その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。」
とあるように、
目に見える世界と目に見えぬ世界の立体的構造をどう捉えるかが、
予言の精度を変えるように思います。
アメリカ合衆国の経済学者であるラビ・バトラ氏は予言に
1979年にイランで革命が起こり、パーレビ国王が退位するであろう
1980年からイランとイラクとの間に7年間に及ぶ長期間の戦争が勃発するだろう
西暦2000年前後までに共産主義と資本主義の双方が崩壊するだろう
共産主義は早死にするだろう。資本主義は爆竹のように弾けて終焉するだろう
1990年1月から3月第1四半期の間に東京株式市場で株価の大暴落が起こるだろう
瞑想から予言の時期を産み出したとするラビ・バトラ氏の予言は、
資本主義の崩壊以外は正確に時期を予言しています。
その中で共通していることは、誰もが予言した時はそうなるとは思っていませんでした。
ただ資本主義の崩壊は、東京市場の大暴落で、ラビ・バトラ氏の予言に同調する人が生まれました。
2012年まで時期を延長しましたが、まだ破裂していません。
資本主義の富の偏りが崩壊を招くという理論です。
そのことに目に見える世界が意識し、変更を加えているため、
時期がずれているのでしょう。
でも目に見えぬ世界のビジョンは、いずれ形を変えて目に見える世界に訪れるのでしょう。
目に見える世界が変わることにより、
目に見えぬ世界の立体的結合が変わるということは、
現実として想定することで、避けることが可能。
目に見えぬ世界があることを想定する人は普通にいますが、
目に見えぬ世界は、命の元の大神様が、すべて産みだしたことを想定する人はいるでしょうか?
日月神示では心の中心にまことの神をもつことの大切さを示しています。
上つ巻に示されている
二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、
仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
人間の算盤では弾けんこのむすびは、神の力でないと何も出来ん。
親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、
苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、
人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ
「一筋の誠」にヒントがあるようです。
今の時代は、個の利益、家族の利益、会社の利益、組織の利益、国の利益の考えの上で成り立つ時代。
それは、自由貿易という名のもとに、いかに自分のもとに富を集めるか。
「個の弥栄は、全体の弥栄である。」とは相反する
「他から利益を奪い自分の利益とする」
その仕組みを変えるには大きな天災が起こりえる
と日月神示の中に書かれています。
目に見える世界のなかに目に見えぬ世界があり、
その世界を命の元の大神様が産み出していることに気づけば、
変更することができる。
日の大神様、月の大神様が御一体になられたミロクの大神様を祀る人が生まれていくと、
目に見える世界に起こることが変わっていく。
大地に感謝しても、先祖に感謝しても地上的生活を守る祈りでは、
変更はできない。
命の大神さまにご縁を結ぶことを
日と月の神様は示している。
それは、個を主張することから、目に見えぬ世界を含めた全体が繁栄する視点を持つことへの変化。
個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。
甲子(きのえね)の日に すべてを産み出だす命のの元の大神様にご縁を結ぶことができるといいですね
明日、月が満ちる28日の次の日に甲子祭が出雲大社で祀られます。
出雲大社東京分祠のコラムに
出雲大社では、甲子(きのえね)の日がご縁の日です。
ではなぜ甲子の日なのでしょうか。
いろいろな説がありますが、例えば、古事記の中の一説です。
ある時、ダイコク様がおじい様である素盞鳴命(すさのおのみこと)の元へ参ります。
そこで、須勢理毘売命(すせりひめのみこと)に出会います。
そして、素盞鳴命は「蛇の室の試練」「大野の鏑矢(かぶらや)の試練」「八田間(やたま)の大室屋の試練」という3つの試練をダイコク様に与えます。
須勢理毘売命の助けを借り、ダイコク様はこの3つの試練を切り抜くことができました。
この試練の中のひとつ「大野の鏑矢の試練」で、ダイコク様はネズミに助けられます。
そして、甲子の子(ネ)とはネズミの事で、「ダイコク様と甲子の日は、深い縁があると考えられています。
また、甲子は十干十二支の最初の干支であり、 ものごとのはじまりで、種子(タネ)の状態を表しています。
このことから、五穀豊穣を祈願するおまつりが甲子祭であり、出雲大社では特殊神饌として、その時々に麦、あわなどをお供えしています。
現代では、ものごとのはじまり、これから育っていく種の様子から、幸せの種を植える祈願の日として、農業に携わっていない方々もご参列になります。
大国主命を祀る とよあしはらのみずほの国では、冬至をすぎて満月を迎えてから、
「幸せの種を植える祈願の日」 と考えていたのでしょう。
日と月の天地のサイクルが目に見えぬご縁を結ぶ。
日月神示 地震の巻では目に見える物理と、目に見えぬ理の結びが示されています。
少し長くなりますが主だったところを抜粋します。
第一帖 (三七八)
われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。
太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。
只自分自身のみの行為はない。只生れゆき栄えゆくのみである。
生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。
存在は生命であり、生れつつあるもの、
そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。
必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。
地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。
また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。
また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。
しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。
善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。
霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。
また、その理によって一定せる方位もない。
また時間もなく只情動の変化があるのみである。
地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、
創造されたものではない。
創造されたものならば、永遠性はあり得ない。
宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。
第二帖 (三七九)
天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。
その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。
秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。
しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。
総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。
分類しては、生命の統一はなくなる。
其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。
一なるものは、平面的には分離し得ない。
二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。
分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、
陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。
第三帖 (三八〇)
愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。
地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。
地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。
地上人は常に霊界により弥栄する。
弥栄は順序、法則、形式によって成る。
故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。
個の弥栄は、全体の弥栄である。
個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。
個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。
神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。
歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。
世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。
地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、
霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、
社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。
天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。
地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。
因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。
天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。
何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、
それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。
この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、
また地獄は地獄でない。
地獄は本来ないのである。
また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、
そこでは、天国も天国ではない。
只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。
第五帖 (三八二)
全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。
故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、
生前も死後の世界もまた神の中にあり、
地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、
呼吸し、生長している。
故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。
部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。
故に、歓喜が生ずる。
本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。
故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。
影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。
悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。
悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。
善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。
故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。
善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。
生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。
生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。
生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。
何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。
地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、
それは何れもが弥栄である。
これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、
そこには地獄的なものはあり得ない。
第六帖 (三八三)
霊界人は、その向いている方向が北である。
しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。
中心は、歓喜の中の歓喜である。
それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。
霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、
その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。
故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。
それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、
生命しているのである。
要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。
地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、
同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。
上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、
それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。
各々が独立していて、他からの障害をうけない。
しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。
各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。
第七帖 (三八四)
地上には、地上の順序があり、法則がある。
霊界には、霊界の順序があり、法則がある。
霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。
また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。
しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、
歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。
第十三帖 (三九〇)
地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、
その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。
各々の段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、
その想念も各々の段階に於ては必ずしも同じではない。
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。
と同時に、真善 真善美愛 歓喜 大歓喜と現われる神秘なる弥栄があり、
悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。
今の世界は、時間と空間を計ることから生まれる物理に基づいて思考しています。
地震の巻では、目に見えぬ世界が原因で、目に見える世界が結ばれている。
「目に見えぬ世界の理は、時間や空間は存在しない」としています。
実際、目に見えぬ運やツキで人の進む道は大きく変わります。
ただ日月神示では、悪も神の意思のもとに生まれるとしています。
「悪には本来の力はなく、影にすぎない」とは、
艱難辛苦の状況でも、有難し、と受け取ること。
苦しい状況では物事を良く受け取ることはできにくいもの、
不平や不満の言葉を口にしてしまうものです。
弥栄への道は、悪の存在、偽の必然性の上に善が生まれる。
「無限の段階の違いにおいて、
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、
真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。」
と示されていることからすると、
ツキや運だけを良くしようということは、
地上的利害に囚われぬように気をつけることが大切なようです。
予言というのは目に見えて起こる前にあるビジョンを見ることですから、
目に見えぬ世界のビジョンを垣間見ることのように思います。
「霊界が、原因の世界であるからと云って、
その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。」
とあるように、
目に見える世界と目に見えぬ世界の立体的構造をどう捉えるかが、
予言の精度を変えるように思います。
アメリカ合衆国の経済学者であるラビ・バトラ氏は予言に
1979年にイランで革命が起こり、パーレビ国王が退位するであろう
1980年からイランとイラクとの間に7年間に及ぶ長期間の戦争が勃発するだろう
西暦2000年前後までに共産主義と資本主義の双方が崩壊するだろう
共産主義は早死にするだろう。資本主義は爆竹のように弾けて終焉するだろう
1990年1月から3月第1四半期の間に東京株式市場で株価の大暴落が起こるだろう
瞑想から予言の時期を産み出したとするラビ・バトラ氏の予言は、
資本主義の崩壊以外は正確に時期を予言しています。
その中で共通していることは、誰もが予言した時はそうなるとは思っていませんでした。
ただ資本主義の崩壊は、東京市場の大暴落で、ラビ・バトラ氏の予言に同調する人が生まれました。
2012年まで時期を延長しましたが、まだ破裂していません。
資本主義の富の偏りが崩壊を招くという理論です。
そのことに目に見える世界が意識し、変更を加えているため、
時期がずれているのでしょう。
でも目に見えぬ世界のビジョンは、いずれ形を変えて目に見える世界に訪れるのでしょう。
目に見える世界が変わることにより、
目に見えぬ世界の立体的結合が変わるということは、
現実として想定することで、避けることが可能。
目に見えぬ世界があることを想定する人は普通にいますが、
目に見えぬ世界は、命の元の大神様が、すべて産みだしたことを想定する人はいるでしょうか?
日月神示では心の中心にまことの神をもつことの大切さを示しています。
上つ巻に示されている
二二は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、
仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
人間の算盤では弾けんこのむすびは、神の力でないと何も出来ん。
親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、
苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。
鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、
人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ
「一筋の誠」にヒントがあるようです。
今の時代は、個の利益、家族の利益、会社の利益、組織の利益、国の利益の考えの上で成り立つ時代。
それは、自由貿易という名のもとに、いかに自分のもとに富を集めるか。
「個の弥栄は、全体の弥栄である。」とは相反する
「他から利益を奪い自分の利益とする」
その仕組みを変えるには大きな天災が起こりえる
と日月神示の中に書かれています。
目に見える世界のなかに目に見えぬ世界があり、
その世界を命の元の大神様が産み出していることに気づけば、
変更することができる。
日の大神様、月の大神様が御一体になられたミロクの大神様を祀る人が生まれていくと、
目に見える世界に起こることが変わっていく。
大地に感謝しても、先祖に感謝しても地上的生活を守る祈りでは、
変更はできない。
命の大神さまにご縁を結ぶことを
日と月の神様は示している。
それは、個を主張することから、目に見えぬ世界を含めた全体が繁栄する視点を持つことへの変化。
個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。
甲子(きのえね)の日に すべてを産み出だす命のの元の大神様にご縁を結ぶことができるといいですね