図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

元旦が新月

2013-12-31 19:08:14 | 日記




太陽太陰暦である旧暦の1日はいつも新月

太陽暦であるグレゴリオ暦の元旦が新月であることは珍しい

日と月の律動が調和した年となるのでしょうか

日と月の律動の調和を示す日月神示では


ひふみ神示 第06巻 日月の巻 / (ひつ九のまキ)

   第一帖 (一七四)
 富士は晴れたり日本晴れ。此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。日本の中に騒動起るぞ。神の臣民 気つけて呉れよ。日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。小さくしたいなれど。旧九月一日、ひつくのか三。



天津神の伝統を伝える伊勢神宮


国津神の伝統を伝える出雲大社


天津神と国津神の八百万の神が伝える伝統は


生かされていることに感謝を捧げる日本の心


心とは神に捧げるもの





   第二帖(一七五)
 三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、此の世の裏に隠(か)れしまま、此の世構ひし大神の、みこと畏み此の度の、岩戸開きの御用する、身魂は何れも生きかはり、死にかはりして練りに練り、鍛へに鍛へし神国の、まことの身魂 天駈けり、国駈けります元の種、昔の元のおん種ぞ、今 落ちぶれてゐるとても、軈(やが)ては神の御民とし、天地(あめつち)駈けり神国の、救ひの神と現はれる、時近づきぬ御民等よ。今一苦労二苦労、とことん 苦しき事あれど、堪へ忍びてぞ次の世の、まこと神代の礎と、磨きて呉れよ神身魂、いやさかつきに栄えなむ。みたまさちはへましまさむ。旧九月二日、ひつ九 のか三。



三千年続いた自ら生きているという考えから


生かされているという考えに変わる季節



ウィキペディアに
ソクラテスの思想は、イオニア学派の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある。
それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての、「無知の知」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さにもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く、卓越した人物であると看做される要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。

ソクラテスの有名な言葉に「徳は知識(知恵)である」


考えることが唯物的思考だけでは心がなくなることを知る季節


徳を積むことが生きる智慧


八百万の神に生かされ


日の神、月の神の律動から


徳を積むことの大切さを思う年のはじまり




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冬至から始まる

2013-12-22 17:24:46 | 日記



冬至から始まる


ひじり

聖とは日知り

天(あめ)地(つち)を知ると

天地に結ばれる




「 いのち 」という言葉の


いは 生きること


ちは 智慧


いのちがあるから


生きるための智慧に


生かされている


遺伝子に転写されているのは


種の生きるための智慧


そして祖先の経験


天(あめ)地(つち)を崇め


祖先を崇め


生きるための智慧を巡らすと


億千万劫のいのちの智慧が浮かんでくる


自然な智慧が産まれてくる




ひふみ神示 第13巻 雨の巻 / ( アメの キ)

  第一帖 (三三五)
惟神(か んながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ。
所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ、よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ。
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カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさ

2013-12-16 20:23:14 | 日記



ひふみ神示  五十黙示録  第02巻  碧玉の巻 第十帖


同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
この二つがそろうて、三つとなるのぞ、
三が道ぞと知らせてあろうがな


文字を大量に使用したシュメール人の遺跡では
宝石、金、銀などの財宝の他に合金や都市国家を築き
社会基盤である法律を整え、貿易を行い、覇権を争そっていた

楔形文字はヒエログリフより先行しインダス文字に影響を与えたとされています




60進法の時間、曜日を用いた太陰暦
現代の社会生活の基盤と同じものがほぼそろっていた


ただ違うところは


シュメールの古文書には、
これらの驚異的な天文学の知識、高度な医学、合金技術を

「神々からの贈り物」と記している



現代では神仏とはまったく無関係とされる物質文明が

「神々からの贈り物」



今から5000年前は、すべてが神の恩恵と考え



現代はすべてが個人の所有物と考える




ひふみ神示に書かれた

同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、
名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、

を受け取り三の道を気付くには



今は失われた、すべてが神の恩恵に気付くこと

その気付きが道を拓く




冬至に向かう最後の満月




逆のはたらきのバランスとは何か


思い巡らすこともよきかな

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 総てを自らつくり得、生み得るものと信ずる者は

2013-12-02 15:28:56 | 日記



ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの キ)

第五帖 (三八二)

 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。
その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。
本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。
悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている
善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている
故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。
生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。
この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては である。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行 く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄 浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。悉くの行為が批判され、賞罰さ れねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。
歓喜に審判なく、神に戒律はない。
戒律は弥栄進展を停止断絶 し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。
行為は結果である。思念は原因である。
あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つで ある。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死 後は映像の如く感覚されるものである。時、所、位による美醜、 善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。




冬至を迎える前の新月


陰の結びの力がつよくなるとき


思いの祓いが大切なとき


自らの力ではなく


生かされていることに感謝するとき




古代文字を検索していると

インカには文字はなく

結縄(キープ)で数字を現し交易を行っていた

文字の害を避けるため使わなくなったとも言われています


「結縄」は、中華民族の始祖とされる伝説の伏羲が行ったとされ、日本列島では、沖縄や房総半島や北海道で昭和時代まで使われていた。沖縄では、琉球王国時代から徴税事務や日常活動において数量を数える表示・記録の手段として用いた。沖縄では結縄を「ワラザン」「バラザン」などと称し、単位を区別するために紐には太さや材質の異なる複数の藁を用いた。この制度は琉球処分後も継続された人頭税が廃止される1903年まで継続された

古へには

藁を結ぶというのは神の縁を結ぶということが偏在していたのかもしれません


神社に注連縄は大切なことも納得できます




一方古代文字を実用化したシュメール人


楔形文字が色々な言語を産んだともいわれています


文字のほか、太陰暦、七曜制、60進法、暦とともに占星術も発達、金属の鍛錬など現代に繋がる都市国家や政治文化すべてシュメールの文化から産まれているようです

ウルにある巨大なジッグラドがバベルの塔や、長期に及ぶ洪水の伝説が旧訳聖書のノアの洪水と共通しているといわれています

そして、シュメール人の宗教の要点が強調しているのは、人間性のすべては神々のなすがままにあるということである。

シュメール人と呼んだのは他の民族で、自らは「ウンサンギガ」「混ざり合わされた者」の意)と呼び、その土地を「キエンギ」「君主たちの地」の意)と呼んでいた。

旧訳聖書からみると、

神に拮抗しようとしている姿に見えます

自らの神を正当とする考えが

今につながっています

それが争いの元になったりします

古代文字とは違う方向へ流れてしまいましたが、神代文字ということばがあるように


日常の生活が神に抱かれている


そんな発想を持てるといいですね。



マニュアルばかり優先したがる人に文字では伝えられないのと同じように


日や月の律動は伝えにくいもの



雑多なる部分の弥栄があるといいですね。







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