図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

27日 ポンス・ブルックス彗星

2024-03-28 19:17:28 | 日記


27日の月の出の前、条件も良く撮影できました







牡羊座ハマル、シェラタンと三角形を形成

31日にはハマルの近くに行きます







道南知内町の灯明岳の上に輝き









西の空に輝く木星の右にある明るい羊座ハマル方向を撮影すると


しばらくうまく撮影できそうです


大千軒岳から馬岳、灯明岳の山並み








その麓にある北海道新幹線のトンネル出口









新幹線工事の際、旧石器時代のお墓、縄文時代の環状列石が発掘されています









冬至から夏至に太陽が沈む方角にあり








古への風景を連想しながら、モニュメントのある道の駅展望台で新幹線を撮影してたら


閉鎖予定時間の20分前に鍵が施錠され、展望台に書いてた観光課に電話して5分ほど閉じ込められました。


一番ついてる人でも、予期せぬことがあるのですから、多少のことは気にしないことにましょう。













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朝景色 夕景色 夜景

2024-03-25 17:09:22 | 日記


23日、珍しく一日中雲がなく

函館の大森浜ではマス釣りにルアーを振る人







日の出前から広い砂浜の向こうまで釣り人がいました


日の出前後は、まだ釣れてないようです







午後から日本海のシラフラ・くぐり岩海岸へ








遠浅の海岸は夕景色撮影の人気が段々上がり、人も増えてきてるようです














時の流れを感じさせる岩













八雲町方面の冷水岳と軍艦岩









日本海に浮かぶ奥尻島と空









月明りで条件が悪かったのですが、その中央を拡大すると









かすかに光を放つ星







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春分の日

2024-03-20 18:47:51 | 日記



函館空港近くにある石倉貝塚の19日の夕陽







久しぶりに縄文土器に色をつけてみようかと史料を見ていると

石倉貝塚に円く土が盛られ、冬至、夏至、春分、秋分の日の出日の入りの方角が削られていて

汐首岬、函館山の右端、左端と方向が重なると書かれています

唐草模様はシルクロードを通ってギリシアから渡来したと言われてましたが

縄文土器にもすでに唐草模様はありますね

古へには古への理で暮らしていたのだろうと偲ばれます







石倉貝塚のある丘から西は、知内の岬、南は、下北半島、東は、汐首岬が眺める事が出来







北は蝦夷松山、雁肥山、横津岳が重なって見え







西から見ると横に延びた山々が一つに見えます







そんな石倉貝塚から北西の空

ポンス・ブルックス彗星が写らないかと撮影してみました

上端に光が丸くぼやけるのは?

霞みがかかっているので何とも言えないです。

下の建物は、アイス工房のある函館牛乳







この後、光源の少ない函館山の穴間に行くと







北風から逃れる船舶がいっぱい、霞みも濃く







前日も行ったのですが雲が多く







なかなか彗星は撮れない







14日の上から、昴、月、木星

昴に合わせると三日月が丸くなり、実際は







この時も北西の空は、雲があり、なかなか思うようには行かないものです













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渡島当別トラピスト修道院 旧ルルドの洞窟

2024-03-11 20:33:10 | 日記



2月に一度訪ねたルルドの洞窟にある氷柱








2月の暖かい日でも融けずに残った氷柱が剣のように3本に







融けて傾いた氷柱が、淡い光を放っています


1910年(明治43年)春、雪の深い丸山でジェラル・プーリエ師が遭難

幸い一命をとりとめ、入院中にこの丸山にルルドの洞窟建設を計画し、翌年落成されました







明治30年、日本にトラピスト修道院が創立されるのを知り志願して、日本に来る。横浜から函館を経由して当別に到着する。
プーリエは修院長就任と同時に日本人になろうと決心する。日本人の信者は4人しかいなかったがそのうちの一人、大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。

やせ地の開拓、働いては祈り、祈っては働くの毎日だったが7年後には周囲一帯を、えん麦、ジャガイモ、トウモロコシ、牧草などの畑地に変える。過労から2人が死に、病に倒れた者もいた。

重罪人とまで噂する地元の人たちは、院内の作物を荒らし、牧草の山に火を放ったことさえあった。
普理衛は母国の神学校で哲学、物理、化学を修め、しかも農業に対する知識も豊かだったが、同院での成功は知識よりもその性格によるものといわれている。喜怒哀楽は表面に出さないが、質実剛健、行動力は盛んであった。

創立間もなく和牛を飼ったが、思うように育たず失敗。明治35年には故郷からホルスタイン5頭を買い入れ、数年後、再び5頭を輸入する。道庁もようやくその熱意を感じ、この時1頭に付き50円の助成金が出た。

そしてこれらの牛をもとに36年からバターの製造を始めたため、酪農は道南一帯に広まる。酪農の成功は入院者の増加をも促し、前途を明るくした。その後さらにコンデンスクリーム、スキムミルク、チーズなどにも手をつけ、トラピストの名は朝鮮、上海まで伝えられるようになった。



トラピスト修道院は、厳律シトー会の修道院

ベネディクト会の標語 “ora et labora” 「祈り、かつ働け」を尊ぶ


多様性という言葉を簡単に使う人に聞かせたい言葉ですね







丸山の展望台から見えるトラピスト修道院


津軽海峡の水平線に淡い光が広がっていました








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志海苔館跡の夕景

2024-03-07 23:14:49 | 日記



雪の積もった環濠から函館山を望む、志海苔館跡の夕景







光芒が雲に流れ息吹きのように見えます







四角く巡らされた環濠は、海風も避けて住みやすい環境になっています







そんな志海苔館は、室町時代にコシャマインの乱で滅びます








志海苔館跡近くから5トンの古銭の亀が見つかり銭亀村と呼ばれていました

前漢の時代から明の時代までの古銭があり栄華が偲ばれます

そんな志海苔館の函館空港滑走路北側には、蝦夷松山や雁皮山が重なって見え









もう少し東に進むと、山が一直線になり縄文前期に三内丸山規模の縄文遺跡の有った場所になります


この地に住む人は、アイヌの部族に属する人も志海苔館に属する人も住んでいて


不平等な貿易を押しつける人に、蜂起し立ち上がった


北海道の名を付けた松浦武四郎は、「北加伊道」


「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という

「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味

縄文は糸魚川から翡翠を運び交易し

旧石器は沿海州まで黒曜石細石刃を交流した人の住む土地

和人、アイヌの名称にとらわれず

不合理な金銭を取り立てる権力者には、蜂起したいですね





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