平安中期、仏教の末法思想が人々に広く浸透し、浄土思想・浄土教が盛んとなった。
その頃は、寺に財産が集まり僧兵が形成された時期。
平安末期僧兵が強力な武装集団となり、平氏政権が武家政権への移行が起こし
源頼朝が将軍となり武家政治が続くこととなる。
僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこることを末法という。
寺や政権の財産を守るため、争いを起こし武力で治める
国家を守るため、相手を非難し武力で治めようとする権力者が増えるのは、これから末法のピークということなのでしょうか。
鎌倉時代、西へ西へ国土を広げたチンギスハン、中央アジア、イラン、東ヨーロッパに武力による国家を建設。
中国での戦法を究め古へからのシルクロードの征服
それは古へからの歴史の破壊
世界の人口の半数以上を支配したのは偶然だろうか?
スペインポルトガルによる、マヤ・アステカ・インカの掠奪征服
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国やイギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。
衰退期に入ったマヤ・インカのピラミッド文明、古への文明の幕引き
オランダによるジャワ島を中心とするオランダ領東インド支配においては、1825-30年におきた民衆反乱を弾圧したのち、「強制栽培制度」を1830年に実施した。これは、ジャワ農民に対し、土地の一定割合で稲作など食用の栽培を禁止し、コーヒーやサトウキビといったヨーロッパ輸出用の高級作物の栽培を強制する制度で、ナポレオン戦争後のオランダ本国がおかれた経済的苦境を、打破するためのものであった。この制度により、ジャワから強制栽培品を安く買い上げ転売したオランダは経済が好転、鉄道建設をはじめ、産業革命と近代化のための資本蓄積に成功した。
厳罰によって実施されたこの制度で、ジャワ農民は稲や麦という自給食料を失い、1843-48年には飢饉に苦しみ多数の餓死者を出したと言われている。強制栽培制度は中断を伴い形を変えて20世紀まで続けられ、第二次世界大戦中の日本軍のオランダ領ジャワへの侵攻とその撤退後も解決されず、インドネシアとオランダとの独立戦争の終戦まで続いた。オランダはインドネシアに賠償をするどころか、インドネシアの独立を認めるに際しては、オランダによって建設され管理されたインドネシア内のインフラ設備の譲渡料の名目で60億ドルの補償金をインドネシアに要求している
インドネシア スラウェシ島の山間部に住むトラジャ族は、死を突然で断絶的な出来事とは考えず、プヤ(Puya)と呼ぶ魂の地(または来世とも考えられる)へ至るゆるやかな流れの一環と捉えている。肉体的な死を迎えると、死体は香油を塗られ、吸湿性を持つ生地の帯でぐるぐる巻きにされてトンコナンに安置され、ゆっくりと乾いてゆく殯(もがり)をとり行う。
イギリスは世界に先駆けて産業革命を達成し、19世紀始めのナポレオン戦争後は七つの海の覇権を握って世界中に進出し、カナダからオーストラリア、インドや香港に広がる広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような交易を繰り広げイギリス帝国を建設した。中国国内でのアヘン販売を武力で認めさせるため、清朝に対して阿片戦争を仕掛けた。
オーストラリアでは、一万年以上昔より住むアボリジニが、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くの虐殺を行った。
空気抵抗を理解せずにブーメランを道具として利用したのだろうか?
キリスト教布教の名目で植民地政策を行う。
一神教であるキリスト教は、原始的なシャーマニズム、アニミズムの多神教より優れた信仰であるという幻想の元で古へからの伝統を破壊
イギリスの植民地化されたが、ヒンドゥ教が8割を占めるインド
ヴェーダの中に有史以前の記憶が息づいている
ダールマのもとに生きることを第一とする生き方
ユガは、インド哲学において、循環する4つの時期からなる「時代」の名前
4つの時期とはサティヤ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、そしてカリ・ユガ
現代はカリ・ユガ - 徳が4分の1、罪が4分の3を占める。
それぞれの期間においては、法や徳、知恵、知識、知力、寿命、感情や肉体の強さが徐々に低下していく。
困難の時だからこそ
魂が磨かれる
ダルマの元に生きるとは、宇宙の法と秩序を魂に刻印すること
古への神殿で祀られていたように
天地自然の祝詞を奏上することができるといいですね