図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

尊・命 ( みこと )

2016-02-23 21:52:51 | 日記






神や貴人の名前の下につける尊称。 「素戔嗚(すさのおの)-」 〔日本書紀では,「尊」を最も貴いものに,「命」をその他のものに使う〕

みこと ( 御言 )
言 ( こと ) を敬っていう語。神・天皇・貴人などの言葉。おおせ。御命令。


言霊は、御言から産まれる命のはたらき


五郎丸ポーズに似ている植芝盛平氏の写真以来よく見ている武産通信ブログ


日本における神道の精神が書かれているように思います。



天地の聲(あめつちのこえ)  植芝盛平


物の霊は魄とこういうんです。魂魄の魄です。あの人は魄力があるから偉いとこう言うんです。その魄力の世界は偉くないのや、実はな。魂(こん)の世界じゃなきゃ、魂(たましい)の世界が出て来なきゃ。いやしくも日本の国は精神の王国である。然るに魄ばかりじゃいかん。魄は物です。物の霊は魄という。肉体は物質です。この間(あい)に魄という物質に添うたところの霊があった。それで二つ合い寄って力というのが出来る。この力を魄力とこういうた。魄力は寿命が短いですよ。魂力は反対です。そこで何故、魂(たましい)という。魂力(こんりょく)も、魂(たましい)も、魂の緒(たまのお)も一つです。
 何故、植芝の爺がそういうことを言うのか、意図があります。この世界はひとりの創り主によって創られた。最後に人が創られたんでしょう。人類発生の端緒というものは、日本においてはやな、五男三女神(天照大御神と須佐之男命の宇気比によって生まれた神々)をもって骨子としている。近江の国に歴然と、今なお痕跡を残しておる。
 それで、この自身は霊というもののやな、創り主の直霊である。即ち、直なる分御霊(わけみたま)である。これを宗教家は本守護神と呼ぶ。これが自分なのです。この肉体の、肉と、霊と、魄との間において、この上にですね、自分自身というものは磨いていくんです。無論、この肉体のおこる六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という、藪医者なんかがいう、六根清浄というでしょ。その六根を磨いた上に自分を乗せるでしょ、それでこれを畑とし、これを神籬(ひもろぎ。神霊が天下る木)とし、これを磐境(いわさか。神が降臨するための石を築きめぐらした祭祀場)とし、地場(じば。神が宿る場所、土台)として、修行の道場として自分自身がこの上で修行する。この植芝もともに一つになって修行できた暁に起こる伊都能売の御霊(いずのめのみたま。伊耶那岐が禊したときに化成する神)とこうなるんです。本当の大和魂の力を出すのです。そうなったら全大宇宙を今度は地場とし、磐境とし、修行の道場として、今度は大宇宙へ溶け込んでしまう。大宇宙と自分は一つになってしまう。それでこそ、はじめて人生があるのです。その、そうなる修行がどういうことかというと、合気道が一番近い道です。




日月神示 地震の巻 16帖では


 第十六帖 (三九三)

 考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある。
表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。其処に人間としての、他の動物に比して異なるもの、即ち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。人間が、一度 死の関門をくぐり、肉体をすてた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それは直ちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。






大宇宙と自分が一つになる



命は、命の親様に内奥で結ばれているから一つになることができる。



古へには一なるものに結ばれた思考があった。



人工の物だけでは、大宇宙に結ばれることが無く



命を尊び、実る言葉から遠のいてしまう。





天の気は、フィジーで風速90mのサイクロン



2月の日本は大雨と大雪



寒気と暖気の攻めぎ合い





天地の聲は自然の中に命が結ばれていると囁いているようです。









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火の国 水道凍結

2016-02-08 15:53:21 | 日記



普段凍ることのない九州で水道凍結

火山の国九州で、水のはたらきで道が破壊される


既存の道が自然の力で破壊される

それは、天地(あめつち)の心の現れ


同じような連想をさせる言葉を残している方がいます。


昭和3年、太平洋戦争が始まると日本国民が地獄へ落ち入ると

田中義一総理に鳩山一郎内閣書記官を通して謹告分を渡した出居清太郎氏

出居清太郎氏は昭和43年、将来の危機に臨み

「川に沿わないで水に沿って行け、川に沿うから川に落ちるんだ」

と言葉にしています。

川とは既存の考え方

水とは天地自然の心

その言葉の前に

「何もかも裸になれ、天借を払え、大恩に報いよ。

総理大臣以下国民よ、天借を払わざれば行詰まるぞ」



ここまで5日の昼に書きかけて、

九州は火の国というのがしっくり感じるだろうか

と思っていました。








夜の桜島の噴火で火の国で間違いないと思えました。

夜空に広がる溶岩の流れは、火のはたらきの強さを感じました。





出居清太郎氏は、全て火、風、水のはたらきから産まれる

と敬霊気に書かれています。


日月神示の中にも

五十黙示録 第03巻 星座の巻

第一帖
 この巻「星座の巻」。偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ、天に星のある如く地には塩があるのであるぞ、シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのであるぞ。天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ。

ひふみ神示 第01巻  上つ巻 / (うへつまき)

  第一帖(一)
 二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる。 みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ。世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。六月の十日、ひつくのかみ。




偶然ということは天地の起こすこと


いらぬものがが無くなるまで、火と水の反対のはたらきは終わらぬ。


口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふ


言霊とは誠の心で行うことで命になる。





古代ギリシアの哲学では

万物の根源をアルケーと呼び

哲学の祖はミレトスのタレースは、万物の根源(アルケー)を水であるとし、

ヘラクレイトスは火を、ピュタゴラスは数をアルケーとした。

神々の生きた古代ギリシアでは、アルケーとテロスの概念があった。




『新約聖書・福音書』において、イエズスは「わたしはアルパであり、オメガである」と述べたと記されているが、アルパ(Α)とオメガ(Ω)はギリシア語アルファベットでの最初と最後の字母である。
したがって、イエズスは「わたしはアルケーでありテロスである」と述べたとも解釈され、彼はギリシア語で語ったのではなくアラム語かヘブライ語で言葉を述べたはずで、ヘブライ文字だと最初と最後の字母はアレプとタウとなり、これはギリシア語のアルケーとテロスの頭文字に対応する。





元素と各項目の対応関係を示す表をみると







プラトン立体では





正四面体 火





正6面体 地





正8面体 空気





正20面体 水





この立体では、火が最初であり、水が最後であるともとれます。






錬金術では、

上昇する三角形(火)と下降する三角形(水)で作られるシュリヤントラに







4元素が現されているように見えます。





合気道開祖 植芝盛平翁は、

合気道では、この火と水を重視している。開祖は「武産合気」の中で、「この火と水を名づけて合気というのです。だから全大宇宙と言うものは全部火と水にて一杯つまっている。これを合気と名づけている。まず形でいうと、この火と水の交流によって、気というものが出来る。人が呼吸しているのも、火と水の交流による。火と水が一杯つまっているから世界は動き、ものは活動する。」と言われている。

天の浮橋とは火と水の交流という。丁度十字の姿、火と水の調和のとれた世界である。つまり高御産巣日、神産巣日二神が、右に螺旋して舞い昇り、左に螺旋して舞い降り、この二つの流れの御振舞によって世界が出来たという。火(か)と水(み)でカミになり、このカミ(火と水)の根源は一元に帰るが、一元から霊魂の源、物質の根源が生まれたという。これが天地における水火の交流であろう。








太古の神殿の遺跡は

根元からの一なる思考が有った。





現代の自己を起点として思考する文明より


根元の火水(かみ)を思考する文明が優れた物を作っていても




不思議でないですね。










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