無常観を詠う「いろは歌」のブログを作った後に震災が起こりこの内容をアップするか、しばし迷いました。
でも大地を作りはぐくむ国常立神は、名を知らせずに古へより、今に大切なはぐくむ心を現しているように思いアップすることにしました。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
作者不明で涅槃経の無常観を読み解いたもの、または暗号を埋め込んだ歌などとされています。
形あるものは散り行くもの
わが世を謳歌していてもいつか散り行く
有為を全て今に為し
浅き夢をみて酔いもせす
なんとなく無常観ではあるが、この世は夢あの世が実相の存在と歌っているように感じていいました。
永久の存在からみるとこの世というのは、その一部分ではないか。
ひふみ神示 第19巻 マツリの巻第二帖では、
これまでは「いろは」でありたが、愈々一二三(ひふみ)の力 加はるぞ、「いろは」はやさしいが「一二三」は新(あら)いから、新事(あらごと)もするから その覚悟致されよ、その覚悟よいか、きたない心すててゐると、小さい心大きくなって自分でもびっくりする様 結構が来るぞ。警察いらんと申してあるぞ。八月九日、一二
儒教と同じく古へのシャーマニズムから生まれた道教の老荘思想の胡蝶の夢では
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
儒教道教は古代文明の魂のつながりを復活することを思い描いているように思います。それを西欧の文明はシャーマニズムとして原始宗教という概念で疎外してきたように感じます。
二千五百年前は古代ギリシアの繁栄していた時代、神話が息づきかつ西欧文明の基礎をなす実証主義が生まれ、ローマ帝国へと受け継がれていきました。
それと同じ時代に、孔子が戦国時代に失われていったと感じた命のつながりから生まれる仁ではなく物質に基づく価値観の推移があったのではないかと思います。
その流れの頂点が物で価値を測る市場経済で世界中に物が満たされる時代になったように感じます。
あたりまえになった物に魂の結びを感じることを忘れているような気がします。
古への人々が大切にした山や川、自然の魂の基に生かされていることを忘れているような気がします。
太陽の恵みの魂、大地のはぐくむ魂に生かされていることを古への人は祭り祝っていたその形がストーンヘッジやピラミッドなのでしょう。
一二三神示では心の中に内なる神を感ずることを古へよりはぐくんできた国常立神が示していると思います。一二三神示を八通りに色々な角度から解釈して心の中に内なる神を見出して欲しいと望んでいると思います。
掲載した画像は、一二三神示 地震(二日ん)の巻 第十六帖。
それは国常立神の想いの形のような気がします。
八大龍の奥底に大地をはぐくむ形。
でも大地を作りはぐくむ国常立神は、名を知らせずに古へより、今に大切なはぐくむ心を現しているように思いアップすることにしました。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
作者不明で涅槃経の無常観を読み解いたもの、または暗号を埋め込んだ歌などとされています。
形あるものは散り行くもの
わが世を謳歌していてもいつか散り行く
有為を全て今に為し
浅き夢をみて酔いもせす
なんとなく無常観ではあるが、この世は夢あの世が実相の存在と歌っているように感じていいました。
永久の存在からみるとこの世というのは、その一部分ではないか。
ひふみ神示 第19巻 マツリの巻第二帖では、
これまでは「いろは」でありたが、愈々一二三(ひふみ)の力 加はるぞ、「いろは」はやさしいが「一二三」は新(あら)いから、新事(あらごと)もするから その覚悟致されよ、その覚悟よいか、きたない心すててゐると、小さい心大きくなって自分でもびっくりする様 結構が来るぞ。警察いらんと申してあるぞ。八月九日、一二
儒教と同じく古へのシャーマニズムから生まれた道教の老荘思想の胡蝶の夢では
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
儒教道教は古代文明の魂のつながりを復活することを思い描いているように思います。それを西欧の文明はシャーマニズムとして原始宗教という概念で疎外してきたように感じます。
二千五百年前は古代ギリシアの繁栄していた時代、神話が息づきかつ西欧文明の基礎をなす実証主義が生まれ、ローマ帝国へと受け継がれていきました。
それと同じ時代に、孔子が戦国時代に失われていったと感じた命のつながりから生まれる仁ではなく物質に基づく価値観の推移があったのではないかと思います。
その流れの頂点が物で価値を測る市場経済で世界中に物が満たされる時代になったように感じます。
あたりまえになった物に魂の結びを感じることを忘れているような気がします。
古への人々が大切にした山や川、自然の魂の基に生かされていることを忘れているような気がします。
太陽の恵みの魂、大地のはぐくむ魂に生かされていることを古への人は祭り祝っていたその形がストーンヘッジやピラミッドなのでしょう。
一二三神示では心の中に内なる神を感ずることを古へよりはぐくんできた国常立神が示していると思います。一二三神示を八通りに色々な角度から解釈して心の中に内なる神を見出して欲しいと望んでいると思います。
掲載した画像は、一二三神示 地震(二日ん)の巻 第十六帖。
それは国常立神の想いの形のような気がします。
八大龍の奥底に大地をはぐくむ形。