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図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

流れる月光の水

2013-06-23 15:11:21 | 日記


月に頭を垂れて

地球に月が一番近づき

流れる月光の水



ひふみ神示 補巻 月光の巻第五十四帖

 頭を下げて見なされ、流れて来るぞ。頭も下げず低くならんでゐては流れては来ないぞ。
神のめぐみは淡々とした水のようなものぞ。
三千世界和平から出発せねばならんぞ。
礼拝を忘れ、祈りをわすれることは神をわすれることぢゃ。
そなたの住む段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ。
拝まんでも拝んでゐる境地はなかなかぢゃなあ。
そなたはわれが助かろうとするから助からんのぢゃ。
世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。
我をすてて素直になされよ。
三千年の秋が来てゐるのであるぞ。


画像のグラストンベリー・トアは島のように湿地の中に浮かんだ

古代よりケルト人などの聖地
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一二三の宝

2013-06-20 11:46:39 | 日記





ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの キ) 全十九帖

 第十六帖 (三九三)
 考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある。

何を考え、何を思い、何を行為するのか が自然の理法を産む

ひふみ神示 第05巻  地つ巻 / (九二つまき) 全卅六帖には、

第八帖 (一四五)
 祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ、昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。九月十九日、ひつ九の 。

人には各々のカルマがあり
そのカルマに向き合って
宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、

アクウェリアスの時代はとけきる時代

ひふみ神示 第02巻  下つ巻(四百つまき)

第四帖 (四六)
 早く皆のものに知らして呉れよ、神急けるぞ。お山の宮も五十九の岩で作らせておいたのに、まだ気が附かんか、それを見ても神が使ってさして居ること、よく分かるであろうが、それで素直に神の申すこと聞いて呉れて我(が)を出すなと申してゐるのぞ、何事も神にまかせて取越し苦労するなよ、我が無くてもならず、我があってもならず、

岡本天明氏と同じく誠の神を求めた出居清太郎氏は
欲があってもならず、なくてもならず、うすくするのが大切と話しています。

現代の思考は西欧の自己主張することを基盤としています
その欲望の中で欲をうす~くして徳をつむことが
心の洗濯
魂を磨くこと

心理学のフロイドはリビドー(性的エネルギー)を昇華することが
心のバランスを保つ秘訣だとしています。
ユングは生きるエネルギーは魂の欲を受け取ることと、説いています。

シュールレアリズムが全ての事象にリビドーを通じて解釈したように
アクウェリアスの時代とは、魂の欲求を通じて解釈する時代のように感じます。

神々のカルマと向き合う魂を生き生きと描いたギリシア神話
太陽と向き合うことで魂と向き合う太陽信仰
歴史は今と向き合うツールを残していて

全ては一二三の理法から産み出だされている

明治天皇の詩に

みがかずば玉の光は出でざらむ 人の心もかくこそあるらむ

生きることは魂を磨くことであると


お釈迦様が初めて説いた初転法輪に

苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)

と苦しみから説いたのは
この世は、苦労することにより魂が磨かれる
自我の主張する、うれしいこと楽しいことは
人生のほんの一部
心の底の魂は磨かれること
ヤスリである苦を臨んでいるからなのでしょう。

出居清太郎氏は敬霊氣の中で
午前十時の陽あたりが午後三時までは続かない。いずれは日陰になる。午後三時には、それまで陽かげであった処が陽あたりの場となる。これが自然のいつわりなき不断の廻転である。人はこの悠久不変の法則の下にあり、その変化の中に活かされているのだ。
あがった相場は必ず下がるし、下がった相場もいつかまた上がる。あがりっ放し、下がりっ放しということはない。
これは人生にもあてはまる。幸、不幸、運、不運というが、頂点と谷底との間隔が人の一生より長いということはない。せいぜい十年前後である。上がっても下がっても、じっと真捧する。それが変化に処する道である。人はこの僅かの間の真捧をしかねる。この真捧のできる人とできない人、ここに人のねうちが生ずる。

天地自然の一二三の法則は真捧が魂の心棒になる。


心の洗濯を重ね重ね示している日月神示の第1帖には

己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。

それは命の親からの視点のなのでしょう

物を得ることを成功と考える社会の中で

各々が何を掃除できるでしょうか

利害とは別に他を生かす、言葉と心と行いがあるでしょうか

明日は陽の満ちる夏至

魂に陽をあてて

陰への切り替え準備をいたしますか

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ことたまのさきはふ国

2013-06-08 15:22:37 | 日記





地震の巻 第十一帖 (三八八)
 遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。同一線上にある言葉は、何れも同一であって共鳴する。言葉は、想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。即ち、その発音から、また言葉の構成から、その人の如何なるものなるかは、直ちに判明する。霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない。言葉そのものが弥栄であり、生命である。また総てである。それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様である。だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に、柔らかくして連続的であり、太陽のひかりと熱とに譬えることができる。また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている。

誠の言葉を話すことにより

ことたまがさきはふ

祝詞の律で読むと

あ~あ~まあ~てえ~らあ~すう~ お~ほお~みい~かあ~みい~

お~お~くう~にい~ぬう~しい~のお~ お~お~かあ~みい~

あ~めえ~ぬう~みい~なあ~かあ~ぬう~しい~のお~ お~お~かあ~みい~

くう~にい~とお~こお~たあ~~ちい~のお~ お~お~かあ~みい~

日月神示の五十黙示録 第06巻 至恩の巻第十帖では、

 国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、
とあります。

地震の巻十一帖のひふみ神示解釈は、「愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている」とされていますが、
太陽神である天照大神、天御中主大神にEの発音があります
地震の巻のこの部分だけは、
解釈には疑問をもってよいと感じます。

誠を尽くすには、形や物やお金にとらわれぬことばを話すこと

ひふみ神示 第01巻  上つ巻 第四帖 (四)では、
 急ぐなれど、臣民なかなかに言ふこときかぬから、言ふこときかねば、きく様にしてきかす。神には何もかも出来てゐるが、臣民まだ眼覚めぬか、金(かね)のいらぬ楽の世になるぞ。早く神祀りて呉れよ、神祀らねば何も出来ぬぞ。表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ。神をだしにして、今の上の人がゐるから、神の力出ないのぞ。お上に大神を祀りて政事(まつりごと)をせねば治まらん。この神をまつるのは、みはらし台ぞ、富士みはらし台ぞ、早く祀りてみつげを世に広めて呉れよ。早く知らさねば日本がつぶれる様なことになるから、早う祀りて神の申す様にして呉れ。神急けるよ。上ばかりよくてもならぬ、下ばかりよくてもならぬ、上下揃ふたよき世が神の世ぞ。分らねば神にたづねて政事(まつりごと)せねばならぬと云ふことまだ分らぬか。神と人とが交流(まつり)合はしてこの世のことが、さしてあるのぞ。人がきかねば神ばかりで始めるぞ。神ばかりで洗濯するのは早いなれど、それでは臣民が可哀そうなから、臣民みなやり直さねばならぬから、気をつけてゐるのに何してゐるのざ、いつ何んなことあっても知らんぞ、神祭第一、神祭結構。二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りて呉れよ。コハナサクヤ姫様も祀りて呉れよ。六月十三の日、ひつくのか三。

ロシアでは、空に太陽のように輝く彗星が飛び、24℃で雪が降る時節

それは

形や物やお金にとらわれずに誠の神を祀るとき

誠の神を祀るために働くとき

身の回りの人に物やお金と関係なく縁をむすべるでしょうか

遠くにいても近くにいても、新しくても古くても

共鳴することばを話せるでしょうか
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