硝子戸の外へ。

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介護職員のつぶやき。

2012-12-23 23:17:31 | 日記
介護職という仕事に就いてかれこれ十余年。最初は理想に燃えていたけれど、何度か燃え尽き此処の処はなんで介護職という仕事をしているんだろうと、迷うこともしばしば。と、愚痴はこれくらいにして、最近よく思う事をつぶやきたいと思います。

利用者さんの事をよく知るために、介護認定を受けるまでの人生。そして施設入所に至るまでの経過をアセスメントシートで確認をするのですが、なんだか「これで本当に良かったのか」と思う事がある。

現在に至るまでに、何度か脳梗塞になることで、その都度救急搬送され、肩麻痺になったり、言語障害が出たり、車いす生活を強いられたり、誤嚥を起こして肺炎を併発し、入院、治療を繰り返し、認知症が発症したり、ベッド上の生活になって施設入所になるケースは普通にあるけれど、もし、最初の脳梗塞で救急搬送されなければ、その時点で人生は終わっているのです。その時で終わっていれば、介護という悩みを誰もが抱えなくて済んだはずなのです。

助かったがために、今までのような生活ができなくることで、もどかしさを感じたり、家族に介護負担がかかったり、施設入所が決まっても「家に帰りたい」と訴える利用者は多い。それが本当に幸せと呼べるだろうか。中には身寄りがなくて、生きてゆくにはどうしても公的な社会資源に頼らなければならない人もいるけれど、そういう人を除いて、この社会資源は必要なんだろうかと考える。

人はいつかは死ななければならない。もし、未来にも今のような福祉事業が必要だとしたら、今元気に暮らしている人達の何人かは上記で述べたケースをトレースせねばならないという事でもある。「あの人たちはいいけれど、私たちはごめんだ」というわけにはいかない。

きょうの朝刊で老人虐待件数が前年に比べてわずかに減少したという記事があったけれど、おそらくそれは表に出てきただけの数字であり、実際は増加しているのではないかと思う。なぜかというと、人は自分の意思に反するもの受容することは極めて困難だからである。施設の理念で「愛」を挙げているところは多いと思うけれど、「愛」とは、「受難」を伴うものである。その事を理解していないから、「愛」という言葉をたやすく用いる事が出来るのであろう。

また、空いている席があるのに、若者たちがエントリーしてこない職業とは非言語で「未来が描けない」という事を表わしている。
そこを進めないご両親も、その感覚に同意しているからである。でも、介護という仕事を進めないご両親も上記のような経過をトレースしなければならない可能性を秘めている。

この事を踏まえて、「人の死について」「社会福祉の在り方」について考え直さなければならない時が来ている気がするのです。

しかし、世は資本主義社会なのだから死を迎えるまでに大金持ちになってしまえばそのリスクは解消されるのも事実なのです。





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