硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

クリスマスに思う事。

2012-12-24 15:58:35 | 日記
今日はクリスマス・イブ。ケーキ屋さんへケーキを買いに行くといつもは割と空いているのに、今日はたくさんの人がケーキを買い求めていた。

クリスマスって、キリストを愛する人でなければ関係ないはずなんだけれど、よく分からなくてもロマンテックでいいですよね。

ナザレのイエス、救いの御子の生誕日だからお祝いをする。なんか、いいですよね。

宗教なんだけれど、そうでないところでイエスを意識せず、イエスの生誕のお祝いがなされている。ひょっとすると、これがイエスが導かれた世界なのかもしれません。

もちろん、教会に集い、主を賛美することも、イエスが導かれた世界の一つといえます。

聖書を読む事も、洗礼を受ける事も大切であるけれど、そうでなくても「主の愛」を非言語で理解している方もいらっしゃる。

つまり、信仰という形に正解はないのだと思う。

組織的に機能させるのには、どうしても言葉や儀礼を通さなければならないのだけれど、無所属であれば自由である。

しかし、無所属でも主は愛してくださるのです。

信仰における難しい様々な問題は、人が起こすものであり、宗教自体には関係がない。

そこを踏まえなければ、純粋に信仰できないと思う。人が人を管理するという考え方が信仰心を濁すのだと思う。

信仰は神仏を敬うことであり、人に従うことではない。なぜならば、宣教するものが知恵者だからといって、純粋な信仰心をもっているとは限らない。「ツァラトゥストラはかく語りき」や「三人の隠者」や「破戒」という物語が生まれたのは、作者にそういった思いがあったからだと思う。

昨日も述べたけれど安易に手に入る「愛」は、「愛」ではない。「愛」の本質は与えるものである。

児童書の「大きな木」や「幸福の王子」が生まれたのは、「愛」とは見返りを求めず与え続けるものなのだよと、作者が読み手に伝えようとしている重要なメッセージなのです。

与えられる方は「それが当り前である」と思い込みがちだが、それは見当違いである。与えられたら、何かをパスせねばならない。それは、感謝の言葉だけでもいいし、言葉がでないのであれば、笑顔を見せるだけでもいいのだと思う。

そういう気持ちのあるやりとりが他者との間にある隔たりに「愛」を見つける事が出来るのだと思う。

もちろん、与える側も配慮のない救済では、「愛」を知ることはできないのだと思う。

そういう事から「愛」とは、よく分からないものだけれど、分からないながらでも他者を思いやろうとする気持ちに「愛」というものが宿っているのではないかと最近思うのです。

そして、その積み重ねがイエス・キリストの説かれた「愛」に繋がってゆくのではないかと思うのです。

しかし、こういった考えも正しくないのかもしれません。

主イエス・キリストはおっしゃいました。

マタイ伝24・4-5

「人に惑わされないように気をつけなさい。私を名乗る者が大勢あらわれて『私こそキリストだ』と、言って多くの人を惑わすでしょう。」

メリークリスマス。