最近、植草甚一さんに始まって、野口久光さん、双葉十三郎さん、飯島正さんの著作を読み直している。思えば、DVDもインターネットもなかった時代に、映画について書くことはとても大変な作業であり、誰もが映画評論家になれるわけではなかった。今のように、誰もがネットで映画について自由に語れる時代とは違い、彼らは特別な存在だったのだ。
もちろん、今となっては、彼らの仕事にも功罪相半ばするものがあるが、古典を読むような気分で接すれば、まだまだ学ぶことは多いし、その時代の映画に対する生の感覚を知ることもできる。
飯島正1902~96(94)、田中純一郎1902~89(87)、岩崎昶1903~81(78)、南部僑一郎1904~75(71)、南部圭之助1904~87(83)、津村秀夫1907~85(78)、植草甚一1908~79(71)、大黒東洋士1908~92(84)、野口久光1909~94(85)、淀川長治1909~98(89)、双葉十三郎1910~09(99)…。皆さん明治生まれで、ご長寿だった。
例えば、こんな本を作った時は、随分とお世話になったものだ。
主に70年代に、飯島正さんが新聞や岩波ホール向けに書いた監督に関する文章を一冊にまとめたもの。
登場するのは、アレクサンダー・コルダ、溝口健二、アルフレッド・ヒッチコック、伊丹万作、黒澤明、小津安二郎、木下惠介、フェデリコ・フェリーニ、ジュリアン・デュビビエ、五所平之助、小林正樹、カール・ドライヤー、ジャン・リュック・ゴダール、稲垣浩、内田吐夢、成瀬巳喜男、イングマール・ベルイマン、リュミエール兄弟、大島渚、ピーター・ブルック、ウィリアム・ワイラー、ジョルジュ・メリエス、ルネ・クレール、ジャン・コクトー、ヤンチョー・ミクローシュ、ルイス・ブニュエル、豊田四郎、ロベール・ブレッソン、ラノーディ・ラースロー、ジャン・ルノアール、ルキノ・ビスコンティ、アラン・レネ、フランソワ・トリュフォー、鈴木清順、衣笠貞之助。
またも大いに勉強になったが、あとがきに書かれたこんな一文に共感した。「~当時の意見が大切なので、いま考えることを書きたすのは嘘になる危険が多い。~現在それを書こうとしても、これ以上のものは書けない。やはり「当時」がなければ書けないのだ」
もちろん、自分は飯島さんのような大家ではないが、同じようなことは感じるので、過去に書いた稚拙な文章を、“その時の記録”としてここに載せたりしているのだ。
双葉十三郎さんの著書に続いて、1959(昭和34)年刊行の飯島正さんの『アメリカ映画監督研究』を読了。
1902(明治35)年生まれの飯島さんは、東大仏文科卒、早大教授という超インテリ。だから昔は少々敷居が高くて、読むのをためらっていたのだが、以前、映画黎明期について書く時に、その著作を参考にさせていただき、思ったよりも読みやすく、分かりやすかったので、驚いた覚えがある。
この本も、各者について論文のような細かい分析を施しながら、文章は具体的で分かりやすく、読みやすかった。
ラインアップは、エドウィン・S・ポーター、デビッド・ワーク(D・W)・グリフィス、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、キング・ビダー、ジョン・フォード、フランク・キャプラ、ウィリアム・ワイラー、オーソン・ウェルズ、ジョン・ヒューストン、エリア・カザン。
改めて、とても勉強になったし、今は伝説となった監督たちが、当時はどう評価されていたのかが分かって興味深いものがあった。それにしても、DVDやインターネットのない時代の人はすごい、といまさらながら思う。
ホラーアンソロジストとしても知られる筆者による連作短編ミステリー。
都内・茗荷谷近くの某所、元は名画座だった喫茶店に集うのは、珈琲と映画、そして謎を愛する常連たち。彼らが不可思議な事件の真相を、映画への深い造詣を基に、論理的に解き明かしていく。
登場する映画は、『狼男』(41)『フランケンシュタインと狼男』(43)『モダン・タイムス』(36)『サイコ』(60)『宇宙戦争』(53)「ウルトラQ」(66)『ノスフェラトゥ』(22)『恐怖の足跡』(62)『回転』(61)『ロッキー』(76)『あの胸にもういちど』(68)「新・座頭市」(76)『事件記者 時限爆弾』(60)『スペシャリスト』(94)『コンスタンティン』(05)。
映画もミステリーも好きな自分としては、続編が読んでみたいと思ったが、これは、相当な映画好きならともかく、そうではない者にとっては、いささか趣味性が強過ぎて敷居が高いと思われる。また、専門家と称される常連者たちを、<特別捜査官>さんだの、<婦人記者>さんだのと、いちいち<>付きの肩書きで呼び合うところも少々鼻についた。
映画が登場する短編ミステリーを集めたアンソロジー。
乱歩流映画の捉え方を記した随筆。「映画の恐怖」(江戸川乱歩)
乱歩名義で横溝が書いた一編。埋めた死体が映画に映る。「あ・てる・てえる・ふいるむ」(横溝正史)
筆者お得意の猟奇的で奇想天外なトリック。「首切り監督」(霞流一)
『カツベン!』にも通じる押川春浪と無声映画。「大喝采」(横田順彌)
もう一つの“映画『悪魔の手毬唄』”。「「悪魔の手毬唄」殺人事件」(小林久三)
『ふしぎな名画座』所収のしゃれた一編。「「ローマの休日」届」(赤川次郎)
『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』に掛けた。「りんごの聖戦」(山田正紀)
ムッソリーニとイタリア版忠臣蔵という冗談小説。「死都(ポンペイ)の怪人」(辰野九紫)
『王子と踊子』のマリリン・モンローとローレンス・オリビエ、そしてビビアン・リーが登場する。「ヴィヴィアン・リー失踪事件」(荻野アンナ)
映画鑑賞をアリバイに1。「完全不在証明(アリバイ)」(木々高太郎)
映画鑑賞をアリバイに2。「証言」(松本清張)
文豪による優れた怪奇映画譚。「人面疽」(谷崎潤一郎)
既読のものも数編あったが、新旧取り混ぜたなかなか興味深い短編集だった。続編を期待したい。
『今日のアメリカ映画』(双葉十三郎)
神保町の古本まつりで偶然見つけた1950(昭和25)年発行の『アメリカ映画』(名曲堂)で火がついた、双葉十三郎さんの映画本収集。1954(昭和29)年発行の『現代アメリカ映画作家論』(白水社)、1951(昭和26)年発行の『アメリカ映画史』(白水社)に続いて、1952(昭和27)年発行の『今日のアメリカ映画』(白水社)を入手し、ついにコンプリート。こういう本がすぐに手に入るのだから、ネットの力は大きい。
ほぼ70年前に書かれたこれらの本は、いまや映画について書かれた歴史書であり、当時の映画事情を知るには貴重な資料となる。久しぶりに知識欲に火がついて、昔の文字遣いと格闘しつつも、読み出したら止まらなくなる。
実は、双葉さんの『ぼくの採点表』全7巻は自分にとってはバイブルの一つであり、古い映画について書くときには度々参考にさせていただいているのだが、そこに新たな参考書が加わった。
『アメリカ映画』『現代アメリカ映画作家』に続いて、双葉十三郎さんの『アメリカ映画史』(1951(昭和26)年発行)を読了。
最初に読んだ『アメリカ映画』と重複する部分もあるが、「アメリカ映画の誕生」から「戦後の転換期」までの、時代背景、監督、スターなどについて、きちんと系統立てて記しているこの本は、他に類を見ない。妙な映画論をひけらかすどこかの大学の先生とはえらい違いだ。
先日読了した双葉十三郎さんの『アメリカ映画』が大変参考になったので、続けて、その続編とも呼ぶべき、1954(昭和29)年発行の『現代アメリカ映画作家論』を手に入れて読んでみた。ラインアップは、
【研究】
ウィリアム・ワイラー、ジョージ・スティーブンス、ジョン・フォード、アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマン、エリア・カザン、ジーン・ケリー、フランク・キャプラ、ヘンリー・コスタ―、ウィリアム・ディターレ、アンソニー・マン、チャールズ・チャップリン
ウィリアム・ワイラー、ジョージ・スティーブンス、ジョン・フォード、アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマン、エリア・カザン、ジーン・ケリー、フランク・キャプラ、ヘンリー・コスタ―、ウィリアム・ディターレ、アンソニー・マン、チャールズ・チャップリン
【素描】
セシル・B・デミル、ラオール・ウォルシュ、ヘンリー・キング、キング・ビダー、クラレンス・ブラウン、エドマンド・グールディング、ハワード・ホークス、ルイス・マイルストン、レオ・マッケリー、ウィリアム・A・ウェルマン、ジョージ・キューカー、マービン・ルロイ、ヘンリー・ハザウェイ、マイケル・カーティス、ロバート・シオドマク、ジョセフ・L・マンキーウィッツ、ビンセント・ミネリ、チャールズ・ウォルターズ
セシル・B・デミル、ラオール・ウォルシュ、ヘンリー・キング、キング・ビダー、クラレンス・ブラウン、エドマンド・グールディング、ハワード・ホークス、ルイス・マイルストン、レオ・マッケリー、ウィリアム・A・ウェルマン、ジョージ・キューカー、マービン・ルロイ、ヘンリー・ハザウェイ、マイケル・カーティス、ロバート・シオドマク、ジョセフ・L・マンキーウィッツ、ビンセント・ミネリ、チャールズ・ウォルターズ
双葉さんは、結構好みがはっきりしていて、カザンはボロクソ、ホークスについても「ぶった切るような接続を得意としているので流れが良くない」と書いている。その時代の証言としてはとても興味深く読んだが、映画の出来や監督の評価は時代によって変化するものだと改めて知らされた。
先日『絶海の嵐』(42)のパンフレットを入手した際、この本のことを思い出したので再読してみた。
ゲイル・ラッセルに捧げられた本書(85)は、『ぼくのアメリカンムービー』(80)から、ジョン・ウェインに関する部分だけを抽出し、加筆訂正したもの。『絶海の嵐』と『怒涛の果て』(48)のイメージを中心に、ジョン・ウェインとアメリカ映画について語り尽くしている。
2007年に『MOVIE』という雑誌で 生誕100年のジョン・ウェインを特集する際に、本書を基に大林監督にインタビューをすることを思いついた。当日、2時間にも及んだインタビューは、本書の抜粋とその後の取材について語ったもので、淀川長治先生同様、頭の中で自分なりのストーリーが出来上がっている監督のほぼ一人語りとなった。もちろん「それは監督の妄想なのでは?」と思うところもあったが、あまりの話の面白さについ引き込まれ、監督の語り部としての才能に唸らされた覚えがある。
今から思えば、ウェインが最後の病床で『怒涛の果て』を繰り返し見ていたことも明かされたこのインタビューは、2冊の本を踏まえた完結編になったのでないかと自負している。