TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

自然エネルギーで注目すべき四国の会社

2012-12-25 08:05:00 | 工学
スカイ電子。http://www.sky-denshi.co.jp/  微風や水流の弱いところでも発電できるモーター。制御系も開発。高知県四万十市。
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やる気がないならやめちまえ!

2012-12-19 23:49:00 | 幻論
 日本共産党は四六時中突っ込まざるを得ないネタを提供してくれる。今回、ネットに出た選挙総括もそうであった。そこで、以下のメールを出した。



愛媛県の有権者です。

共産党の比例区の選挙結果についてですが、2009年の得票数は4,943,886、得票率は7.0%、
それに対して今回の得票数は3,689,159、得票率は6.1%と、得票数も得票率も落ち込みました。
それを残念に思っていたのですが、貴党の総括を読み、大いに疑問を持ちました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-18/2012121801_01_0.html

まず、「2010年参院選比例票の356万票(6・10%)」についてですが、どうして、前回の衆院選と
比較しないのでしょう。中学校では、衆院と参院は別のものであると習いました。性質の異なるもの同士を
比較するのは、科学的ではないと思います。

次に、「小選挙区での「全区立候補」に挑戦し、選挙区選挙で470万票(7・89%)を獲得した」のは
いいとしても、小生の住む愛媛では得票率が軒並み3%前後にとどまりました。20世紀の終わり頃には
800万票くらい獲得していたと記憶します。その時代に確かにあった、共産党への期待が、どうして
しぼむことになったのか、総括されているのでしょうか。

次に、一〇〇〇万対話の総括は、いずれなされるのでしょうか。



それに対する返事がやってきた。読んで、脱力。まあ、テンプレだ。


 メールありがとうございました。
 「総選挙の結果について」の常任幹部会声明を紹介します。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-18/2012121801_01_0.html
 声明で述べている通り、みなさんのご意見に耳を傾け、自己検討をおこない、今後のたたかいに生かしてまいります。
 ご支持いただいた有権者のみなさん、ご奮闘いただいた支持者、後援会員、党員のみなさんに、心よりお礼申し上げます。日本共産党に託していただいた願いを受けとめ、全力をつくす決意です。



 小生の記憶が正しければ、日本共産党は選挙前に「一千万人対話」とか言っていた気がする。対話とは、個人と個人の間でなされるものであり、すなわち、「個」の間の、「一つ一つ」のものである。これの積み重ねが一千万になるはずであり、一つ一つに魂がこもっていなければ、人を引き付け、動かすことはできない。全国政治新聞を作ったレーニンの意図は、そこにこそあるのだ。(cf.『何をなすべきか』)

 然るに、このメールによる「返事」。対話とまではいかなくても、質問に対してマトモに応えていない「返事」。こんな党が「対話」などと言っても、対話が成り立つのだろうか?と不審に思うのが当たり前というもの。

 ますます、日本共産党の質が低下し、数しか見ない官僚主義に侵されて行っていると思う。
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86000km

2012-12-18 22:36:00 | クルマ
22:36、フィッタに行く途中、フィッタ手前の橋を渡り切ったところで。
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読書メモ:『大川周明 アジア独立の夢』

2012-12-15 17:38:00 | 読書
 『大川周明 アジア独立の夢』(玉居子精宏著、平凡社新書=651)

 岡倉天心の精神を引き継ぐ、アジア主義の大物である大川周明が設立した「東亜経済調査局付属研究所(大川塾)」の塾生たちの物語。アジア主義というと、左翼的には日本の帝国主義的侵略のイデオロギーと捉えられているが、頭山満の玄洋社もそうだが、そう決めつけられるほど単純なものではない。

 どちらも、支那、朝鮮をはじめとする国々(地域)と日本は水平的であるという思いを持っている。大川の場合、日本人はアジアの人々に対して「正直と親切」で接し、現地と同化せよと塾生たちに教えた。だが、どちらの場合も「地獄への道は善意で敷き詰められ」ていた。彼らの赤誠は、軍事侵略の道具に転化された。本書はその道筋も示す。以下、興味のあるところの列挙。
「はじめに」から。
・著者はベトナムにいて戦争で何があったかを知ろうとして色々調査していた。各地の独立運動にかかわった当時の若者の生の声を聞こうとしていたが、その過程で著者は大川塾を知った。
・大川塾の開設は一九三八年、陸軍中野学校と同じ。軍隊に取られる前に活動できるように、修学期間は二年。旧制中学・商学の四年修了が受験資格。
・語学は二つ。英語、フランス語、トルコ語、ペルシャ語などから選ぶ。アラブを含めたアジア全域に派遣することを想定。タイ、ベトナム、ビルマ、シンガメ[ル、インドネシア、スリランカなどに派遣。
・軍隊の侵略的野心に嫌悪感を示すものが多かった。

 第一章は「南進日本の「眼・耳・手足」となれ」と題して。
・学費は無料、小遣いは十分にある、指定された公的機関や企業で一〇年働けば一万円(今のお金で二〇〇〇万円ほど)。
・海外派遣は当時の若者に魅力的だった。
・大川の中の教育者的素質がもっとものびのびと発揮された場所(BY 橋川文三)
・大川は南満鉄の東亜経済調査局課長の頃にイギリスの植民地支配を知り、アジア主義者に。
・大川は「学者であるには血が熱すぎ、志士であるには学がありすぎた」
・五・一五で逮捕されるまで、大川は国体改造運動に注力し、日本精神の涵養と流布に努める。
・五・一五に関連した投獄の後、即座に大川塾を構想、実行。
・広田弘毅内閣の国策は南進であり、それに沿ったと言えるが、先にも書いたが正直と親切、現地人になり切ることが求められた。

 訓練目的は将来南方方面に住み付いて独立の商業を営む優秀な少壮商人を養成するに在る。(中略)しっかり日本精神を体得していて東亜興隆の意義も解し、国際事情に通じていてしかも商人としては勤勉誠実で土地の住民から十分の信頼を博するに足るだけの人物を作ろうというのだ。

(p29)

・出資は、満鉄、外務省、陸軍。関与の程度は外務省が一番か。
・入学試験は性格や機転を問うもので、これは中野学校と似たものだった。
・「東京へ行くだけで水盃を交わすような時代」だった。
・開所式は一九三八年五月一五日、挨拶に陸軍の岩畔豪雄中佐、白鳥敏夫ら。
・一年目は寮(阿佐ヶ谷駅付近)と教室(新橋駅付近の内幸町)は別で、電車で移動。
・初代寮長は山岸宏・元海軍中尉――激しい性格――、副寮長は菅勤・元陸軍士官候補生――温厚の士――、いずれも五・一五事件参加者。
・二期目の入所から、省線目黒駅に近い品川区上大崎に学舎兼寮舎が完成。木造で表はモルタル、二階建て。遠くに富士山が。土地は藤山愛一郎から購入。
・一期生、二期生が揃って合計四〇人。英語排除の時代に英語重視。言語は植民地宗主国と植民地の組み合わせ。(英語とペルシャ語など)
・起床は五時半、朝食後「建国体操」(『ノルウェイの森』に出てきた体操?)、授業は九時から一五時前まで、体操、入浴、神前拝礼などの後、一七時半から夕食、散歩、自習、二二時に消灯。
・勉強は厳しく、二三時まで自習する者もいた。
・大川は「自分のできるだけのことをやり、自分を磨くように」訓話する。列強によるアジア侵略史を語り、アジア主義を語る。すべては「正直と親切」、それを身に着けて「日本人とはかくの如きもの」を体現すべく海外に行くように教える。
・寮生作詞、宮内省雅楽部職員の中島菊治が作曲した寮歌が出来る。
・子供がいなかった大川は夜中に乗用車で乗り付け、学生の寝顔を見て嬉しそうに納得されて自宅に帰って行った。自宅でラース・ボースから学んだカレーを学生に振る舞ったこともあったらしい。
・インド独立活動家のA.M.サハイ、松岡洋祐、徳川義親なども講演。決別前の東条英機も。
・甘粕正彦を満州に導いたのは大川らしい。
・魁!男塾のような話も。ルール無用の「爆弾ラグビー」。頭突きも蹴りもOK。防具なしの木刀でのチャンバラ=斬撃。夜中に非常招集、その時『日本精神研究』という本を持ってくるルールだが、間違えると遠くまでランニング。多摩丘陵まで、ということもあったらしい。
・電気の消し忘れで水垢離。後ろで待っている人に水しぶきがかかり、非常に冷たかったらしい。
・ほかに合気道、相撲、礼法(小笠原流の一派)も。いずれも一流の稽古。
・政治はご法度だったらしいが、東条英機と決別したためか、「馬鹿野郎猫も杓子も新体制」などという句が寮誌「瑞光」に残っている。
・大川の考えや見通しは残っているようだ。日米開戦の回避、日中和平などの工作。
・第一期生は一九四〇年四月二六日に卒業。各弟子の性格に合わせて直接揮氈Bしばらくして外地へ派遣。学歴欄には「日本経済専門学校卒」と記す。雇用者は外務省であり、旅券は「公用」。
・家庭から外地に送る手紙も一旦大川塾預かり。スパイ容疑で捕まっても「祖国のために働くのは当然」として黙秘貫徹。イギリス人も感心。
・当初は在外公館関係者から指示が出たが、陸軍が南方に来ると外務省もこれに応じ、大川塾卒業生は軍に協力させられることになる。(後に見るように、塾生は矛盾に悩むようになる。「命令のままに動く」ことを大川から命じられていたとはいえ、それは「親切と正直」とぶつかることになろう。)

 第二章は「マレー作戦の裏側で」と題して。
・国策会社である昭和通商に派遣された山本哲朗は一九四二年二月にシンガメ[ルに派遣。シンガメ[ルが陥落した頃。昭和通商は軍政部の代わり? 一方、タングステン確保を担っていたようだ。
・華僑とも協力し、地元との関係は良好。それもあり、山下将軍はマレーの虎となった。
・一方、一九四一年四月ごろ、タイのシンゴラに領事館が。勝野敏夫が開設。シンゴラ湾に釣りに出ては、水深把握をしていた。その下働きに大川塾生を使う。
・タイに日本人が増えていったのはそういう時期。タイ人は日本への不信感を強めた。日本人も横暴になっていたようだ。
・一期生の岩崎陽二はタイ語習得中、シンゴラ領事館行きを命じられる。身分はアルバイトとして。
・次に伊藤啓介もシンゴラへ。軍からも二人、身分を隠して派遣される。そして大川の盟友、松下光廣が経営する大南公司の支店に軍の情報網が張られた。次いで中野学校出身者も素性を隠して入る。
・一期生の逆瀬川澄夫はバンコクでタイ語日刊紙「カオパープ」新聞の編集部に勤務し、親日的な雰囲気づくり。そんな彼は軍部から呼び出され、土木技師を装った上陸地点の視察に狩り出される――「マタドール計画」のため――。
・次いでプラチュアップキリカンに行くよう命じられるが、外国人が行くのは不審なので、神経衰弱を装って行く。近所の観光地ホアヒンに一旦滞在し、そこは「騒がしい」として目的地に行くという念の入れよう。で、海岸で釣り糸を垂れて地形や水深チェック。
・その地に一九四一年一二月八日、日本の第五師団の一部が殺到、戦闘に。日本とタイの攻守同盟が成立して戦場に通達されるまでの二日間、戦闘状態に。
・二期生・倉橋正夫と池田肇は一九四一年の一二月にシンゴラ行きを命じられ、べらぼうに重いトランク三つを携帯するように命じられる。南方総軍からの無線電信機(と機関銃と手榴弾)であった。上陸部隊誘導のためらしい。疑われないために「軽々と持て」と。
・攻守同盟を結んでいないとき、タイのラジオは「どの国の軍隊でも最初にタイを侵した国の軍隊がタイの敵である」と繰り返していた。
・「機密書類は焼け」・・・後の歴史問題で、日本の主張が世界に認められなくなる原因をここでも(苦笑)。
・タイに開戦日がもたらされた頃、逆瀬川らは軍属に。ブンタウに到着した逆瀬川は無数の輸送船、護衛艦艇などであった。山下将軍の第二十五軍はイギリスに気づかれないように来ていたのだ。
・日本は七日夜にピブン首相相手に進駐交渉をするはずが、近衛師団の将兵がタイ外務省の人間をスパイ容疑で逮捕したことに怒ってピブン首相は雲隠れ。このままでは宣戦布告なしで八日の戦争に突入することになる。これは国際法違反であり、天皇の気にするところであった。「故なく第三国の中立を侵害することは、正義に反する行為である。自分はこのような計画を認めることはできない」(p103)
・この日、バンコクの大使館情報局長・岩田冷鉄発案で、各国の報道関係者を集めたすき焼きパーティーがあったらしい。情報遮断のため?
・大川塾生はその席で開戦および、邦人保護を命じられる。この日、在留邦人相手の映画会が開かれていて、そのまま商船見学という名目で大阪商船の「がんぢす丸」に収容。
・八日の午前六時二〇分、プラチュアップキリカンに日本軍上陸、タイ警察軍が応戦。一日戦闘が続き、翌朝に「タイと日本は同盟を結んだ!」と、タイの兵舎から声が上がる。八日午前九時頃、ピブン首相がバンコクに到着、八日には攻守同盟が成立、午後二時に下達。先頭で通信線が切断されていて、プラチュアップキリカンには連絡が遅れていた。約三〇時間の戦闘で日本側だけでも八六人が亡くなった。
・逆瀬川は「通訳だ!」と叫び、相手側の土地の建設会社の社長という使節役と共に行動し、停戦に奔走。
・逆瀬川は停戦の現場でタイ警察少尉と遭遇、実は彼は海釣りの時の船頭。タイもチェックしていた。
・マレー作戦は成功、パーシバル中将は降伏――東京裁判で復讐する――、チャーチルは「イギリスの歴史における最大の不幸、最大の降伏」と呻く。
・一方、ナコンシータマラートでは大南公司、昭和通商の社員六名がスパイと疑われてタイ警察に殺されている。大川塾生の犠牲はなかったが、かなり緊張した状況での任務であったことが分かる。

 第三章は「ビルマ独立への共闘とその限界」と題して。
・二期生・小林隆は開戦後にビルマ独立義勇軍(BIA)に参加。
・BIAの前身は、謀略組織「南機関」。大本営直属の組織だった。
・ヤクザ者とあだ名された参謀本部付の鈴木敬司大佐は援蒋ルートの一つであるビルマルート遮断について研究するように命じられ、その後強引にビルマ工作に走り、南機関が発足。というわけで、対中戦争の一環として発足。ビルマ独立は本気ではなかった。
・資金は塩水港製糖社長・岡田幸三郎――遠藤周作の妻・順子の父――。
・鈴木はまず、独立運動の組織であるタキン(主人)党に近づく。仲介したのは日本山妙法寺の僧侶、永井行慈上人。彼は後に光機関に協力するなど、アジア主義に共鳴していた。
・当時、ナチスドイツ相手にイギリスは敗走しており、ビルマでは独立の機運が高まっていた。
・一九四一年二月に南機関は設立され、四月に海南島の三亜でタキン党と接触。軍事訓練施設を作る。
・南機関には一期生・江里繁と大屋敷久男が入る。なんと、無給。南機関がモールメンに達したら任務解除との約束。
・江里の上司、野田大尉は南京一〇〇人斬りの下手人で、戦後中国で死刑。
・一一月二八日、約二〇〇名のビルマ人志願兵と共に「腕の血をすすって」独立のための忠誠を誓う宣誓式。BIAの旗は王朝であったコンバウン朝の国旗にちなんだ。
・三一日には結成式。鈴木大佐は「ボ・モージョ(雷将軍)」と名付けられる。
・アウンサン・父も参加。タイのバンコクには亡命ビルマ人が五〇〇〇人いて、募兵すると多数応募。
・BIAは複数の部隊が編制できるほどだったが、どれも日本軍主力と同じルート、というのに意図が分かる(笑)。
・だが、参加したビルマ人には情熱がたぎっていた。
・タイには田舎の村にも学校があり、国旗がある。だが、ビルマにはそれがない。植民地であるとは、そういうことだった。
・情報収集しながら進軍し、その先で募兵すると応募がある。貧弱な装備ながら意気は盛んで、陸続とした決起があった。ラングーンに入った部隊において、バンコク出発時に二〇〇人だった兵士の数は、五〇〇〇人ほどに膨れ上がる。ラングーン入りしたBIAと日本軍は熱狂的に歓迎された。
・水上支隊がモールメンに到着したらビルマ独立の約束だったが、それは達成されなかった。すると、鈴木は「独立とは与えられるものではない、自ら勝ちとるものだ」と言った。これではビルマ側に対日不信が募る。後にアウンサンは対日蜂起を行なう。
・水上支隊の江里は、ピアャ唐ナ警官と戦闘中に戦死。後方かく乱作戦における出来事だった。BIAではその後八人の日本人が戦病死。
・日本軍はビルマの独立を認めなかった。鈴木はなぜ独立させないのか、と、第一五軍司令部の那須義雄大佐軍政部長に食ってかかる。那須は時期尚早と取り合わなかった。鈴木のパトスはビルマ寄りになっていた。鬼より浮「南機関と軍政にずれが生じた。
・その鈴木も、ビルマ側からの突き上げに刺々しく応じる。「もし君たち(アウンサンら)が自主的に独立に邁進するために日本軍と衝突は避けられないと考えるなら、この刀で俺を斬ってから独立したらどうだ」。アウンサンは親しみのある鈴木に「鈴木がいるうちは反乱しない」と約束した。
・大川塾生もビルマが独立しないことにいら立つ。それをぶつけられた鈴木は軍刀を抜いて怒る。彼らはやがてラングーンを離れる。
・軍政部の特務機関はBIAを恐れるようになり、BIAと結びつきの深い南機関を解体、ついでBIAを解体する。同時に、ビルマ自治政府の初代首相であるバーモウを委員長とするビルマ独立委員会を立ち上げる。彼はタキン党とも連携していた。
・植民地ビルマでは学生運動がそのまま独立運動につながっていた。タイからやってきた二期生・友田光男はBIA参加者で学生運動の要人でもあるウバジャンと接触し、青年運動を起こすことを持ちかける。そうして「東亜青年聯盟(ビルマ)」を設立する。()内はアジア主義の思いから。これにも軍政は警戒してちょっかいを出したようだ。だが、友田は「(金は受け取るが)指導を受けるつもりはない」と。
・一九四三年には青年聯盟は二〇〇支部、約二万人の会員を擁するようになる。資金は昭和通商やバーモウから。
・軍政は、青年聯盟を支配できず、昭和通商の社員を国外追放。
・南方軍はバーモウ暗殺計画を企て、友田に話を持ちかける。バーモウはビルマ人からは日本の傀儡とみなされていて、軍政から見ても利用価値がなかったのか? なお、暗殺は失敗。
・友田は暗殺に係わったとして監禁三年の刑が科されるが、立派な態度により軽い刑となる。
・ビルマは一九四五年三月二七日、アウンサンの指揮により、抗日蜂起を決行し、鈴木の言った通り独立を「自ら勝ち取」ったのであった。


 独立と戦争、そして軍政の間で大川塾生は師の考え通り「命令のままに」動き、復興アジアの理想の遠いことを知ったのだった。

(p166)

 いや、逸脱していたところが多いと思う。でも、それでいいと思う。

 第四章は「ベトナム・カンボジアの志士と密かに交わる」と題して。
・日本軍はベトナムの反仏闘争を利用しようとした。復国同盟軍が蜂起し、第五師団が南寧から陸路仏印に入るという算段であった。だが、「日仏印共同防衛協定」が結ばれた瞬間、復軍同盟軍は見捨てられた。日本軍は難なく進駐したのである。
・軍に加わっていた一期生・西川捨三郎は中国との国境の町ドンダン、ランソンに向かう。上海に向かう第五師団の移送支援であった。復軍同盟軍幹部らがフランスの弾圧を逃れるために助けを求めたが、見捨てざるを得なかったようだ。
・南部仏印進駐は米英を刺激し、アメリカが石油の対日禁輸措置に踏み切る理由となった。西川は海南島からこの進駐先(サイゴン?)に向かった。そこには石川達三もいた。
・サイゴンの情景。「森の都。夜になると着飾ったフランスの女の人たちが散歩に出て、コンチネンタルホテルにあるカフェに行くんです」
・だが、マジェスティック・ホテルでは長勇大佐が浴衣姿で義太夫を。
・山根機関時代の西川は北部仏印のカオバンに出張。錫の山が狙い。
・二期生・加藤健四郎は「ベトナム独立のために働いて日本に帰るつもり」はなく赴任。彼は大南公司に勤務。そして、日本人のいないところとしてバッタンバンへ。そこには独立運動関係者のベトナム人がいて、彼を通じソン・ゴク・タンという反仏民族主義者と出会う。

(さて、ここでメモの方針変更。基本的に単語や短い文章の羅列にする)
ツーラン出張所開設、枢軸国劣勢で植民地政府は日本への協力に冷淡に、ゴ・ディン・ジェムはフランスに睨まれる、清廉な人柄、東京裁判で植民地の秘密警察が戦犯追及=復讐、松井岩根がフランスからの独立をアジしたり、活動家の亡命を支援したり、そしてフランスに睨まれたり、ってか、「戦犯」は結構そういうことをしている、だけど大本営は冷淡、でも特殊工作部隊である「安隊(やすたい)」が出来る。そこには西川捨三郎はじめ五名の大川塾生。坊主頭で軍人とばれると怒られる。バオダイ皇帝を立てて独立をさせるためにカオダイ教に接触、彼らの協力で皇帝を発見。日本軍が植民地軍を圧唐オ、ユエの街には独立を叫ぶ群衆が。ただしそれは日本軍の「軍事行動の副産物」(by 小松清)。ついでラオス、カンボジアが独立、仏印は解体。ただし、独立の英雄であるフィン・トゥク・カンは「血を流さないで、本当の独立はできない」と二期生・加藤に言った。ベトナム戦争を予言したのだろうか。バオダイ皇帝で越南帝国は独立も、クォン・デ待望論があり、ゴ・ディン・ジェムは協力せず。フランスと妥協した皇帝だからだ。そんな頃(一九四五年七月二五日)、解放されたフランスからド・ゴール派の将校ら三人が。仏印奪還するという話(妄想)。その後、日本は負け、多くの日本人が脱出。が、サイゴンにはベトミンの進軍歌が流れ、金星紅旗が振られていた。歴史は後戻りしない。一方、フランス人はリンチされる。脱出は「全員甲板や船首に立ちつくして」。松下光廣は約四〇〇〇万円から無一文に。二期生・加藤健四郎はベトミンに捕えられるが、旧知の人が中にいて解放される。イギリス軍は大南公司を特務機関と見、社員を戦犯容疑者と考えた。だが、ここは真っ当な商売をしており、戦後再びベトナムで事業を展開した。また、大川塾生はひたむきに現地の生活に融け込もうとしていた。日本軍でベトミンに参加した人も少なくない。反仏闘争を継続したのだ。陸軍中野学校卒、ベトナム初の士官学校創設者。彼らは現在のベトナムで顕彰されている。一方、右派独立運動に加わった大川塾生らは歴史に埋もれている。


 第五章は「遠いインドをともに目指す」と題して。
 戦後の大南公司は「内外産業」と名乗り、築地の一角に。そこは何と、田中清玄の会社、三幸建設の一角。一九四一年九月、参謀本部第八課の藤原岩市少佐らはバンコクに潜入、インド人の独立運動家と接触を図る。南方作戦のための工作。インド独立連盟(IIL)の幹部、プリタムシンと接触、F機関を設立。これは後に岩畔豪雄大佐が機関長となった岩畔機関、ひいては光機関となり、インパール作戦に参加。一期生・伊藤啓介はF機関に加入。任務はインド国民軍工(INA)作。イギリス植民地軍から投降したモハンシン大尉をオルグ。日本軍は進撃し、捕虜が膨大に。マレーの町、タイピンでINAが発足。シンガメ[ルでは五万人のインド人将兵の前で日本がインド独立を支援する演説を藤原少佐が行い、熱狂。これを見て大本営は一九四二年三月二八日、山王ホテルでインド独立活動家を集めて会議。IILが認められ、その傘下にINAが入る。五月一五日のバンコク大会にはラース・ボースも参加、チャンドラ・ボースの電報も。ガンジーとは一線を画する。とはいえ、大本営はビルマの独立が先、という戦略だったので、インド人の熱気に呼応はしていない。ペナン島で岩畔機関が工作員養成所を作り、インド人に諜報、謀略などの教育を施す。こういうことを「インド人への甘やかし」として東条英機は怒る。それを受け、岩畔はバンコクからシンガメ[ルへ。さらに南方軍はINAをビルマ防衛のためビルマに移そうとする。INAは怒り、日本と関係悪化。モハンシン司令官少将はラース・ボースの権限で罷免、そしてチャンドラ・ボースがやってくる。東条さえも感心させる人物。岩畔機関はその頃(一九四三年五月)、光機関に。「光は東方より」というインドの伝説に由来。七月にチャンドラ・ボースはシンガメ[ルに。枢軸国の敗北を予見していたチャンドラ・ボースはソ連とも手を組むと断言。「イギリスをインドから駆逐するためならわれわれは悪魔とでも手を握る」。一期生伊藤が帰国し、大川に会うと、大川は「君、日本がインドに手をつけるにはまだ早いよ」と告げる。一九四四年、インパール作戦にINAも参加。辻政信大佐の「敵中に糧を求めよ」の愚策。その前にアキャブで陽動作戦。光機関には五期生も参加。諜報作戦を担う者は「民族独立」を語り、従軍記者には共産党のアジトのようだった、と。工作隊は相手に投降工作をする。「支配者のために戦うな」。敵前50mで呼びかけ、撃ち殺された者も。山岳民族への懐柔工作も。コヒマ攻略した日本軍だが、英印軍は空からの支援を行い、陣地を守る。結局、日本軍は撤退し、インパール作戦は中止。一九四五年四月にはラングーンからも撤退、INAも日本軍が攻守同盟を結ぶタイに逃れようとする。撤退の途中、シッタン河付近で五期生・永井は機銃綜ヒで亡くなる。そして敗戦に向かう。「参謀だとか偉い人たちは飛行機で逃げちゃった。(中略)光機関にあった自転車で出たんですよ」チューブのないタイヤのボロボロだったらしい。二期生・小林隆は敗戦について「当然」と思った。イギリス軍に捕らえられた塾生らは光機関について尋問を受ける。大川塾は秘匿、師匠を守るために。だが相手もかなり知っているようであった。次の二期生・山本哲朗の反駁が面白い。


(大川先生は)鉄砲の撃ち方も教えてくれませんでした。その代わり、あなたがたがインド征服でした悪いことを全部教えてくれましたよ。

(p255)

 毅然とした態度にイギリス側も感心、一期生・岩崎陽二は取調官に「君の若いのに驚いたが、地位の低いのにもあきれた、日本が負けるはずだ」と言われる。

 終章は「歴史の一部となって」と題して。
 大川周明の終の棲家は神奈川県愛甲郡相川町中津。そこから東京裁判に出席していたらしい。大川塾は五月二四~二五日の大空襲で焼けるが、自宅は何とか無事。寮生が延焼を食い止めた。終戦で大川塾は解散、大川は卒業生の実家に慰労金一五〇〇円を送る。大川の「乱心」は、大川としては茶番としての東京裁判への茶化しであった。なお、大川は梅毒で脳疾患を有していた。そんな大川を卒業生たちは見舞う。松沢病院の病室には岡倉天心の肖像画。そして大川塾の卒業生は大川邸に集まり、連合軍対策を協議。外地で捕らえられた塾生はイギリス軍による虐待があった。リンチとか栄養失調の体で腕立て、出来ないと棒で殴る、とか。刑死者の「天皇陛下万歳」は千切れるような叫び声・・。それを聞き、塾生は成仏を祈る。名前を間違えられえ収監された者もいる。シンゴラ事件の下手人は戦死していたのに、イギリスは生き残っていたものに責任をなすりつけようとしていた。戦後、塾生は就職に苦労した、、が、当時はねえ。彼らが大川を交えて一同に会したのは、一九五三年。「南方会」名づけたのは大川。「われわれが南方を考えるにしても、まず第一に真個の日本人になることを努めねばならない」。大川は弟子たちの手紙に丁寧な返事を書き送る。「諸君と私は同志です」。だが、弟子たちの思いは複雑だった。「(大川は偉大な導師だったが)、恨むべきは、その手足になるべき”師団長”を欠いていたことだ」「(アジア諸国の独立について)その国の人がしたことです。その流れのなかに大川塾があったということでしょう」。軍にはもっと厳しい「東亜の解放というのは、スローガンではあっても、軍の本当のインテンションではなかったと思います」。その上で、ともすれば左翼論壇で忘れられがちな指摘を師匠のために忘れない。「大東亜共栄圏の思想ですよね。これは日本が頂点に立つというこおとではないんです。(中略)日本が盟主? それは間違いですよ」。友人として、正直と親切を尽くすのだ。その眼からは、軍の横暴は許しがたいことであっただろう。最後に、二期生・小林隆による大川への弔辞の末節を。日本国のアメリカへの米搗きバッタぶりや、日本人による中韓を含むアジアへの蔑視がひどくなる現状を見て、大川は何を思う?


 ……かくて星霜十年を経て、再び西南一道、アジアの地に、東はインドシナ半島から西はアラビアの砂漠に至る間、先生門下の子等が各地に点々孤立しつつも、その遺業を伸べんものと、弛まぬ努力を続け、漸くにして新しい根を現地に張らんとする事実こそ、今先生の霊前に我等が唯一至上の供養とするものであります。
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なぜ、二段階革命論を信用しないのか?

2012-12-12 08:17:00 | 幻論
 ある方から、日本共産党が「資本主義の枠内」で努力するのは当然、という、小生も「それは当然」と思う指摘があった。そして、日本共産党はそこに留まらないのでは、という、それも綱領を読めば「そうだよね」としか言いようのない指摘でもあった。

 で。日本共産党の綱領は、日本の民主主義革命を遂行した後に、社会主義革命を目指すという二段階革命論であることは、左翼ウォッチャーの常識であろう。だが、小生に言わせれば、そこにこそ共産党が革命に踏み込めない罠があるのだ。

 まずは、一つの参照として、小生の数日前のツイッターを貼る。

はっきり書こう。ウヨサヨ関係なく、自由のケツ持ちをする国家は、「社会主義」なしには存立不可能なのだ。ビスマルク=ラッサール型(国家社会主義)であろうと、マルクス型(自由な人間の・・・)であろうと。


 一九世紀以降の資本主義は延命のために、様々な政策を通じて、社会主義的政策を取り入れて来た。特に、高度経済成長の一つの要因となった、戦争国家=福祉国家を維持するためにはそうするしかなかった。だが、それも行き詰まりを見せて、新自由主義が生まれた。


新自由主義は「自由」を名目に、その「社会主義」を破壊するイデオロギーであり、近代国家における自由の存立を破壊する鬼っ子なのだ。だから、こんなのに乗る保守派は、保守派でもないし、ましてや右翼ではない。


 すなわち、資本主義は二十一世紀におけるさらなる延命のために、要素としての社会主義をかなぐり捨て、民衆のモナド化を推し進め、国家を自分たちにとっては一部無力化している。

 そしてこれらの過程は、古くはサッチャー、レーガン、そして近年の日本では小泉によって進められた。そしてそれは、民主主義による選択の下に推し進められた。

 「資本主義の枠内」による改良を言っても、それは「反動的」になるであろう。なぜならば、それは資本の運動によりこれ以上は不可能とされたモノへの回帰を意味するからだ。新自由主義は、かつての階級闘争の産物とも言える資本主義における社会的要素を、主意的というよりは、法則的に破壊したのだ、資本主義の延命のために。貨幣を貨幣足らしめるものは国家の暴力(あるいは、貨幣は国家暴力の象徴)である。そこが、財政規律の破綻などにより心もとなくなった。

 さて。小生は社会主義を国家による(自由のための)「ケツ持ち」と表現した。その機能は、現在の資本の論理によって、新自由主義という法則によって、破壊されているのを見ている。それは、民主主義によって信認を与えられて行われているのだ。

 それに対抗するに「資本主義の枠内」という、資本の延命の論理をかざすことによって可能なのであろうか? 勿論、古くから言われるように「革命のために改良闘争」をするのは当然のことだ。その意味では、地道に活動されている多くの共産党員に支持と称賛を与えるのにやぶさかではない。だが、現段階において「資本主義の枠内」ということを掲げていて――それが最小限綱領であるにせよ――展望が開けるのか、大変疑問なのである。

 というのは、小生の考えでは、社会主義はゆるがせにできない近代国家の要素であり、それを排除するイデオロギーに対峙し、復権させるには「今まであった資本主義」の枠を(意識だけでも)超えることでしかなしえないと考えるからだ。それはヨリ一層の社会主義的要素を国家はおろか、全世界が飲むことでしか成し遂げられないであろう。その場合、せめて標語として掲げるべきは「世界社会主義革命」であるべきではないだろうか?

 国家を前提とし、資本主義の枠内を前提とした運動は、自滅に至るであろう。国家・国境を超えた繋がり、フローが――それは政党ではなくNPO,NGOが――現れてきて、フランスなどではATTACという、資本主義を乗り越えようと意識する運動が表れている。さて、日本共産党はどうする? 今のままでは、現在において現象として現れているように、衰滅するだろう。

(おまけ。小生の社会主義像、共産主義像が、世間の方々と、特に左翼の方々とかなりズレているのは、例の仕事を知っている人にはわかっていただけると思うが、今回は、世間の社会主義像と小生の社会主義像が混同されている文章となってしまった。すいません。)

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