TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『近鉄魂とはなんだったのか?』

2020-03-18 20:46:00 | ノンジャンル
『近鉄魂とはなんだったのか? ――最後の選手会長・礒部公一と探る』(元永知宏著、集英社)


 歴史には数多くの球団が登場し、消えていった。ただ、近鉄ほど強烈なチームカラーを出したチームも珍しいのではないか。テレビ朝日はあの10.19以降だったと思うが、応援団が相手チームの「マウンド集合」の時に発する「いてまえ」コールを使って、「いてまえ打線」と形容したと記憶する。磯部公一は近鉄魂を「いてまえ」とこの本で表現した。

 「いてもうたれ」というどぎつい河内弁。でもこれ以上に近鉄を表現する言葉はない。小生が野球を見始めたのは1972、3年で、近所に近鉄ファンの人がいた関係で近鉄ファンになった。まだ「B」の字だけの帽子だったと思う。そして1974年に西本幸雄さんが監督となり、近鉄の歴史は始まった。それ以前にも良い選手はいるにはいたと聞いている(児玉内野手など)が、基本鈴木投手のワンマンチームだったらしい。西本監督の見立ては違っていたようだが。ということは、小生は物心ついた頃から「近鉄正史」をファンとしてしばらく見ていたことになる。1987年からは故あってホークスに惹き付けられたのだが。

 この本にも書かれているが、西本監督は鉄拳も辞さない指導で阪急を強くしたように、近鉄を強くした。徹底的に鍛え上げた。というのは、西本監督には強い信念があったからだ。その一つが以下の言葉である。

 「プロ野球選手の寿命は短いんだから、2、3年でメドが立つようにしないといかん。指導する人間がいいかげんなことを言ったら、悪いクセがすぐにつく。近鉄では金を使わずに成果を上げないといけなかった。そんなに時間もないからね。コーチが教え方をわからないようなときには、コーチも選手と一緒に教えたよ」(p025)

 情熱的で徹底的な指導は西本退任後も、近鉄の伝統となる。門限は基本的にない、と聞けば緩そうだが、グラウンドでは猛練習と熱い試合をする。そして、諦めたらそこで終わりという西本の信念は試合にも表れる。極端なシーズンは、2001年の優勝であろう。ノーガードベースボール。やられたらやり返せ。ドラマチックバファローズ。近鉄の芯を作ったのは西本であり、それは球団消滅まで続いた。

 この本は西本が芯を作った伝統がどのように受け継がれて行ったかを、栗橋、金村、水口、梨田らに語らせる。また、富雄の「B≠bRAZY」の熱狂的近鉄ファンの浅川氏にファンから見た近鉄でその魅力を語らせる。

 はちゃめちゃで、やると思えばやらない、駄目と思えば信じられない方法で勝ったり躍進したりする。こんな魅力的なチームがあったのだ、と伝わってくる。そして、本書の締めが泣かせる。立教野球部の後輩である著者の言葉が。


 西本さん、教え子のみなさんはいまでも恩師の教えを守っています。
 近鉄という球団がなくなっても、近鉄の遺伝子を受け継いだ男たちが野球界で頑張っています。
 あなたがつくりあげた近鉄は、いまでも大勢のファンに愛されています。


 南海ホークスを作ったのは鶴岡監督で、その教え子(ご本人は嫌がりそうだが)の野村監督が大いに野球界に貢献したように、西本幸雄の野球は阪急、近鉄の元選手たちを通じて生きている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする