TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『御堂筋の凱歌』

2012-11-06 20:02:00 | 読書
 『御堂筋の凱歌』(鶴岡一人著、ベースボールマガジン社)

 学生時代から読みたかった本。ようやく、図書館から借りる機会を得る。

 鶴岡さんの指導は根性論とか言われるけど、物凄く気を配った人であるから、その気持ちに応えて欲しかったから、そう思えるのだろう。書いておられることは至極真っ当。その延長線上に、ノムさんがいるのだと思った。準備、読み、それは日本野球史上ノムさんによって磨かれた。和解することなしに旅立たれたことが残念でならない。

・鶴岡一人の契約金は6千円、月給二五〇円。軍隊に行くことを前提に入団、入隊時も月五〇円。
・タイガース設立時に冨樫氏から声をかけられたが、職業野球に入るには勇気を要したので大学へ。
・少年野球ですでに東京や大阪に行っていた。
・中等野球時代にアメリカ遠征し、飛行機に乗る。
・広島商業では座禅とか、刀渡りとか。集中力を高める効果、あがらない効果があったとのこと。確かに、呼吸術は大事だ。
・タイガースには郷里の人も多く、親しみがあったが、試合に出られるか自信がないのか、南海に。そこで本塁打王に。
・軍隊に取られたら死ぬ可能性が高いので、プロに入ってはどうかと背中を押したのが、慶応大学の苧ム医師。
・プロ入りで野球部除名問題にまで発展したが、それを収めたのも苧ム医師。
・軍隊では高射砲の中隊長で部下が二〇〇人。対話で人心を理解する。知覧で終戦。
・終戦後呼び出しを受けて南海球団事務所に行くと、、、専門の事務所はない。南海土建の一角。ちなみに、大阪駅から難波が丸見え。空襲で焼け野原だったのだ。
・加藤喜作氏が監督と思いきや、「君がやれ」。
・最初の仕事は八百長に汚染されないための選手集め。大卒中心の「監督の要らない野球」。野球を知悉したメンバーだったらしい。
・昭和21年の初優勝は「コソ泥式優勝である」と、サトーハチロー氏に言われたらしい。
・祝杯は「メチルでなければいいや」ということで、薬用アルコール。鶴岡の兄が通産省にいて、配給券を回してもらったらしい。
・東西対抗でプロ野球復活。大下弘、登場。
・中百舌鳥に合宿所ができると、畑を三反借りる。お百姓さんも雇って食糧確保。
・終戦直後の粗食に耐えられたのは、軍隊生活がすでにそうであったから、とのこと。
・戦前の評判では阪急が強い、とのことだったが、西宮開催が多く、八百長にやられた?
・大平の白石(元巨人、逆シングルの人だね)を使った試合が連盟規定――元いたチームに戻ることという申し合わせ――にひっかかり、南海の負けが勝ちにひっくり返り、一勝差で初優勝。
・金星の内藤投手は、なんと、元審判。
・終戦直後の南海が東京で取っていた宿は、高田馬場の「緑屋」という旅館。この頃から、すでに緑か。で、「学生下宿兼旅館」。後楽園にはロッカールームなし。都電で球場へ。ちなみに、すぐにロッカールームは出来たし、旅館は中野ホテルに変更(苧ム秀雄医師の紹介)。高田馬場に「パンパン」が出没するのを嫌がってのこと。
・当時のマネージャーの大きな仕事が食糧確保。白ごはんにバターを乗せたものがごちそう。移動には旅行証明書が必要だったらしい。闇屋が大きな顔をしていた時代だが、野球のバットには敵わなかったらしい(笑)。東京大阪は二十時間。
・左傾する世の中を背景に、選手会が結成される。ただ、労使一体で老後のために作られたものらしい。そして、セパに分裂したそうな。同時に、プロフェッショナル意識=生活を野球で支える が強くなったため、と。
・阪神入りした梶岡投手に目をつけ、その試合で飯田徳治を確認。飯田に入団を口説いたのは有楽町の喫茶店(ズルチン入りの大豆コーヒーとか)。
・飯田徳治は真面目な選手だから、長く活躍できたとのこと。
・うわ、立命館大の保井さん登場。「さん」付けなのは、保護者殿なら理解するだろう。この人の紹介で、中谷投手が入団。
・伝説の国民リーグは川上、大下という大選手にも触手を伸ばしていたらしい。南海は選手を奪われた。
・昭和二二年から南海ホークスとなる。コンドル(ハゲ鷹)という、例の話は真偽不明。タイガース、ライオンなどがあり、南海は「鳥」にしようという話から、ホークスに。社章も車輪に翼だし。チームカラーは緑に。「常に緑のごとく若く、生き生きとあれ」
・この昭和二二年にファームチームを持つことにする。南海土建。これが、都市対抗に出て「混乱」を引き起こしたのは後の話。
・昭和二三年には柚木、中原、松本(忠)、松本(勇)、木塚、笠原などの錚々たるメンバーを補強し、優勝。柚木投手は呉出身で、法政大に入るときに鶴岡が世話したとのこと。阪神も狙っていたらしい。藤村兄弟の遠縁らしい。
・バカ肩・木塚は中谷が「門司鉄に木塚あり」と言ったので採用。赤嶺軍団も目をつけていたらしい。
・小生の父が言っていた正月興行の正式名称は「西宮市長杯争奪戦」。まるで軟式野球の地方大会。しかも、試合中にお神酒。
・昭和二三年の優勝は、ライバルの投手陣の弱体と、故障に助けられた面もあるが、戦力の充実がものを言った。強くなると、叩かれるのが世の常。別所引き抜き事件が起こる。
・優勝祝いは、南海電車のガード下ですき焼きを食べ、洋服を作ってくれたこと。強いチームは銭になるので、甲子園や西宮がホームグラウンドにしてくれと申し出る。
・武末投手は遠征先の東京でストーカー女に大事な右手を刺されたらしい。チームに居づらいかも知れないと考え、西鉄に譲ることにした。
・別所は銀座の料亭小松で働く女性を見染め、東京在住希望をもった。きっかけは映画出演でこの料亭に連れていかれたこと。シブチンな南海に嫌気がさしていたとも言われる。(家希望!断る!)これで昭和二四年は巨人優勝。ちなみに、木塚にも目をつけていたらしい。
・遺恨試合になるのは必定。筒井ャJリ事件。この年は、他に江藤事件。大阪駅での阪神との引っ張り合いは伝説。
・気持ちの弱い江藤投手のために、月メさんに頼んで陰毛を三本、お守りに入れて渡したらしい。博徒のお守りだね。
・確かに巨人への制裁は軽いね。「別所君は二か月、江藤君は一年の出場停止、三原さんも一年間が三か月ですむ」(p89)
・長女が電車に撥ねられて亡くなった時、鶴岡の母が目を離したすきに、というのは年配の南海ファンから聞いた気がするが、怪我から回復しつつある長男のほうに意識が行っていたからか。「だれをうらむこともない。運命とあきらめるよりなかった。」という文章が悲痛だ。事故現場に植わっていた夾駐高ゥると、一年七か月の生涯だった長女のことを思い出すとのこと。
・あくる昭和二五年、心労からかお母様も亡くなったのは有名な話。毎日が荒巻らの活躍で優勝。「勝つということは、ただ強いだけでは果たせない。それ以外、もっと大きな、運命の手といったものがあるように思われるのである。」(p92)
・シールズはそれほど強く感じなかったらしいが、シールズブームとでもいうべきものがあったようだ。
・近鉄参入に松浦南海代表は消極的。藤井寺ではお客が入らないと考えていた。昭和の御世の藤井寺球場は、田園地帯にあった、という感じだしね。
・正力は当初十チーム構想、松浦も同調するも、毎日新聞が参入したいと言い、そのうち西日本、広島、国鉄、田村駒(ネーミングライツで松茶鴻rンス)・・・。で、二リーグ。阪神はパリーグ入りのはずがぐらついて巨人と一緒のセリーグへ。
・南海は選手引き抜きを恐れて片っ端から契約更改。一方、阪神は毎日に、大映は松窒ノ選手を引き抜かれて死亡。
・パリーグ発足時の鶴岡の感覚は「ああこれで全部ご破算か、また一からやり直しか、バカなことをやったものだ」という虚脱感。(p96)
・というのは、昭和24年は戦力もほぼ均衡、遺恨試合もありファンが入り切れないこともあるくらい盛り上がったから。
・荒巻投手を狙っていたが、毎日に取られる。
・を、ヤンキース黒田投手のお父さんだ! ワンャCントでしか打てず、脚は遅かったらしいが、一時はそれ相当に働いたらしい。
・岩本義行は意気に感じて松窒ヨ。
・早稲田大の蔭山は母親が大阪にいて、一緒に住みたいと言うので南海有利に。近鉄と毎日も勧誘していたらしい。鶴岡は攻守に優れた後釜と考えていた。
・蔭山、木塚、岡本、飯田の百万ドルの内野陣。プロ野球の看板に。小技の冴えた上手い野球。
・二リーグ分裂騒動で契約金を釣り上げ、金に対する執着心が選手に芽生えた。そして、プロ野球の経済的規模を大きくしていった。こうなると、プレーイングマネージャーが困難になり、鶴岡は監督一本で行こうと考えるようになった。
・「同点から二点を入れてアヘッドした」という表現あり。
・黒田父がライトを守っていて、前進して捕球も、つんのめって転唐オた。その表現が面白い。「黒田君は脚が弱かった。突っ込んできた勢いで、脚がもつれたようになり、捕球してから手をついた。」(p104)
・その「落球」が、落球でなく完全捕球であることを、カットマンの鶴岡は目の前で見ていて、抗議から放棄試合へ。富山での大映戦のこと。面白いのは、観客は騒ぎもせずに立ち去ったところ。ちなみに入場料は払い戻しに。
・西鉄入りしていた川崎徳次郎?投手が勝てないことで泣きが入っていたらしい。「そんな気の弱いことでどうするか」と鶴岡は励ます。監督に「三原さんが来ないかなあ」と、川崎は言う。その後、西鉄は三原監督となり、西鉄・南海は黄金カードと呼ばれる。
・ディマジオが一人で来日。サードの頭を越すかと思われるくらいのあたりが、ぐんぐん伸びてレフトスタンドに。スタンスの大きくとり、バックスイングの小さなスマートなフォームで。これが流行になったらしい。ユニフォームの着こなしも粋だったようだ。
・昭和二五年九月一二日、大阪球場完成。
・九月一八日、南海対大映は午後四時近くに始まり――別のカードの第一試合があった――、日没引き分け。これにファンが納得せず、「やれやれ」と騒動に。警官が出て収まる。
・昭和二六年七月、ナイター設備完成。阪神も大阪球場を利用したのだ。
・昭和二六年は鶴岡が選手としても主力復帰、四番を打ちセカンドを守る。蔭山、木塚、飯田の俊足トリオでかき回す野球。投手陣も好調で独走で優勝。なお、巨人は圧涛Iだったが、初めから気持ちで負けていたような、というお話が。蔭山がマークされた。95年にイチローがマークされたようなものだな。巨人の老獪さが嵌った。
・なぜ気持ちで負けたか。南海がボロボロのボールで練習をした後、巨人はピカピカのボールで練習。新品なのでフリーバッティングではスタンドにガンガン放り込む。それを見て南海の選手がビビった。また、巨人は多田情報といって、南海を研究したが、南海は巨人を研究しなかった。
・全米オールスターが来日し、岡山の第十四戦目に初勝利。早め早めの継投が功を奏したわけだが、これは後の采配のヒントになったとのこと。
・南海は昭和二七、二八年にも日本シリーズに出るが、「何回(南海)やっても巨人にゃ勝てぬ」と揶揄されるありさま。ここで打線の大型化を考える。同時に、やや弱体な投手陣が問題と考える。打線の援護で勝っているのに、自力で勝ったと慢心して消えた投手が多かったとのこと。難波という地理もあったと聞く。チヤホヤされて慢心。
・特に惜しまれたのが服部投手。ナチュラルスライダーが低めに決まる。フリーで本気で投げるとかすらない。
・岡本伊佐美が成長して、再び監督業に専念し出したのが昭和二七年の後半。
・平和台のファンは投石がデフォ(笑)。
・鶴岡南海はファンを刺激するような言動は厳禁。
・昭和二七年は中盤快走するが、終盤失速。毎日との決戦前に、大映戦に勝利して優勝。ただ、この試合に柚木投手を使い、中一日で迎えた日本シリーズでは十分に使えず、敗北。この年は、先発完投できる投手が少なく、継投策で乗り切る。「先発よりも、後で出す投手に重点を置く。」(p135)この苦労は、スーパーエース・杉浦の入団まで続く。
・巨人は老獪な野球をし、若い南海を退ける。南海はちょっとペナントで燃え尽きたところもあったようだ。
・でも、日本シリーズの勝敗を決してしまったのは、柚木投手の第六戦の暴投らしい。
・勝つために野球を知っている大卒の選手の獲得、そして投手陣の整備を行う。さらに良い野球選手が育つ九州・四国に目を注ぐ。(九州は石川スカウト)ここでもライバルは巨人と西鉄。
・岩本尭、広岡達朗、長嶋、河村、稲尾、畑、仰木、柴田の獲得を目指していたらしい。長嶋、稲尾は有名すぎるか。
・石川スカウトのあとを、西鉄はつけていたらしい。
・岩本尭の幸せ(結婚)のために、南海は契約を破棄した。それにしても巨人は平気で約束を破るのね。
・広岡達朗は鶴岡の小学校の後輩。大学の3年くらいから声を鰍ッていた。南海への入団を取り付け、大阪行きの切符を破いて一緒に飲んだ鶴岡。だが、いつの間にか巨人に籠絡されていた。広岡の奥様のご両親が、娘が大阪に行くのを嫌がったのではないか、と。「夫人の髪の毛は象をもつなぐ」
・赤手袋の柴田は巨人ファンの俳優(日活)に口説かれた?
・南海は強かったので、出番を与えるために長沢、松平、松葉を東映にトレードした。
・豊田泰光は出番の多そうな西鉄を選んだ。
・投手力の弱かった西鉄は、米軍から選手を借りた。なお、西鉄は守備も弱かった。毎日は新旧交代で苦戦。レインズが走りまくる阪急、ピストルだが良くつながった近鉄が前半は善戦。
・南海も投手力が弱かったが、大神、井上、小畑、中村、藤江らで凌いで昭和二八年に優勝。
・昭和二八年に西宮にナイターがついて、ナイター文化が定着。
・ナイターが定着すると、食事、睡眠が一般人と変わってくる。上手く適応できないと長く活躍できない。夜食は軽く、朝食(正午頃になる)はしっかりと。
・テレビ放送がはじまり、全般的にスマートになった。洗濯回数も増えた。また、解説者が生まれ、プロ野球への理解を深めた。
・昭和二八年の日本シリーズも苦杯を舐めたわけだが、与那嶺要の脚にやられたらしい。総じて善戦だったようだ。
・空谷投手を獲得するために、愛媛の卯之町まで行ったらしい。松商の先輩は巨人を、監督は中日を推していたらしい。南海を含めた三球団で、松山にて入札に。中日が勝者。
・宅和元司はすんなりと入団。だが、怪我で二年しか実質働けなかったのが残念とのこと。今で言う体幹を鍛えていれば、八年でも十年でも大活躍しただろう、と。
・皆川睦男@最後の三十勝投手は、いつのまにやら南海の後援者になっていた苧ム医師の紹介で。
・いよいよ、ドラえ・・・いや、野村克也登場。西京極の夏の予選で鶴岡はチェックし、なかなかいいので試験を受けよと伝えたとのこと。入団直後、肩を痛めて打撃の修業に専念できたことも、大成した要因とのこと。とある良家の女性と猛烈な恋愛結婚をしたのだが。ちなみに、鶴岡は、女性の痩身を心配した野村の母に「心配なら病院で診断してもらえばよい」と助言し、結婚をフォローした。この後のことを知る身としては、色々と辛い。
・昭和二九年は西鉄が優勝。大下、中西の老若のバランス、投手陣の充実。
・南海は宅和がカーブとコントロールでエースとなり、やや弱体の投手陣は頑張るが筒井、森下の負傷、飯田の不調で機動力を活かせなかった。とはいえ、夏場の終わりから18連勝をしたりして、半ゲーム差の二位に。この年の反省から、本格的に大型化を意図する。
・杉山光平は近鉄のファームで監督と衝突して腐っていた。近鉄にトレードを申し込むも断られ、一旦高橋ユニオンズに移籍した形で移籍する。他に深見、飯島を迎え、飯田は外野へ転向し、足腰が鍛えられて最高殊勲選手を得る。
・天才盗塁王・広瀬は広島の友人の紹介。投手としてはダメだが、脚と肩を見込んで入団。ファームでは外野だが、一軍デビュー時はショートだったかと。
・怪我に付きまとわれているとしか思えない白崎投手。中百舌鳥暮らしのためか、玄人はだしのゴルフの腕前になり、ゴルフ転向を勧めたが本人にその気なし、日立系列のサラリーマンに。
・出た、尾張メモの尾張。スメ[ツ毎日で二七年勤務の大ベテラン。かなり詳しいデータを持っていて、しかも解析していた。こりゃあ口説いて入団してもらうしかない。こうして、日本球界にスコアラーが誕生した。
・杉山、飯島らの活躍もあり、昭和三〇年は優勝。山は八月三〇日からの西鉄三連戦。一試合目は9回に6点取られての逆転負け。投手(宅和)の肚の問題と。二試合目は天才杉山のサヨナラ本塁打。三戦目は好調中村投手と、リードを重視して起用した筒井で勝利。筒井はサヨナラ安打も。最終的に99勝。
・満を持した日本シリーズは、三勝一敗とリードしたところからの三連敗。「勝つと思うな、思わば負けよ」を地で行ったようだ。
・p212、岡本伊佐美の本塁打を出迎える写真があるが、ベンチ総出でラインに並んでいるw 8回表なのでもちろんサヨナラではない。どんだけ、打搭瑞lに執念を燃やしていたかが分かる。
・三連敗は、藤尾、加倉井という活躍していた新人を軽く見ていたことも原因である。第五戦はその藤尾が三番、加倉井が七番でスタメンに。
・を、「巨人の第五列」(p217)という表現が。時代だね。「ファシズムの第五列」。
・何かというと、第五戦の試合直前に読売グループの記者が「シーズン中で、いちばん苦しかったのはいつですか」とダッグアウトに入ってきたこと。
・いきなり藤尾の本塁打などで4点取られたが、「明日があるさ」と思ってしまったのがいけなかった。「あすありと思う心の仇桜」また、追撃に転じた時にも投手の温存――好調中村を早めにひっこめた――など、「明日」を考えてしまった。そして、追いついたとき、信頼できる投手がいなかった。
・大阪に戻る飛行機は巨人と同席。巨人のほうが騒いでいた。流れは浮「。そして、流れを手放してしまい、最後は別所に完封負けして巨人に敗れる。
・鶴岡は選手たちに投手起用のミスを詫び、選手たちは男泣きに泣いた。鶴岡は家で一人酒の日々を数日過ごす。
・日本シリーズが終わると、左投手と強打者の補強に。
・百円札で六、七百万円鞄に詰めて亀山に行ったり。
・大型内野手穴吹を獲得するため2年前から動く。帰省までフォローするのね。「穴吹家の前には、いつも数台の自動車がとまっているというさわぎだった。」(p230)「高松シリーズ」とまで言われる。最終的には西鉄との争奪戦で獲得。本人は南海一本だったけど、周囲の思惑が色々あり、「あなた買います」と小説の題材にまでなった。
・鉄腕稲尾は捕手であったが、法政OBの緑ヶ丘高校の首藤野球部長が投手転向の成否について南海江藤投手――部長と大学で同級生――に相談、OKサインを貰う。後に南海を大いに苦しめる大投手は、こうして生まれた。当然、助言も行ったらしい。今なら抵触だな、くだらない。
・「北九州南海後援会」というものがあったらしい。
・畑投手の獲得のために大分の日田の実家までナイターのたびごとに車を飛ばしていたらしい。お姉さんの大阪での就職まで世話。契約は小倉の山路市会議員が後見人署名したが、西鉄側が実父の印を取る契約を得て、二重契約に。コミッショナー裁定で西鉄のものが有効となる。
・大型内野手として寺田の獲得に成功したが、腰痛持ちが災いしたのか、打撃ではあまり活躍できず。
・後に交通事故で亡くなった長谷川外野手は学区編成変更前には広島商業にいて鶴岡の後輩だったこともあり、高校時代から注目していたとのこと。お兄さんは法政大学。本人も法政大学へ。ここで胸に病気が。何とか卒業後、広島で材木屋を手伝い、完治してから南海へ。人が良すぎて気が弱い。(但し記録を見ると杉山、野村らとクリーンアップを担ったこともある。)働けるうちに中日に出てもらったら、ああいうことに。悲運を絵に描いたような方だと思う。
・大沢親分は、俊足強肩、そして何よりも根性があるところが気に入ったとのこと。日本シリーズでの伝説的な守備はあまりにも有名。
・昭和三〇年オフの大阪球場での大学東西対抗で長嶋を見て勧誘に乗り出す。ノムさんが育つまでのつなぎとして、藤重捕手をハワイから獲得。二年契約。ノムさん、期待されていたんだなあ。
・昭和三一年は打線の大型化途上。完成していた西鉄に敗れる。二月にハワイ遠征したのは、野球選手も外の世界を知り、人間としての幅が出ないといけないと考えたから。試合は「原っぱ」。この遠征が縁で、半田とサディナが入団。そしてノムさんが一本立ちに目途。在日韓国人の中村投手は遠征に参加できず。そのことがショックで調子を崩してやがて退団。
・禁止されている麻雀を深夜(と言っても一一時)にやっていたことで、宅和投手は謹慎。その後、風呂場で転唐オて選手生命を縮める。宅和も中村も、もうちょっとしっかりしてくれたら大投手になれたのに、と、残念がる鶴岡親分。「たいせつな投手をつぶしたくてつぶす監督はいない」(p245)
・主力投手の不調を、二軍での見習い投手でカバー。二軍コーチの成果である。
・大型化のため若手起用を重視。序盤で三試合連続完封負けを喫するも、大沢、長谷川が活躍して首位に。だが、研究されて彼らの打率が下がるときに、調子を上げてくると考えたベテランが、予想通りに活躍せず、九月上旬に七ゲーム差をつけていた西鉄に逆転される。問題は下位にいた阪急や近鉄相手に取りこぼしたこと。
・最後のほう、西鉄は7試合、南海は4試合。南海は3勝1敗くらいと予想されたが、相手の大映は三割五分ラインの瀬戸際で必死(罰金制があった)。その初戦、八回に無死1,3塁のチャンスに内野ゴロゲッツー、その間に同点ホームインのはずが、ボーンヘッドと思われることで三重殺などで負けてしまう。一方の西鉄は阪急相手に完封勝利。これで逆転される。その前に、西鉄との決戦(四連戦)で負け越したのが痛かったとのこと。ャCントとなるプレーでの不注意、気持ちの弱さがペナントを分けたのではないか、と。(これは永遠の課題だ。)一方、西鉄には若い稲尾が、例の七戦のほとんどに登板し、四勝を挙げている。
・投手力の弱さを感じ、そのオフは木村投手(早稲田)、東投手(立教)の獲得に乗り出す。木村投手は1年目21勝を挙げたが、子供の頃からの投げ過ぎですぐに寿命が来てしまった。東投手はスピードが決定的に不足していた。その一方、石川探題は祓川、渡会、三浦という後の中堅どころを獲得した。
・木村投手は西鉄との初顔合わせで滅多打ちに逢い、そのことで西鉄恐撫ヌになり通用しなくなった。
・真面目一徹の飯田は、実家のことを思ってか、いつかは関東のほうに戻りたいと考えていた。そこで十年選手を機会に、国鉄に移籍。木塚選手は近鉄が幹部候補生として引き受けた。こうして南海はラインアップを一新することに。
・昭和三二年は高橋ユニオンズの解散のため七チームに。
・四月一一日の試合、穴吹はホームランで前走者を追い越してアウト。ただし、前走者の岡本のホームインは認められ、それが決勝点。
・ともあれ、四百フィート打線と名付けられた年である。大型化が結実した。ともあれ、打線は水物。その中で脚が計算できる広瀬を先頭打者に。杉山欠場の試合では三番に抜擢、稲尾のアウドロ(アウトコースのドロップ?)という決め球をヒットし、稲尾を唖然とさせる。
・広瀬は三塁と外野のツープラトーン。内野守備は不安だったが、根性があった。
・四番は30本塁打の野村。荒い打撃ながらも三割越え。
・ペナントは七月以降、西鉄に七連敗したことが響いて制覇できず。西鉄に通用する投手がいなかった。
・この年、鶴岡の文子夫人が亡くなり、弱気になっていたことも響いたのではないかと書かれている。三三歳、癌による死去。温泉にでも連れていくのにも、その間もなしに再入院。一日おきに病院に泊まる。家に帰れば子供が不憫。こりゃあ、参るわなあ。
・「恥も外聞もなくぼくは号泣した。いま法政へ行っている長男の泰が小学校五年、長女の緑が小学校へ入学する年、次女の香はまだ四つであった。
 文子の死は、まさに片腕をもがれたようなものであった。(中略)しばらくはめくらも同然、家の中のことも手さぐりであった。こういう状態であったから、どうしても心の底から張り切れないものがあった。」(p275) 当たり前だよな。
・昭和三二年には林業をやっているご夫人の実家に、若手を働かせに出かける。金のありがたみを知らせようと考えた。ャXトシーズンに放任すると碌なことはない。選手たちは逞しくなって大阪に帰った。
・長嶋の巨人入り。これは日本シリーズ解説のため福岡にいた時に聞いたとのこと。脳天を金づちで殴られたような衝撃。長嶋家を訪問し、良い返事を頂いていたのに。杉浦投手はテレビで初めて見た。長嶋、杉浦の獲得に乗り出した。父親代わりの兄、お母様が巨人入りに傾いた。遠く大阪にやるのが不安だったとは、別の本で読んだ。
・杉浦の名言。「ぼくは一度決めたことを破るような男じゃありませんよ」(p281)
・阪急や巨人は杉浦のお兄さんに働きかけていたが、杉浦の鉄石の心は動かず。
・「いまになって考えてみれば、長島君は巨人へ、杉浦君は南海へはいってよかったと思う。」(p282)
・文子夫人の一周忌の後、再婚、引っ越し。心機一転。昭和三三年はパリーグが六チームに。
・この年の投手陣は、杉浦、皆川以外計算できず。なお、二人ともサイドハンドで同タイプ。監督は起用に苦しんだようだ。前半、南海は大独走したが、杉浦、皆川がバテると失速。怪我で欠場していた豊田が復帰し、高倉が調子を上げて爆発した西鉄に抜かれてしまった。オールスター戦後、三六勝中一七勝した稲尾の大活躍もあった。
・勝負所で杉浦を立て、引き分けに終わったのが響いた。次の試合、皆川か、野母か、と悩んで杉浦を立てたが、中西にいきなりスリーランを打たれて終了。
・同型投手二人は苦しい。本格派が欲しい。そこで東映でくすぶっている米川を取ろうとする。が、西鉄にさらわれる。
・南海ホークス二〇周年記念ユニフォームは「ちんどん屋みたい」と評判が悪く、また杉浦が打たれて負けたので一試合だけでお蔵入り。
・昭和三三年九月一六日、対大毎戦での勝利が鶴岡監督の千勝目。
・鶴岡監督から見て、南海での最大の恩人は小原社長のようだ。戦争で息子さんを亡くされ、さらに公職追放のあおりで社長退任。野球に救いを求められたのか、ホークスに愛情を注がれた方。チームの弱点を見抜き、鶴岡を支えた。あの御堂筋パレードをテレビで見ながらビールを飲まれ、その後一二月二二日永眠された。「これでもう思い残すことはない。いつおむかえがきてもいい」(p296)パレード前に鶴岡と面会した社長は鶴岡の手を固く握って、そう言ったという。鶴岡はうつむくのみ。逝去後、深い絶望感と落胆を鶴岡は味わう。


ホークスは正々堂々と戦え、そして強くあれ


・昭和34年はもう一枚の投手、ということでサディナを呼ぶ。杉浦への繋ぎ役。後半は祓川が活躍。
・七月に「暴れ者」東映、「ミサイル打線」大毎に負け、中だるみを懸念してマークすべき選手に、お目付け役のコーチをつけて監視&教育。
・一方、尾張メモをもとに、殊勲選手には賞金を出すようにした。
・移動が大変な時代、夜行で移動、次の日練習をし、その次の日試合、というパターンに。昼移動ではできなかった練習を入れるようにしたのだ。
・八月の北海道でミサイル打線が大爆発して首位を奪われるも、その後四番の山内が近鉄のミケンズにデッドボールを当てられるなどのこともあり、失速。
・サディナの荒れ球は大毎に有効。デーゲームに弱い杉浦をカバー。祓川は西鉄に強い。しまいには杉浦は無双。一〇月四日、後楽園で優勝を決める。最後まで油断しなかったことによる勝利である。
・半田とサディナの発案で、コーチが風呂に抛り込まれる。アメリカ流の謝意らしい。
・巨人の優勝決定の試合を鶴岡は研究のために観戦。試合前、杉浦対策のためにマウンドの2m前からの投球を打撃練習。
・日本シリーズ前、選手全員と白浜旅行へ。意気込みを高めるために。この狙いは成功する。練習も研究も十分に出来た。
・第一戦、巨人の先発は左腕の義原と聞いて、南海ナインは自信ありげになる。藤田や別所ではなかった!と。
・杉浦が肉刺を潰したので、代わりに祓川を出したら、あがってしまって痛打を浴びてしまう。10≠Rのリードが5点差に。皆川も2点返されたが何とか逃げ切り。はっきり勝つまでは絶対に緩めてはいかんという教訓に。
・第二戦の南海先発は田沢。「お前あがるかあがらんか」と聞いて「あがらんと思います」と答えたので信用。だが、いきなり長嶋にツーランを浴びる。二回から三浦を投入。いきなりのピンチ、スクイズを外して併殺に。これで南海はいける!と思った。逆に巨人はスクイズ失敗からプレーが雑に。
・巨人の先発藤田にはカーブ狙いを徹底させ、それで逆転。すかさず杉浦投入、逃げ切り。
・上に書いたパターンで、移動日も練習。
・第三戦は、杉浦%。田。南海リードの土壇場9回裏、巨人は先頭坂崎のソロで同点。続く国松にもヒット。杉浦は自信を失ったように見えた。ここでエースを代えるわけにいかない。お守りを拝む選手たちの一つのお守りを長谷川に持たせて杉浦のところに行かす。これでベンチの意思を杉浦は察する。だが、加倉井の二塁打などで一死二,三塁となる。代打・森の一撃は猛烈なライナーとなり、左中間を襲う。だが、そこには大沢がいた。度胸と頭脳と強肩の大沢。バックホームで本塁で走者広岡を刺した。この話は余りにも有名。延長戦では野村の出塁を、寺田の二塁打で還して南海が勝利。
・翌日の雨天はよく、杉浦の休養になって良かったと言われるが、監督としてはブレーキが鰍ゥるのではと心配していた。大阪に試合を持って帰ることは止めよう。
・第四戦、3回寺田のタイムリー二塁打で先制。杉浦の立ち上がりは悪く、どうにか無失点で抑えていたが、リードしてからはぴしゃり。(別の本では杉浦さんが「キャッチャーミットしか見えないような不思議な空間で投げている感覚だった」と書いている。血まめが潰れても、不安の影がなかったようだ。
・巨人のエース、藤田は六回出塁時に盗塁を決めるなど、意地を見せた。
・最後の守備は、これまでのことを思い、居ても立ってもいられない心地だったとのこと。
・二死後、涙がこらえられなくなる。(昭和六二年の清原を思い出したり。)優勝の瞬間からしばらくは、覚えていないとのこと。チャンピオンフラッグはずっしりしていた。
・日本初のビール鰍ッ。そして、風呂へドボン。近所のバーで親しい人たちと痛飲。松井コーチに担がれて宿舎に戻っていた。
・リーグの祝勝会は翌日の新橋の支那料理店で。参加者にはライバル・三原も。「鶴さん、おめでとう」と。そして夜汽車で大阪へ。
・八時四五分、大阪到着。ホームがファンで埋められていた。いや、駅の外まで。とりあえず家族も来ている難波の大和ホテルに。大阪での大歓迎に、勝負は勝たなければならないと痛感。
・病床の小原会長?に報告。壺田社長、橘球団社長もただただ感激の涙。
・パレードの前、奥様が前の奥様の位牌を差し出す。「お父さん、パレード見せてあげてください」。
・十一時に大阪球場をスタートしたパレードは、沿道から花吹雪を浴びながら、肥後橋を経て市役所へ。挨拶のあと南下。大阪球場に帰ったのは一時四〇分。その後、高島屋の大食堂を借りて祝勝会。南海ホークスの歌に合わせて歌い、踊った。
・大エース杉浦の大活躍で日本一になったが、負担を減らすためにも勝てる投手、二〇勝以上できる投手が欲しかった。そんなところにサディナが「友達のスタンカはどうですか?」と勧められる。ホワイトソックスで勝ち投手にもなった速球派。その時は3A。別名「青い目の日本人。」
・昭和三五年のペナントは、八月中旬の九連敗が響いた。大毎はミサイル打線の爆発と小野投手の活躍で優勝。それにしても凄いのは大洋の三原監督。最下位から日本一に。その影響か、監督の入れ替わりの激しいオフとなる。
・水原監督と鶴岡監督は気が合ったらしい。お互いに気持ちのいい試合を繰り返した。その水原監督が巨人から東映に。東映は粘り強いチームとなった。
・チームというのは、大体四年に一度切り代えの時期がくるらしい。で、その時期に来たと判断したが、思ったような補強は出来なかった。ピート内野手と、後に主力となる小池を取る。が、イマイチの補強。対応策は「気合を入れる以外にない」(p339)でも、限度があると白状(笑)。
・会長から投球数は年間二九〇イニングまでという通達が。そこで、この時代流の分業制を考える。スタンカの後にはアンダー・スローの皆川を、森中、田沢のあとには杉浦を、という感じ。
・昭和三六年、大毎には勝ったが、東映相手には杉浦が打たれたりして苦戦。ペナント序盤は首位を守るも、たるみが見られるようになる。東映、西鉄に連敗が続いた中で門限破りがあった。自分に選手たちがだらける要因があるのだろうかと考えるために試合を休み、大阪へ。復帰後、チームにネジが入り八月中旬には一〇ゲーム差の独走。だが、杉浦投手が右腕の血管閉塞(だったと思う)で九月上旬から離脱。すると、焦りが生じたようだ。そのうち、東映が首位に立つ。
・だが、南海にも意地がある。杉浦一人のチームと思われたら癪だ。選手にファイトが蘇る。簡単に優勝させてたまるか、と。
・南海の最後の五試合は東映戦。大阪で一つ、駒沢で四つ。大阪の試合、相手の山本八郎一塁手がファーストカバーに入った土橋投手に送った送球が速すぎ、後ろに逸らすエラープレーとなり決勝点。これが響いたのか駒沢で東映は三連敗し、南海が優勝。
・その間、杉浦の穴を埋めるために、後に「赤手袋の(賭け麻雀の(オイ))柴田」の家に日参。投手として。しかし、本人は巨人入りを希望し、その通りになる。
・この年、広瀬が外野転向、そこで半田、小池がショートに入る。小技で鳴らす選手が入って勝てたということは、大型化ではこれ以上の進歩ができないことを示した。
・小技の利く選手を求めて堀込と樋口に入団を働きかける。
・日本シリーズのことには触れられていない。言うまでもなく「円城寺 あれがボールか 秋の空」(詠み人は 商社マンらしい)。
・昭和三七年、ニューヨークヤンキースの招待でアメリカに。アメリカのキャンプのあり方、プロ野球の組織を視察すべく旅立つ。だが、いろいろあって三月一九日に出発。キャンプも試合も視察。フロントに元ユニフォーム組が多いことを知る。
・ペナントは、森下の怪我から負傷続出。責任を感じ「ピラミッドのように積み上げて考えた」結論が、蔭山に指揮官を交代してもらうこと。いつかは蔭山にと考えていたとのこと。阪急足立投手にその当時一試合最多奪三振を奪われる二日前、選手起用を誤ったことを感じ、決断。誰にも相談せず、社長に結論を伝える。采配に新味を出せるようにするには、完全にバトンを渡すしかない。
・監督辞任後、卑怯だとか、色々と批判を浴びる。色々な見方があるものだと改めて教えられる始末。そしてアメリカではどうなるか、軍隊ならどうなるか、と考える。やはり指揮官を代えるだろう。
・「よく若い選手が、このチームに骨を埋める覚悟でやるというようなことをいっているが、これからの選手は、そんなことを本気で考える必要はないし、そんなことをいうのはおかしい。どのチームであろうとも、選手として力を十分発揮するということがいちばんたいせつなことだ。」(p362)
・を、継投の大事さを説かれている。野手でも三拍子揃った逸材は稀、と。
・蔭山代理監督、すなわち現場と、ファンの嘆願で八月に監督復帰。後の歴史を知る身としては、気になる記述が。「その間に蔭山君とコーチの間にトラブルがあったということも耳にしていた。」(p364) 結局、この年は二位。東映が優勝した。尾崎行雄、安藤元博の補強が利いた。
・蔭山に委譲するにはチーム力が下の今ではないと考え、昭和三八年も指揮を執る。アメリカから学ぶため、蔭山、杉浦、林をデトロイト・タイガースのキャンプに参加させる。翌三九年には村上を。後のマッシー村上である。
・昭和三八年の前半は南海が独走。だが、杉浦、高橋という主力投手に陰りが出始めると、中西監督率いる西鉄が投打のバランスを整え、猛追する。西鉄最後の二試合は近鉄戦。連勝が優勝の条件で、連勝する。鶴岡は、中西の西鉄とプレーオフをしたかったとのこと。プレーイングマネージャーの大変さを知るから、シンパシーがあったのだ。この年、ON砲がさく裂して巨人が日本一に。南海では野村が52本でホームラン王に。
・昭和三九年は逆に、前半不調も、後半投打が噛み合い、阪急とのデッドヒートの末優勝。杉浦の復調、スタンカの好調のおかげとのこと。
・スタンカは味方のエラーで腐ったりすることもあるが、ファインプレーに感激して調子を上げたりする。意気に感じる日本人的な感覚を備えていた。昭和三九年限りで日本を離れる。息子が風呂場でガス事故で亡くなり、傷心を抱え、夫人の気持ちを汲んでの帰国。
・ここで円城寺さんの判定。意識してボールをストライクにしたとは思わないが、目に見えない巨人の圧力が心理的に審判に作用したのではないか、という思いにとらわれたことは否定できない、とのこと。
・鶴岡は後に「ヒューストンの屋根付球場」でワールドシリーズの観戦に出かけ、そこでスタンカと再会。家に泊まってくれと言われたが、ニューヨークに行く必要があり、代わりに空港まで見送りに。涙を流して別れを惜しむ。家には日本の民剣iが。やはり、日本は忘れられないのだ。夫人もまた、在留日本人の子弟に英語を教えていた。二人とも日本から訪れる人の面唐謔ュ見ていたとのこと。
・スタンカの大活躍で昭和三九年は、村山、バッキーを擁する阪神を破り日本一に。だが、親類と試合をしているようで、ファイトは余り湧き立たなかった。それに、東京オリンピックと重なっていたはず。
・小原社長が亡くなった三四年から、監督交代を考えていたとのこと。もちろん蔭山監督だ。昭和三七年からは良いチームで蔭山に引き継ぐことを考えてきた。昭和四〇年の前半は圧涛Iに強かった。終了時も、ノムさんは三冠王。だが、日本シリーズではV9をはじめる巨人の前に惨敗。
・潮時と思ったか、辞表を提出。監督業で心身ともに疲れ果てていたと思ったが、世間は放っておかない。東京の永田、サンケイの水野の両オーナーが獲得に乗り出すという話が出る。
・先輩や知人に相談すると野球界への恩返しだ、という。そこで引き受けようと決意。それにしても「帝塚山のボロ家」って、形容矛盾じゃないか(笑)?
・うーん、やっぱり永田ラッパのほうに気持ちが行ってたのかな?
・どちらに行くか決意して、就寝した深夜、新聞社から電話が。「蔭山が死にましたよ」。蔭山の死は、鶴岡にとって「東京に行くな」と言っているように感じられ、断念。一旦は野球をやめようと思う。
・南海の選手、コーチは復帰を嘆願。オーナー、社長も要請。霊前で考え、復帰を決意。三年契約とけじめをつける。「蔭山君の死は、ぼくの運命をも、南海の運命も変えた、巨大な死であった。」(p386)
・蔭山の死はチームに団結を齎した。林投手、広瀬外野手の故障があるも、優勝。なお、日本人初の大リーガー、村上は昭和四一年に日本復帰も、ショートリリーフにしか使えない体力であった。後に名投手になるのだが。「うまくなったのはチューインガムの噛み方だけだ」
・日本シリーズは渡辺投手を主軸に。だが、力及ばず巨人に敗戦。
・昭和四二年は初のBクラス転落。広瀬の欠場が痛かったとのこと。阪急が西本「さん」のもとで初優勝。日本シリーズでは取材攻め。巨人は弱点を突くのが上手い。小技が利く。
・ハドリは「ケンちゃん」と呼ばれ、愛された。帰国する前の試合で胴上げされた。
・昭和四三年も阪急の優勝。南海は1ゲーム差の二位。近鉄は三原監督が旋風を巻き起こす。
・この年で契約終了。勝ち負けの如何によっては優勝の可能性のあった試合、負けてしまった最終戦。来年も頼むぜ、というファンの声が、敗北でがっくりして騒然としているファンの中から聞こえる。それはありがたいが、チームの後々のことを考えて勇退。
・川勝伝さんも辞めないでくれと言うが、気持ちを察してくれた。飯田監督を推薦。真面目さを買っていた。そのあとは、ノムさんに。
・その後、やはりというべきか、他球団、近鉄と阪神に誘われるが、もう、体が持たない。ドクターストップもかかった。
・阪神の田淵入団の時は、陰で応援。(何をしたのかな?)
・パリーグ人気の凋落に心を痛める鶴岡。審判を舐めていて、試合時間が長い。審判を尊重しなくてどうする? 華のある選手が少ない。前後期制にしたがいいが、趣獅揄オていないような言動がある。「前期を捨てた」とか「後期に賭ける」とか。「そんなチームの試合を誰れがゼニを出して見に行くか」(p399)
・やはりアメリカのように独立採算の株式会社として、ちゃんとしたフランチャイズに拠って経営していくようにすべきではないか、とのこと。(これは40年の時を経て、そうなっていったように思う。)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする