TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『近代の奈落』その7

2006-07-20 23:09:19 | 読書
 次に、著者は大阪の浪速の部落を取り上げる。ここには当時にしては珍しく、プロレタリア階層の多い部落であった。当然、資本家もいた。流入者も多く来た。そんな中に、奈良県から松田喜一は吸い寄せられた。彼は十九歳で社会主義研究グループを組織する。一九二五年にレーニン記念会を開催するほど先進的だった。彼はどうも、オルグに強かったようだ。その能力で、地元(西浜)に水平社組織を作る。そして、彼のような目覚める者は、この時代に澎湃として湧き起こった。

 和歌山では栗須七郎が水平社に出会い、運動に加わる。マルクス・レーニン・親鸞・明治天皇。ごった煮の精神。それは、必要に駆られての同居であった。そして、大都市大阪での水平運動を目指す。彼は雄弁家であった。

 このような個性から、西浜水平社は立ち上がった。若者中心・下層労働者中心・流入者中心であり、戦闘性と突破力をもっていた。そしてそれはボル派と親和性があった。

 大阪は当時、都会ばかりではない。堺近辺の舳松には泉野利喜蔵がいた。彼は農村部落に多く見られた青年団から出発し、水平運動に出会う。ただ、舳松は純粋な農村ではないが。泉野は与党として村を動かそうとする。そして、マルクス主義も受容していく。

 彼ら三人を中心に、大阪の水平社活動は展開した。しかし、1928・3・15のあと。

 栗須はごった煮の状態から、マルクス主義的傾向が薄れ精神主義的になり、水平運動の第一線からも離れる。泉野も、ボル派の階級闘争従属論に嫌気がさし、訣別し、融和団体のトップになる。松田も部落厚生皇民運動に行く。

 こう見ると、脱落・転向のように見えるかも知れない。しかし、著者は言う。“アルコール中毒のことを英語では alcoholism という。(略)イズム(主義)とは中毒である。なら、マルクス主義者とはマルクス中毒者ではないか。(略)ヒューマニズムではどうだ? これだって「人間」というお題目の中毒にすぎない。人間なんて、そんなお題目になるようなすばらしいものか。もっとどうしようもないものではないのか。
 しょせん、主義は中毒、生活全体を覆うことなどできはしない。だから、それで歴史が動いてきたわけではない。”

 すでにマルクスが「宗教批判はあらゆる批判の前提である」と言ったことの焼き直しと思うのだが、小生は同意する。深くマルクスなんかに触れようとすればするほど、その先にあるガイストに思いを致さなければ意味がない。さらに引用。

 “主義が問題ではない。生き方なのだ。生き方が部落の生活の幅を覆えたとき、主義は部落の人たちを動かす生きた力になったのである。”

 (中途は京都のことや上のことの繰り返しっぽくなるので略)

 さて、面白いエピソードがある。松田喜一は戦後、生活が困窮して娘さんに「私を捨てるか、運動を捨てるか」選べと言われたらしい。松田は「しゃあない、おまえらを捨てよう」と言ったそうな。著者は言う。「運動は生きることそのもんやさかいに、捨てられへんがな」。ここまで生活と運動が結びついた/結び付けられることは、実は困難であることが現在的課題だと小生は思うのだが。しかし、うらやましくはある。
(続)
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