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繁栄の外で(40)

2014年06月10日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(40)

 いままでの仕事がこれからの生活と相容れなくなって、転職することにする。主に肉体をつかった仕事で、自分は思い上がった人間であることを忘れるように努める。まあ大した人間ではないのだ。いままでも、これからも。

 その前に、新しい仕事につくまで休みがあったので、その期間を利用して旅行をすることにする。自分は、いつも限界を感じると直ぐに見知らぬところで、リセットするように自分に仕向ける。ある意味での逃げだと思うが、それも仕様がない。正気を保つことは、意外とたいへんなものだ。そのとき友人にもちょうど暇があった。

 考えて、どちらもアメリカという存在に影響をうけた人間でもあるので、行き先は西海岸を選んだ。たぶん9日間で10万円もしなかったと思う。場所は、サンフランシスコとラスベガスとLAという三ヶ所が行程に含まれていた。

 影響のことを考えなければならない。ぼくらは、Tシャツを着て、ジーンズを履いて、トム・クルーズの映画を見て育った。子どものころには、休日の昼間にヤンキースやドジャース(そのリーグ分けにはとまどっていたが)の試合をみた。ローマ字を習い始めたころで選手の背中の文字を見ることも好きだった。名前というのは、ローマ字表記と同一ではないというささやかな事実をしる。当面は、外国というのはアメリカ合衆国のこととイコールだった。

 このようにベースボールも見て育った。古い話だが、憧れの存在としてレジー・ジャクソンがいて、敏捷な猫のようにオジー・スミスは転がり行くボールをグローブでひろった。

 86年には、グッデンとストロベリーがいたメッツは優勝する。そのときの監督は元巨人の選手でもあった。選手たちはその後、かずかずのトラブルを起こすがそんなことは関係なく、ぼくの喜びや感動もミラクルなものであった。

 その後の興味は、オークランドに移る。カンセコとマグワイアという太い腕をもつ2人の時代にはいる。その当時は、薬物なんていうものも知らず、ただ彼らの豪快さに魅了された。これがアメリカの力でもあった。リッキー・ヘンダーソンは今日も盗塁しエカーズリーは髪を乱し投げた。

 その他にも、アメリカの陸上界も凄かった。ぼくが15才のときにLAでオリンピックがあり、カール・ルイスの独壇場ともなった。カルビン・スミスのコーナーの走り方は目立たなかったが理想的でもあった。その後、マイケル・ジョンソンは不可思議な走法を編み出した。なにより、ダン・オブライエンという10種競技の選手のことを思い出す。金メダルがとれることが確実でありながらアメリカでの予選で失敗し、代表に選ばれる機会を失う。その次のオリンピックでは念願のそれを手にする。しかし、それはフェアの問題であった。まだ、あの当時のアメリカにはそのフェアな感覚が根付いていたように思える。その部分が好きでもあったのだろう。いつも、代表選びでゴタゴタする国に生まれてしまった自分としても。

 その憧れを抱いて、かの地を旅する。そこは期待を裏切るような真似はしなかった。サンフランシスコの赤い橋は限りない青空を背景にしてあった。ロスアンゼルスの空はスモッグに覆われているという評判だったが、どこよりも楽園というものを思い出させてくれるような色をしていた。ホテルでビール片手にテレビを見ていると、トム・グラビンというアトランタの左投手はコーナーの出し入れで打者をいらだたせていた。ベースボールはストを行い、消えかかった人気を取り戻そうとインターリーグという交流試合をその年から行っていた。しかし、いちばん人気を戻すのに役立ったのは、日本から来たトルネードだったのかもしれない。彼もその町にいるはずだった。その球場のまわりも通った。

 ラスベガスの大きなホテルの大きな画面では、長谷川選手が投げていた。まだアナハイムと呼ばれていたチームに所属していた。その孤独な戦いを見て、自分も故郷ということを考えないわけにはいかなかった。

 サン・ディエゴという美しい港町もみた。カーメルという有名な映画俳優(最近の活躍に年齢というのは老いと無関係であるのかという根本的なものの謎をかんがえる)が市長になった町も眺める。クラム・チャウダーの味にも満足し、国境を越え、メキシコにも入った。彼らは、もともとは俺たちの土地だと、アメリカのいくつかの場所を返還要求しているのか考えた。北方領土という領地に拘泥するような感じはメキシコ人にはないのだろうか? いつかアメリカに対する愛が消えてしまうことを知らない自分はたくさんの写真もとり、それをいまだに大切にしている。