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繁栄の外で(44)

2014年06月14日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(44)

 文房具としてのパソコン。

 ウインドウズの98を翌年に買ったはずなので、99年に手元にあることになる。子どものころから機械類は好きだったが、説明書を読むのは好きではない。いろいろ手探りで使い方を覚える。一度、故障させないことには、自分のものとして生かされないという馬鹿な信念みたいなものもあった。それだと、確かに困るけど。

 最初はイメージ的なものと友人宅でみたソニー製のものを買った。ノートブックであった。これが将来、文房具の変わりになるであろう予感もあった。鉛筆もノートもいらないのである。計算はコンピューターの得意であることから計算機もいらない。(ほんとうのところは確かにいる)メモを残しておきたければ、それ用のソフトも入っている。

 また近いうちにこれで買い物をすることもできるようになり、多くのひとがそれを使うことも予想できた。自分はこころのどこかで、ライ麦畑のサリンジャーてきなこの体制と隔絶した生活にあこがれる部分があった。そのためにこの道具を使いこなす必要をかんじていた。また、そのような生活に憧れをもたないようなひとも家で買い物をする安易さに流れ行くことも予感できた。ならば、売る側にまわって商売をはじめればよいのだろうが、そこまでは頭はまわらなかった。

 普通に働いていたので、ひとりの時間をつくって操作を覚えた。そのために、友人からの誘いを何回かは断り、眠る時間をちょっとだけ削って、その機械に近付いていった。詳しくなりすぎないように、文房具は文房具であるという位置にとどめ、それなりに手なづけることもできた。

 時間というものがもっとも貴重なものならば、最初の世代は、操作がなめらかにいかなかったり(フリーズです)考え込んでしまうような様子もみられた。だが、いろいろ引っ張りつづけ、4年以上は使った。

 ひとつのものごとと関連付けられるようになって、さらにその価値も高くなってくるものもあると思う。デジカメというものを旅行の際に買い、そのデータをため込むためには記憶する箇所の容量が大きくなければならないことに気付く。そして、2代目のXP時代がやってくる。なにごとも新しいものを使うことは気分の良いものである。使いこなすにはメモリを増やすことも覚え、いろいろな使い勝手の良いソフトをダウンロードする必要も感じた。案の定、買い物もするようになり、重い荷物をもってかえる苦労から開放された。しかし、いまだに電車の隣にひとり分ぐらいの幅を荷物にあてがっているひとにも愛らしさを感じてしまう。手触りでしか判断できないなにかもあるのだろうと思う。自分は、そこから解放されたけど。

 機械のことだから寿命との戦いでもある。いつの間にかスピードが出ないという衰えをみせ、(人間も同じである)同じ失敗を繰り返し、熱を発散させるということもできなくなってしまう。しかし、一度手に入れた自由を手放すことは難しくなる。

 あのときまで、自分は調べ物をどのようにしていたのか、もう思い出せない。図書館に行き、コピーを取り、メモを書き、ノートを汚した。確かにそのようにしたはずだが、何も手元に残っていない。時刻表を改札でもらい、乗り換えも丹念にしらべた。

 でも、もう地図で簡単にルートも分かり、見知らぬ外国ですら、爆弾をピンポイントで落とせるぐらい正確に一般人でも場所が分かる。それは、一本のラインで(ラインすら目で確認できないこともある)つながっているからだ。

 自分は、キーボードの位置をはっきり識別することはできないが、どうやら5本ずつの指は、勝手に押したいイメージをつかんでいる。家計簿などつける気はないが、それも徹底的に行う方法をしっている。ひとに見せるための資料作りも、職場でこなしていった。

 すべては一台のパソコンから始まったのだろう。誰かに手紙を書き、意思が通じないことも知っている。友人が旅した土地を追体験できる方法もある。世界は狭まっているのかもしれないが、人間の可能性は、果てしなく拡がって行くのだろう。

 玄関のチャイムが鳴り、荷物が届く。自分は数回、右手を使っただけかもしれない。16桁の自分の預金の身代わりの数字が、ぼくの代わりに財布をひらき支払ってくれたのかもしれない。しかし、ひととの間はどうしてもアナログがうまく行く。