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物語の連鎖
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繁栄の外で(38)

2014年06月06日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(38)

 繁栄の外にいることを忘れてはならない。

 自分の勤めているところに定期的に窓ガラスを清掃するひとが来た。狭いところなので一人で充分でもあり、こちらもひとりでいることが多かったので、きれいになった後に多少の世間話をすることがあった。そこは平日にも休みがあり、それに合わせて窓ガラスを清掃する日にちも決められていたのだろう。

 ある日、その休みの日にほかの場所を清掃しに行く仕事があるので「君もいって小遣い稼がない?」と誘われる。人手が足りないことだし、ぼくのことを見た目にも信用できそうだしと簡単な気持ちで言っただけだろう。特別な約束があったわけでもないが、その誘いをぼくは簡単に断ってしまう。幼少のころの兄の言葉「金で動くような人間にはなるな」という宣告の言葉は生きていたのかもしれない。いや、ただの根っからの怠け癖が出ただけかもしれない。はっきりとした答えは分からないが、どちらでもあるのだろう。

 いまなら、面白そうだしやってみて損はない、という気持ちになるがそのときはなぜか躊躇した。躊躇をすること自体が、自分の幅を狭めてしまうことが分かっていながらも、その狭さのなかに安住していた。

 その狭さには、本と音楽(JAZZ)と映画だけが備わっていた。自分はなぜ、あんなにも一生懸命取り込もうとしていたのだろう。といって、記憶とは不確かなもので忘れてしまうこととの戦いでもある。だが、人間が忘れることがなかったら、自分に与えられた傷にどう対処してよいかも分からなくなる。その三つが自分がたどり着いたゴールだと思っていた。ある程度までその三つはぼくを豊かにしてくれ、ものごとの考え方の根源的なヒントともなってくれた。

 世の中には素晴らしい革新的な一握りのひとがいて(チャーリー・パーカー)その後を追うように才能を薄めたような人たちが、自分も天才であると錯覚し、実力不足を見抜かれ、ある人は敗れ、ある人は生き方の方向転換をして過去の行跡(自分のみっともなさ等)を握りつぶす、という考え方ができるのも、ジャズという音楽をきいたからだ。結局は、最終的にそういう考え方ができるようになったかもしれないが、その音楽を演奏する人々について熟考すると、そういうことが理解できやすくなった。

 最近でも幕末の長州藩を考えるときに、このチャーリー・パーカーの法則が生きていることを知る。

 なので、バイトのお手伝いという新しいチャンスを払いのけ、自分のなかにこもり、休日にはその三つのうちのどれかを楽しんでいたことだろう。その楽しみには魅力があった。

 もう廃れていたレコードのプレーヤーを新たに買い込み、日常的に使うためにポータブルのMDプレーヤーも買った。あまりにもマイナーな映画を見て、その道中にはヘッドホンを耳に突っ込み、ブレッドという70年代のグループの音楽を聴いた。誰を受け入れることもなかったし、誰かに認めてもらいたいという必要もなく欲求もない幸せな日々だった。20代の半ばを越え、やっとそれなりなものだが自分のサイズに合った人生をつかみかけようとしていた。そんなに、ハンサムでもないし、話す能力も限られているし、それでもそこそこ楽しい趣味もみつけたし意外とトータル的には間違っていなかったんじゃないの? と自分の人生に合格点を出そうとしていた。

 週末には気の合った友人たちと酒を飲みながら、腹をかかえて笑ったり、また逆にはたまに笑わすこともできた。それでいながら初対面のひととはこころを開放することもない、相変わらずの狭さのなかに生きている。だが、多くの人はそれを友人との交友ともいうし、気の置けない仲間とのひと時とも言うのだろう。

 同級生やその友達の結婚相手(あまり異性を意識させることがなかった)と5、6人で近所の居酒屋で飲んでつまらない冗談をいっているときの自分が好きで、この状態が過去を通しても、「自分らしさ」というレッテルを貼り、標本にしたいぐらいの見本であり郷愁感をさそうものだ。

 このような日々が過去にあった。飢える心配もないぐらいには財布の中身も満たされ、映画を見てCDを買い集めるぐらいの小遣いもあった。自分には上昇志向は欠けていただろうが、自分の能力をかんがみればこれぐらいの高さにいる自分がちょうどぐらいにも思えた。もう自分がなにものであるかという悩みも、いつのまにかどこかに置いて来てしまい、自分がみつけた安住の地で静かに暮らすことになっていた。良くもないが悪過ぎもしない選択だった。