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繁栄の外で(53)

2014年06月23日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(53)

 子どものころから知っている幼なじみが結婚することになる。もうかれこれ四半世紀の付き合いだ。こうした義理のある関係が残っているのは、さらにもう一人だけだったが彼はまだ先になりそうだった。そういいながらも、自分にもその予定はなかった。

 ある秋の晴れた日に地下鉄の表参道駅で降り、青山の方に歩いていった。小じんまりとした場所でそれは行われた。友人というのはやはり持つもので、ぼくのために辛口のスパークリングワインが多めに用意されていた。別の友人の披露宴でそれが好きだったことを覚えていてくれたらしい。ぼくは、それを飲むためにいったようなものだ。他にもその新たな関係を見届ける必要が、当然のようにあったが。

 過去に、同じような悪いことをして友情を深めたひとたちもいた。彼らも、それ相応の容貌を身に着けていた。時間は、平等だと教えてくれるサンプルがそこにはあった。それに反逆できるほど、もう若くもなかったが、未来を書き換えられる力が残っていないと考えるまでには年老いてもいなかった。それぞれが考えていた30代と一致しているのかは分からないが、そこそこの人生と幸せを彼らはつかんでいるようだった。

 翌日から彼らは、新婚旅行に行く。タイだか、シンガポールだかのあの辺だ。ぼくも同じようにその日から2度目のイタリアに行くことになっていた。最初の経験から2年が経っていた。今回は、ヴェネチアが旅程に含まれ、自分がそこに足を踏み入れることなど想像できなかったが、となりの町から船でそこに到着した。本物の人生には、いくらかの余裕のある金銭があれば、楽しいものに化けてくれるもののようだ。潮の関係なのだろうが、ナポレオンが世界一きれいな広間(応接間という感覚でしょうね)と言ったらしいサンマルコ広場の路面は少し濡れていた。そこには予想もできなかった美しさがあり、自分がその後、運河というものに興味をひかれる原動力ともなった。

 それから、またもやフィレンツェに行き、ローマにも向かった。友人たちとは別れ、違うホテルから専用の観光バスでポンペイにも行った。ナポリを経由し、西暦80年ごろの火山噴火で急激に滅びた町は、掘り返されそのままの形を当時の復元ではなく見せた。陽射しも暑く、秋という感じはしなかった。もっと南にも向かいたいが、限られた日数では、それも難しかった。

 別の要素として、このときに初めてデジタル・カメラというものを購入した。それ以後は、メモ代わりに写真を撮ることが習慣化され、頭の中に記憶されなくても(強い衝撃しか残らないという不確かな要素が脳であるかもしれない)コンピューターのどこかに保存されている。それを、確認すれば大体のことは思い出せるようになった。だが、頭の中だけにはある現実と微妙にずれた映像をも自分は大切にしたいと思っている。

 結婚した彼らには、それから2人の子どもが生まれた。彼らは保育園に行き、彼らの両親はともに働いてマンションや車のローンを返済する。そのような普通の生活が自分には実際の手触りとして理解できなかった。それよりも夏目漱石の三四郎のようなものを読んだり、書いたりしたいと思っている自分がいまだにどこかにいた。そして、いくらかのお金が手元にあれば、ヨーロッパに行きたい衝動と戦うことになる。そして、その戦いにあえて負けることをよしとする。

 頭の中では、渋谷に行く程度の感覚で、ヨーロッパに行きたいと思っている。肩肘張らずに、ちょっと電車で1時間ぐらいの距離を移動する感じで、丁寧に見ることから漏れた町を塗りつぶしていきたいとの願いがあった。そのためには、家族や子どもという、とてつもない宝であろうものを自分の実際の人生と比較して手に入らないかもしれないと考えた。それは、それで仕方がないことだ。車のトランクの容量は限られており、ぼくにはぼく用の荷物があるのだろう。

 しかし、もし未来というものが未来としてきちんと機能しているならば、その子どもたちには、ありふれたながらも幸せが訪れて欲しいと考えている。ぼくが幼少のころに育った町に彼らはいた。そこで大きくなるという幸福感をぼくはもっているし、不思議なことにそこで育ったひとはなぜかその気持ちを共有している。そのことが、少し離れた土地(ほんの少ししか離れていない)にいると身にしみて分かるものである。彼らも、25年以上も付き合うことになる友人たちを手に入れることができるのだろうか? だが、それもぼくの問題ではなく、小さな魂の問題である。