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繁栄の外で(51)

2014年06月21日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(51)

 2001年の6月中旬に新たな職場に勤め出す。そのことは後にして、それから数ヵ月後の9月にはニューヨークにおいて壮絶な事件が起きる。世界は、最終段階に突入したのだと思ったが、やはり早合点だったかもしれない。しかし、その2つの高層ビルが倒れる瞬間をみて、新しい世紀の運命は決まってしまった。前世紀からの暴力をきっちりとした形で受け継いだのだ。それをさらに発展していくのだろう。

 ぼくにとっては、もっとも重要なこととして、その翌月に友人たちとイタリアに行ったことが記憶に残っている。たぶん前と後では、違う人間になったといっても過言ではないかもしれない。

 友人のひとりがバリ島が好きで数回行って、また何度も行きたいという印象をもっていた。けっきょく3人で行ったのだが、自分はどちらでも良かったが、行き先はなぜかイタリアになっていた。ぼくが、その後どれほどはまるかなどはその時はしらない。ただ、数日休んでリフレッシュしたかっただけかもしれない。資金は、24ぐらいから28才ぐらいまでに貯めたお金が残っていた。

 オランダの航空会社の飛行機に乗り、経由地のアムステルダムで時間をつぶす。警備もものものしく、ぼんやりと眺めているCNNのニュースでも、ニューヨークへのテロ事件がたくさん報道されていた。さらに自分も、なにかの事件に巻き込まれてしまうのではないかという不安と恐怖感があった。

 そして、そこから数時間でフィレンツェに着いた。町並みというものを、どのように組み立てればよいのかという理想像がその町にはあった。広場があり、ミケランジェロの彫刻が雄大にたっていた。ドゥオモは限りない美しさで、馬鹿みたいに上を見上げた。写真の枠に入らないほど、それは大きいものでもあった。

 電車に乗り移動し、ピサの斜塔を見た。それは、画面で見るよりもずっと傾き、いつ倒れても良い状況であるように思われた。まわりの芝生も美しく、空間的にきれいに散らばっている古代の建物が、美しさをより一層ひきたてた。もちろんその斜塔を眺めながら飲むワインも限りのないおいしさだった。

 帰りには、いくらかの小さな都市を欲張りを起こして(大体、最終的には計画より欲張りになる)みて回りたかったが、反対の電車に乗り込み、目的地ではない終点にぶつかってしまった。電車の切符を間違えてしまった、と正直に告白するもイタリア語しか話さない車掌さんは、ぼくらのミスに目をつぶってくれた。

 その後、ローマに行って(車内で日本の女優さんを見て、あまりのきれいさに衝撃を受けるも、これはまた別のはなし)遺跡を見たり、バチカン内の美術館にはいったりした。

 いくらかの変化を分析的に綴ると、先ず自分にはそれまでは歴史という感覚自体がなかった。知っているのはアメリカの50年代以降の、映画と音楽とそれに付随するものしか知らなかった。系統的に歴史を学んでいないという事実をまざまざと自覚した。世界の歴史は深いのだ。ポロシャツと半ズボンの(実際にそういうひとがいるけど)国とは歴史の距離も深さも違うのだ。そこから、ぼくは西洋史というものに興味をいだくようになった。

 メディチ家という資産家は、そのお金を利用してルネサンス芸術の立役者になった。日本のバブルという経済の繁栄でいったいなにを残したのだろう。そこには一人のダヴィンチもいなかった。もともと個性を良しとしない国民性であるから仕方のない部分もあるが、それではあまりにも貧しすぎた。
 あるひとが言う。日本はお金があるというけど、イタリア内にある芸術品を一気に売りさばいたら、どれほどの金額になるか知らないでしょう? と。それは紛れもない事実であった。そこが、簡単にいえば文化かもしれなかった。

 あとは、「ラテン気質」の話である。レストランで隣で話すひとたちを観察していると、彼らの脳裏には、「以心伝心」や「不言実行」などの日本的な美的な感覚がまったくのこと欠如されていた。言われなかった言葉は存在せず、口に出さなかった愛情の言葉なども無いようであった。すべては、虚しかろうとはったりであろうと、すべてを言語に変えて言葉にした。そこにいる夫婦たちや友人たちは言葉をつむぎだし(能ではなくオペラの国であるわけだ)「ふろ、めし、寝る」的な言葉の簡素化は絶対的に見当たらなかった。

 自分は、それを見ていくつかの命令中枢が組み換えられていく。大豆の遺伝子をかえるようにぼくの中のなにかもかわっていった。

 意思を伝えるために言葉を用意し、見知らぬひとにも警戒感を解き話しかけ、お世辞を思いつき、楽しい話をきけばこころの底から笑うようにした。

 そのような組み換え作業はいくらか効をそうし、長い時間はかかったが、これ以後に最初にぼくに出会った人々と、ぼくを過去から知っている人々の印象はいくらか違うものになった。若いときの内気さと(友人なんか数人以上にひろげないという契約をしていたかのように)狭量さはいくらか消え、一度も深く悩んだことがないような能天気におもうひとさえ出てきた。そのときに無性に否定したい気持ちがあるが、それをいくら努力しても彼らは聞く耳を持たなかった。いや、いまだに悩める人間です。

 また飛行機に乗り、日本に帰ってくる。だが、もう一度行きたくて仕方がない気持ちが膨らんでいる。なにが、ぼくの中でそんなにも引っかかり、なにがくっついてしまったのだろう。32才が人生の半分だと考えれば、それは時期的にも丁度良いときに経験したのかもしれなかった。


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