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繁栄の外で(35)

2014年06月02日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(35)

 話が前後するが、音楽のことも書いておこう。

 自分が成長期に聴いていた音楽が一番だろうが、当然のごとく耳には自然と入りながらも、あまりに生ぬるく大人になってからは意図的に聴かなくなってしまった。それより、古い音楽をさかのぼって聴くようになった。

 60年代のロックから、そのギターやドラムという分かりやすい音のバックにはジョン・レノンのハーモニカが隠し味としてあり、ブラスのアンサンブルを取り入れたロックも出てくる。そうすると、モータウンやオーティス・レディングなども聴きたくなってくる。次第に深みにはまるようにブルースに移行し、最後はジャズにぶつかった。文字としての言葉を愛する自分は、歌詞としての言葉を必要としていないのかもしれない。

 失うと同時に手に入るものもある。

 アート・ブレイキーというジャズ・ドラマーが1990年10月16日に亡くなる。ぼくが、21才のときだ。もちろん全盛期は過ぎていて、生で聴く機会もなくなる。しかし、ラジオでは(その当時のラジオはいまよりガッツがあった。聴衆におもねっていなかった)全盛期の音楽が追悼番組でながされていた。それ(追悼の放送)を、リアルタイムで聴くことにより、自分のジャズに対する愛がひろがった。しつこいが、当人はもうここには存在しなかった。古臭い表現を借りれば、黒い円盤だけがしっかりと残っていた。

 次に世を去るのは、マイルズ・デイヴィスの番だった。1991年9月28日。ぼくは、22才になっている。同じようにラジオでは盛大に追悼されていた。もちろん、そうされて良い過去を彼はもっていた。あまりにも神格化されるきらいはあるが、過去の音楽(全盛期も一般的なひとよりあまりにも長い)を探ることによって、その冷酷すぎる音色は都会で生活する人間のリアルな感情のようであることを理解する。そして、ラジオでは物足りず何枚かの銀の円盤を買った。

 アントニオ・カルロス・ジョビンというボサノバの名作曲家が1994年12月8日に亡くなる。ぼくは、25才だ。スタン・ゲッツがジャズとの親密な関係から浮気するようにその軽やかな曲をサックスで吹いた。同じ過程を通過せざるを得ない自分は、ラジオのスイッチをつける。あまりにもたくさんの曲が努力の形跡なしで、この地上に産み落とされたことを知る。

 そして、忘れられない一日がある。ぼくは20代前半だ。五反田のホールにモダン・ジャズ・カルテットがやってきた。前日から自分は発熱し、行こうか悩んでいた。しかし、行ってみれば体調もどうにかなるだろうと軽い気持ちででかけた。演奏がはじまるまでは意識も朦朧とし深く椅子に身をしずめるしか方法がなかった。だが、はじまってしまえば、そこには現実か桃源郷にいるのかが分からないほど、音楽的な達成があった。そこに、ギタリストのローリンド・アルメイダ(一緒に演奏しているレコードは自分の愛聴盤の1枚でもあった)が加わり、アランフェスを弾いた。たぶん、過去の一日をもう一度だけ再現することができるなら、もう少しまともな体調であの場に座っていたいと思う。

 しかし、全盛期を支えた音楽も、徐々に古いマニュキアがはげるようにひとりひとりといなくなってしまう。それもまた運命である。ただ、人生の貴重な真理とおなじように、その場その場の一瞬を大切にしなければならないという事実を知るのみだ。明日は、来ないかもしれないし、明日には誰かはいなくなっているかもしれない。優しくするのは、いまなのだ。

 思い出は残りながらも、モダン・ジャズ・カルテットの4人のメンバーはいなくなる。ぼくはその後、30代になったときに働いていた職場で音楽に詳しい(実際に自分で演奏もする)ひとに出会い、そのひとからいつも不思議なことに、「あのミュージシャンが亡くなったけど、知っている?」と尋ねられることになる。その人が、不幸の使者のような気持ちをいだく。ほんとうはそんなことはなくて、ただ音楽(古いものも、新しいもの)を愛するが故の損失に痛みを覚えてしまうのだろう。君やぼくのように。

 音楽家を失って、悲しむならばもっと近しい友人たちを失った悲しみも比例どころか倍増するものなのだろう。その時期が来る前に、ぼくらは関係性を強化しておく必要があるのだろう。

 オーネット・コールマンは生きている。ソニー・ロリンズもサックスを吹いていることだろう。ストーンズも踊っている。ぼくが、思春期に見ていた黒い音楽家は白くなり、ついこの前亡くなった。これも時代なのだろう。