爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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繁栄の外で(39)

2014年06月09日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(39)

 離陸も順調に終え、激しい揺れも震動もなくなり、あとはコンピューター制御にして航路をすすめばよかった。ときには雑誌を読み、ときにはイヤホンで古臭い音楽や落語を聴く。そして、いつの間にかうとうとしている。そのような過程に自分の人生もはいっているはずだった。

 ある日、そのような過程にありながらも自分が神に見つけられてしまっていることを知る。もしそんなことが自分の身に起こるならば20代の前半ぐらいまでに起こってほしかった。しかし、そのときには見つけてはくれず、やっと自分のそれなりの人生をつかみかけたところ、やぶからぼうに見つかった。缶蹴りで隠れ場所をしくじった少年のように、自分はその視線に無防備だった。そして、無防備がゆえに策を講じることもできず引きずり出される。そして判断をくだす。それも仕方がないじゃないかと。次はこっちが鬼の番で、探すほうに廻るだろうことも理解できる。

 宗教というものをヤブ医者ぐらいの観念で考えている人も多くいる。もっと良い医者もいることだし、なにより病気(精神面でも)にかからないことや、予防が大事なんだと。そのようなひとに何も勧めないし、なにも言いたくない。だが、あの感覚、「見つけられた」ということは当人にしか分からないだろう。それゆえに、ひとの首根っこをつかんで「信じてくれ」とも言える立場にないことを知る。だが、冠婚葬祭をするための宗教やファッションとしてのクリスマスをしているぐらいが、生きる上では中庸でちょうど良く、賢い方法でもあるんだろうな、とさびしいながらも理解する。

 それで通俗的な本と共存しながらも(自分はいままでの過去をすべて投げ出すわけにはいかなかったのだろうか?)聖書を読む。数人のその中の登場人物に感情移入する。

 旧い約束。鯨のなかのヨナ。ぼくは、ポール・オースターの優れた小説でも知っていた。そこでは、ピノキオと同系列で比較し書かれていた。

 ヨナは神からの仕事を命令されるが納得できず逃げることにする。この人物のあまりにも人間くさい性格がよくあらわれている導入だ。

 ヨナは逃げる途中で船に乗っている。あまりにも揺れがひどいため、誰かこのなかの一人のせいだと船員のなかでの犯人探しがはじまる。もちろん、物語上ヨナであることが明らかになる。ヨナは海中に放り投げられる。

 そこで意外なことが待っている。大魚が口を開け、彼を飲み込む。その中に三日三晩とどまり、彼は思いのたけを告白する。それが次の章全体で説明される。簡単に俗っぽく言えば(こういうことが便利である)「分かりました、あなたからは逃げられませんよ。そのあなたとの約束を実行しましょう」といくらか捨て鉢な態度を見せ、彼はそとに吐き出される。これまた、ピノキオのようにである。(ポール・オースターはそう書いている)

 彼は触れ告げる。「神は怒っていらっしゃいます。悔い改めてください。いままでの生き方を変えてください」これはそこらの街頭演説と同じかもしれない。私たちは、それを聞くとも聞かぬとも判断しない状態で通り過ごすことを憶えている。

 しかし、ヨナの言葉には効果がある。彼ががんばればがんばるほど、悔い改めるひとが出て、当初の問題であったニネベという町を滅ぼす、ということは実行されなくなってしまう。ヨナは、ふて腐れる。これまた人間くさい感情の表し方だ。「最初から、こうなると思っていたんですよね」という態度を隠しもせず、舌打ちをするかのような感じでへそを曲げる。

 彼は小屋を作り、日陰をつくってくれるひょうたんの下でなにもせずに座っている。いらだちはまだ残っているのかもしれない。神は、そのひょうたんを枯らしてしまう。彼は強い太陽を浴びる。

「お前が、一個のひょうたんですら惜しむのに、わたしがニネベの都市の住人を惜しむのは間違っているのか? 悪いことから立ち直ったことだし、都市を滅ぼすことを躊躇したのは間違いなのか?」

 ヨナは、ぐったり疲れながら、「たぶん最初からこうなるとおもっていたんですよ。あなたは優しいかたですから」といって、唐突に終わる。(もちろん原文はもっと高貴です)

 ヨブという不幸のどん底におちるひとのことも書きたかったが、やはり何事もこれぐらいでも充分なのかもしれない。