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壊れゆくブレイン(26)

2012年01月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(26)

 娘の友だちが家に遊びに来ている。ぼくは、別の部屋でテレビのスポーツ番組を見ていた。その映像に集中していたはずだが、それでも、彼女らの楽しそうな会話がときおりきこえてきて耳をそちらに傾ける。だが、内容を理解する前に彼女らの笑い声でかき消されてしまう。雪代はそんな騒動におかまいなしに自分の仕事をしている。

「ひろし君、細かい字見えにくくなった?」
「まだ、ぜんぜん」
「そう。いやになるね」
「ずっとそうなの?」
「たまにだけど。疲れてると」
「じゃあ、気分転換にでも、外にいく? ずっと、仕事の数字を見比べてても・・・」
「そうだね」彼女はノートを閉じる。そのうえにボールペンを置いた。「広美、ママたち出掛けてもいい?」
「いいよ。行ってらっしゃい」と、部屋の扉の向こうから声だけが聞こえる。
「危ないことしちゃ駄目だよ」
「分かってる」それから、また笑い声がきこえた。

 ぼくらは外にでた。秋になりたての風はどこかぬるく、肌に湿っぽい感触を与えた。ぼくらは外にでたがこれといって用はなかった。でも、このように特別な計画もないまま外出することはこのごろよくあった。ぼくは子育てに参加しないまま、大きな娘ができた。右も左もわからない小さな存在を丹念に成長させたという実感や経験ももちろんなく、彼女はすでに独立する気配をみせていた。それだから、ぼくと雪代は自由な時間がもてた。

 ぼくらはある店に入る。若い頃からきていた店だ。ジャンルに拘りがなく、いつも洗練されたピアノ曲がバックに流れていた。店主は一度、病気をして店を閉めていたが、退院してからまた開けた。それを経過したことを証明するように少しだけ身体が細くなっていた。

「いらっしゃい。いつもの紅茶とコーヒーで?」
「お願いします」
 ぼくはピアノの音に耳を澄ませている。軽やかなタッチが練習の連続の事実を聞き手に要求するかといえば、まったく反対で、このひとはいつでもこうなのだ、という印象を与えていた。ぼくは店主のこともそういう風に見ていたことに気付く。しかし、一回り小さくなった身体を見ると、風雪に耐えるということを教えているようだった。
 その店主がお盆に2つの飲み物をのせて運んできた。
「お嬢さんは、きょうは?」
「家で、お友だちとお留守番」
「そうですか。もう大人になっていくんですね」
「自分だけで、大人になったみたいな顔をして」その言葉の真意とは逆に雪代の口調は優しげなものだった。何度もいうが、ぼくはその途中経過に関与していない。
「ごゆっくり」と言って、彼は定位置であるカウンターの奥にもどった。音楽も終わってしまったようで、次のCDにかわった。
「ここまで育てるの、大変だった?」
「あっという間だったから。だけど、途中からひとりになったし、仕事もあるし、ちょっとしんどい時期もあったかな。ねえ、自分の子どもがほしい?」
「いや。でも、あの子も自分の子どもと思ってる」
「質問の仕方がよくなかったね」

「本意は分かってるよ」ぼくと前の妻である裕紀の間には子どもができなかった。ぼくは、もしそういう存在がいて、それから、彼女を亡くすという事実にぶつかったら耐え切れていたのだろうかと考えている。ぼくは、より一層悲しみ、子育てに手がまわらなかったのかもしれない。そうすると、いまの立場が、やはり自分にはしっくりといくようだった。
「ここのコーヒーは、やっぱりおいしいね」
「疲れもとれる?」

「でも、好きでずっとやってきたことで、疲れてるんだから」彼女は微笑む。ぼくと彼女が接していない期間に何が起こり、ぼくはいずれそれを理解し尽くせるのかと考えている。だが、ぼくらは軌道がもどるようにふたたび会った。むかし以上にお互いを尊重し、あるときは労わり合った。それだけでも充分だともいえた。ひとりの人間のすべてを把握し尽くすことなど不可能なのだ。それは人間の役目ではないのかもしれない。ただ、こうして時間を共有することだけで満足するべきなのだろう。ぼくは紅茶の香ばしいにおいを嗅ぎ、そう思っていた。
「前の雪代もそうだったけど、いまもぴったりと自分らしいよ」
「飲みすぎのひろし君は、自分らしくなかったよ」
「安定しているけどね、いまは」
「もうあんなに飲みたくない?」
「飲む必要もなくなったから」
「そう、良かった。広美、お腹すかせてるかな」

 ぼくらは会計を済ませ外にでた。この店がずっと残ることをぼくらは望んでいる。それは、ぼくらの思い出がここに多くあり、その証明の機会として、ここに在りつづけて欲しかったからだ。

 それから、スーパーに寄り、広美が喜びそうな献立を考えた。袋に入った荷物をもち、ふたりだけの時間が名残惜しく、少しだけ遠回りして家に向かった。先程までの湿った風はどこかに消えからっとした空気に様変わりしていた。そうなると薄着である自分らに気付く。その確認のように雪代はちいさなくしゃみをした。それを合図にぼくらはいつもの通りに戻っていった。


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