爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(31)

2012年01月31日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(31)

「うちの夫が会いたがってるよ」
 夜、泊まっていたホテルで寛いでいるときに携帯電話が鳴った。電話の相手は幼馴染みの智美だった。彼女の夫はぼくのラグビー部の先輩でもあった上田さんだ。
「連絡しようと思っていた」
「まだ、いるの?」
「あさっての午前まで」
「じゃあ、明日の夜にでも、どう?」彼女は受話器をふさいで、誰かに話しかけている。多分、上田さんだろう。「明日の昼にでも、また連絡するって。ちょっと待って、かわるね」

「ひさしぶりです」
「どうだ、東京?」
「疲れました」
「明日の夜、どっかで会おう。場所は、昼ごろに連絡するよ。笠原に決めてもらうから」
「あの子も来るんですか?」
「だって、お前ら親しかったじゃないか」
「そうですね」

 電話を切り、ぼくはベッドに寝転がる。そのまま目をつぶり、自分の過去を振り返る。だが、ただ思い出が布団のように自分のうえに覆いかぶさるのをそのままにしていただけだ。上田さんの会社の後輩だった笠原という女性。ぼくらと同じ地元の別のラグビーチームの高井という男性と結婚した。そのひとを紹介したのはぼくだった。ぼくと裕紀は家具を見に行き、そこの従業員として働いていた彼と知り合った。よくよく話せば、地元も同じでラグビーをしていた。彼はぼくの当時を知っており、そのことで会話が弾み、親しかった笠原さんに紹介した。

 それから、何年後かにぼくは裕紀を失い、いつも飲みすぎていた。いない女性の暖かい肉体を得られないため、ぼくは代用をさがす。そのひとりが笠原さんだった。ぼくは、一度だけそうした関係をもち、それ以降もう会ってもいない。彼女がどう思っているかも分からない。虫に刺されたぐらいの記憶かもしれず、かすり傷程度の思い出かもしれない。だが、自分が間違いをしてしまったような後悔のうずきは、消えないまま残っていた。

 煩悶したままでは埒が明かないのでとりあえず服を脱ぎ、シャワーを浴びた。テレビを着け、もう1杯だけビールを飲もうと缶ビールを開けたが、そのままグラスいっぱいの状態を保ったままで眠ってしまったらしい。

 仕事が一段落した翌日の昼下がり、ぼくは上田さんから電話をもらう。予約した店の近辺をあたまに浮かべる。少しだけ時間がかかったことがぼくが東京から離れた時間に思えた。そして、雪代との距離も考えている。彼女はいま何をしているのだろうか?
 その日の業務も終わり、明日の帰る時刻を告げ、ぼくは会社をあとにする。10時ちょっと前の電車を予定している。ぼくは雪代や娘の広美の顔を思い浮かべている。ふたりは、どれほどぼくを必要としているのかを考えている。そして、裕紀はそれ以上にぼくを必要としていたかもしれないという仮定をもてあそんでもみた。

 ぼくはそれから地下鉄の吊り革をもったまま揺られ、待ち合わせの場所に着いた。すでに3人がいた。智美と上田さんと笠原さん。
「お、元気そうだな。ちょっと太った?」上田さんが言う。その言葉はぼくの安定した生活を意味しているようだった。
「幸せ太り」ぼくは自分の身体を見下ろす。「元気だった、笠原さんも?」
「ええ」
「彼女、子どもができる」上田さんが状況を教えてくれた。
「ほんと、おめでとう?」結婚していればこういう成り行きも当然のことだったが、ゆり江といい過去を知るぼくには連続した驚きが追いかけてくるようだった。
「だから、お酒を飲まないけど、許してね」彼女は笑う。それを証明するようにテーブルにはオレンジ色の液体がグラスに入っていた。

 ぼくの注文したものがきて、全員のグラスがぶつかった。
 ぼくは自分の生活について話し、笠原さんも高井君との話題や、病院にいったときのこと、さらにはそれを告げられたときの彼の様子などをくわしく話した。ぼくは、そのようなチャンスや機会を裕紀にも与えてあげたかったと思っている。そこで、トイレに立ち裕紀のことを思い出そうとしたが、少し、その表情を取り戻す時間が遅れた。ぼくは、写真を見ないことには彼女を思い出せなくなってしまう不安を感じた。それは、衝撃だった。あんなにも好意をよせた人物が遠退いていく。しかし、それは自分が酔ったためだと判断しようとした。明日にでもなれば、自分のこころには、彼女が鮮明に戻るのだろうと自分を安心させた。

 楽しい時間は早く過ぎるようにできている。ぼくは大いに笑い、なんでも打ち明ける友人が、場所はすこしだけ離れているにせよこうしている事実に感謝をしていた。身近なところには妻がいて、東京には友人がいた。ぼくは、結果として恵まれていたことを再確認する夜だった。

「わたしたち、これで帰るね。笠原さんを送ってあげて」そう言って、智美と上田さんはタクシーに乗り込んでしまった。
「子ども、ほんとによかったね。覚えていたら、あれだけど、前に酔ってひどいことをした。ごめん」
「忘れてるかと思っていた。さっきのあの店の様子からして」
「忘れるわけないよ」
「あれは、絆創膏を痛がってた男の子に貼ってあげたの。そう、いまでは考えている」
「そのお陰か、もう治ったよ」
「じゃあ、良かった」
「彼は?」
「知らないよ。わたしも、思い出さない」彼女はこちらを振り向く、夜の町の照明が彼女の黒い髪に反射される。「でも、たまに思い出す」
「やさしかった。みんな、やさしかった。君はとくにやさしかった」ぼくは、その髪に向かってなのか、それとも、自分のこころに対してなのか分からないままそんな言葉を口にしていた。