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壊れゆくブレイン(14)

2012年01月10日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(14)

 ぼくは、後輩たちのラグビーの試合を観戦していた。雪代と娘は他に用事があり、ぼくはひとりでスタンドにいた。たまに、このようなひとりの時間を見出すことを自分は必要としていた。夢想と現実の狭間のような時間が。いまは、それでグラウンドの群集を見ていた。向う側で走っていた時には分からない何かをぼくは持って掴んでいたが、それでも、それよりあのグラウンドで走り回れる状態を望んでいた。

「帰ってきてたんだね。それに、ここが似合う」
 後方から声をかけてきたのは、ゆり江という女性だった。ぼくは、過去の一時期、短い間だったけど、彼女と交際した。それは表立って言える関係でもなかったし、とくに裕紀の幼い頃からの友だちである立場上、ぼくと裕紀が結婚している間は、隠し続けていた。

「君も、見るんだ」
「たまにね。わたしの好きだったひとも、ここで走っていた。再婚したんだね」
「ごめん、伝えられなかった」
「いいよ。三番目の女だもん」
「でも、君が、ゆり江が立ち直るチャンスを呉れた」
「わたしには、チャンスがないのに? 嘘だよ。わたし、本当は夫と凄く仲がいいの。これも、ひろし君に隠していたんだけど、事実は事実だからね」

「裕紀のことも、君のことも忘れることは決してできないんだよ」
「別に、言い訳はいいんだよ。でも、帰ってきたら真っ先に連絡してくれると思っていたのに、待っても、来なかった」
「自分でも酷い状態だったと思うから。酒におぼれ、毎日、飲み明かしていた」
「それでも・・・」
「君らの身体を利用してつかったような反省も・・・」
「君らって言った? いま?」
「言った」
「ほんと、ひどいね」
「ぼくは、愛情をもって接することが大切だと、いまは気付いている」
「それでも、いい。こうして、ラグビーを見られるぐらい元気になったんで。それにしても、奥さん、優しい? 子どもはどう?」

「なついてくれている。雪代も、かなり大人になって、ぼくらがぶつかるようなことは減ってきたから」
「良かったね。わたしも、喜んでいる」
「ありがとう。何か飲み物でも買ってくるよ」
 試合は、ちょうど半分が終わり、グラウンドには誰もいなくなっていた。ぼくは山下がチームのメンバーにロッカールームで叱咤する声を聞いたような気がするも、それは、もしかしたらぼくに向けられるものかもしれなかった。自動販売機で暖かい飲み物を買い、それを両手につかんだままぼくはまた階段を登り、日射しのしたに戻った。さっきのゆり江の姿は幻影で、ぼくが作ったイメージに過ぎないと思っていたが、やはり、そこにはゆり江の華奢な後ろ姿があった。
「ありがとう。これ、好きなんだ。好み、覚えてる?」
「まあ」
「雪代さんの子どもって、どっちに似てるの? わたし、失礼?」
「全然。雪代に似てるけど、体力とか運動神経とかは、島本さんから譲り受けていると思うよ。何をやらせても素早いし」
「そのふたりは、このグラウンドで何年も前に戦っていたんだもんね」
「そうだね。人生は早い」
「ひとりの女性のためにも争ったし」
「ぼくが勝った。嘘だよ」
「わたしは、負けた」彼女は、にっこりと笑う。このような笑顔を作れるひとがいるのだというような驚きを与える笑顔だった。ぼくは、そして、裕紀や雪代とも会わなかったら、彼女を選んでいたのだ、といういつものずるい結論に達する。そのずるさが自分を構成してきたのだ。立ち直るために生きた暖かい身体を必要として、それが過ぎれば連絡も絶ってしまった。「どっちが勝つかね?」

「何が?」
「試合」
「このまま、我が母校が勝つよ。勝つことが習慣になってしまったチーム」
「でも、維持するのも大変なんでしょう」
「何でも、そうだよ」
「あれ以降も、ゆうちゃんのお兄さんたちとは、縁がないの?」
「ない。ぼくを不幸の源だと思ってるよ」
「全員じゃないから・・・」
「だと、いい。ぼくも新しく自分の娘が、そんな目にあったら、多分、許さないかもしれない。若い頃に捨て、もう一度、付き合ったと思ったら、不幸な結末をもってくる男なんて」
「ただ、不運なだけじゃない。いまでも、ゆうちゃんのことを温かく思っている」
「ゆり江の方が、その量も多い」
「幼馴染みだから」

 ぼくらは試合の攻防を見ながらも、自分らの過去の風景を眺めて話していた。それは遠くになったり、近付いてきたりもしたが、ぼくらの手には戻ってこない内容だった。写真のなかに納められてしまったように動かすこともずらすこともできない。ただ、客観的に眺め、感想を言い合うことしかできない。それでも、大切なことには変わらなかった。

 試合は予想どおりに終わった。ぼくは監督の姿を探し、彼のほっと安堵を伴った表情を見た。彼は、これをずっと繰り返していくのだ。その疲労と喜びをぼくは考えていた。

「じゃあ、帰るね」ゆり江は立ち上がり、軽やかに言った。
「これから、どうするの?」
「夫が待っている。久し振りにデート。凡庸なひとだけど、とても優しい。わたしたち、ほんとに仲がいいの。ひろし君も元気でね」
「うん、じゃあ、また」ぼくは、冷たくなりかける椅子に座ったままそう言った。彼女は会釈をする。ぼくらの住む距離は、ぼくが東京にいるときより近付いた。だが、本来の意味では、そうは変わっていなかった。
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