爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(19)

2012年01月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(19)

 子どもが学校で演劇をする。学校の行事の一環として。広美は日常では着ない衣装にくるまれ、舞台に立っている。彼女はその前に家でも練習をしていた。雪代が相手になって、セリフを覚えたり、身体をどのように動かせばよいのかなど、それらの一連の稽古をいっしょに励んでいた。ぼくは感動を存分に得たいため、途中経過をあまり見ないようにしていたが、それでも、その努力は自然と理解できた。その後、きょうの彼女がいた。

 時間としたら、20分にも満たない出番だった。大きなミスもなく、役割をやり遂げる。ぼくは、自分のことのように誇らしく思っている。となりで雪代は思い余ったらしく泣いていた。

 別のクラスには甥がいた。彼のクラスはある曲を歌う。ぼくはその曲を裕紀がステレオから流していたことを思い出す。どこか、実家の物置にでもそのCDはまだあるはずだったが、それより、ぼくの記憶にそれはきちんと残っていた。整理された箱の中身にでもあるように。彼女はある日、鼻唄を歌っていた。それと同じ曲を、いま、多くの小学生が声を合わせ熱唱していた。彼女にもそんな機会が訪れてもよかったのにと思っている。ここに座って自分の好きな曲を、自分の好きな子が歌う。ぼくのこころには、彼女がこうした場合にどう考えるのだろうという入り口があった。それは、出口かもしれなかった。それを通してぼくの感情は行き来した。

「きょう、どうだった? わたし」と、その日の夕飯時に広美が訊ねる。ぼくは、あれから仕事に戻りハードな一日を過ごしていた。だが、その感激を忘れることはなかった。
「とても、輝いていたよ」
「ひろし君も同じようなことやった?」広美は好奇心にあふれた目で訊く。
「したと思うけど、もう何も覚えていない。その他大勢みたいなものだったからね」
「淋しいね」

「淋しいな。それをずっと覚えておけるといいんだけどね」ぼくは忘れてしまったリストを作ろうとするが、忘れてしまっているため、そのような作業は不可能だった。反対に、忘れたかったことや、忘れられずにいる些事を思い出している。それは失敗という大まかなくくりのなかにいて、成功というものから程遠い事実を知る。うまく行ったことは当然、忘れたくもなかったが、記憶から薄らいでいく。失敗は痕跡としてきちんと残っているようだ。

「ママは、やった?」
「やったよ。主役。緊張して喉ばかり渇いたことを思い出す」
「そうなんだ、凄いね」
「雪代はずっときれいだったから」

「写真で知ってる」仲間はずれにならないように広美は直ぐに口を挟んだ。彼女は、写真でいろいろなことを理解する。ぼくの若い頃の写真も雪代はずっと所蔵していて、それを広美は見て育った。父親は若くして亡くなり、残されていた写真の量は、ぼくと同程度だった。雪代が娘に父親の話をする際、彼女が頭に浮かべる人物は写真で見たふたりの混合体であるらしいことを、雪代はある日、気付く。でも、今更写真を隠したり処分するわけにもいかないので、さらにそれに困る夫も当然いないので、それがそのまま継続した。大人になるにつれ、その区別がつくようになったが、最初に与えられたぬいぐるみに子どもが愛着をもつように、ぼくの写真も同じ立場をもったらしい。「わたしも、ママみたいになれるかな?」

「なれると思うけど、自分らしさというのがいちばん大事だよ。ほかの誰でもない自分」ぼくは、自分の信念のあるがままのことを言う。

 広美はしずかにご飯を噛んでいる。自分の個と仲間との隔たりを考えているような表情だった。ぼくは、いままで出会ってきたなかで自分らしさを思う存分に発揮した幾人かの顔を思い出している。ユーモアで仲間を笑いの渦にいれてくれた先輩の上田さん。彼の部下でしっかりものの笠原さん。そして、優しさを体現し続けた裕紀。ぼくには他の人から見て、どんな個性が内在されていたのか少しだけ考えてみた。でも、自分の側からのぞくと、よく分からないのも本当のことだ。
「ごちそうさま、ちょっと勉強する」と言って、広美はテーブルを離れた。

「前に、あんなこと言ったっけ?」扉が閉まり、隣室に消えた広美にきこえないようにぼくは雪代に話しかけた。
「いいえ、驚いた。顔には出さなかったけど」
「今度は、急に心配になるね。そんなに、詰め込むことないよ、とか言いたい」
「そのうち」
「なんかご褒美をあげたくなる」
「もう少ししたら・・・」

 もう少ししたら、あげるのか、それとも、あげないのか結論を雪代は付け加えなかった。ぼくは、どこか海にでも行こうと考えている。子どもはやはり青空のしたではしゃぐものだ。大声を発して、夜はぐっすりと眠るのだ。ぼくは途中から子育てに加わったため、一貫した考えを有していないらしく、ただ、漠然と思いつくままの考えを頭に浮かべては消した。それでも、成功とか失敗とかは別にして、ここ数日の彼女の努力だけは忘れないようにしようと決意していた。