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壊れゆくブレイン(27)

2012年01月27日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(27)

「お兄ちゃん、ゆり江ちゃんって覚えてる? わたしの同級生だった」
「知ってるよ」
「彼女、裕紀さんとやりとりした手紙を、いまでも、もってるんだって」
「聞いた気がする」
「そう。もっと驚くかと思った」妹は、ぼくが動揺しないことに不服なようだった。
「裕紀の服を処分するとき、彼女にもあげたんだ。ぼくが持ってても仕方がないんでね」
「なんだ。それじゃわたしより親しいみたい」

「だって、ぼくと結婚している間に、彼女たちは連絡も取り合っていたから」
「そうなの。そんな様子をあまり彼女、見せなかったから」
「知らないことも、多くあるよ。でも、なんで、突然?」
「いや、この前、偶然会ってね、妊娠したんだって。もう自分でもできないと思っていたのに」
「ゆり江ちゃんが?」
「そう」
「誰が?」ゲームに夢中だった姪が、話に加わった。
「ママのむかしの同級生」
「35ぐらい?」
「わたしと同じ」数字よりその事実が妹の美紀には重要なようだった。
「彼女もお母さんか」
「なんか、あった?」
「いや、別に」

 ぼくと彼女は一時期、関係をもった。裕紀が亡くなり、ぼくが取り乱している頃にも彼女と関係があった。彼女は自分を3番目の女性と呼んだ。実際のところ、そうだった。雪代がいて、裕紀がいて、彼女がいた。だが、彼女が母になるとは自分でも予想外だった。当然、そういう状態になっても良いわけだが、彼女のもつある面での弱々しさが、その可能性をぼくが打ち消す理由になっていたようだ。
「連絡する?」
「裕紀も喜んだと思うのにな」
「お兄ちゃんは?」

「それは、嬉しいよ」ぼくは実家に来ていた。両親はどこかに出掛けていた。彼らは表面には出さなかったが、ぼくの子どもを見たがった。それは、広美ではなく、新しい存在であるべきだった。だからこのような機会にだけ、妹が踏み込んだ話題をしても、とやかくいう人物がいなかった。「ちゃんと育てられるのかな?」

「それは問題ないでしょう。心配しなくても。わたしでもできたんだから。ね」と娘の頭を撫でた。ぼくは、そのときゆり江の現在を見ているようではなかった。過去のある一日、彼女はいじけて泣いていた。ぼくは、雪代と交際していた。その関係を終えるつもりもなく、またゆり江も壊してまで自分をその地位に置くことに関心もないようだった。しかし、なにがきっかけでそうなったかは覚えていないが、ゆり江はぼくにいらだっていた。それをぼくは弱いとも思い、またたまらなく愛着をもったのだった。そういう振る舞いを雪代は一切しなかった。自分がほしいと思うものを整理して手に入れた。ゆり江は、そういう過程を飛び越え、もちろんぼくにほとんどの責任があるわけなのだが、癇癪をおこしていた。その幼かった女性が母になる。

「お兄ちゃん、もうひとり欲しい?」
「いらないよ」
「何で、そんなにきっぱりと・・・」
「裕紀に、その立場を与えなかったことで、彼女は苦しんでいたのかもしれない。それをいまになって、自分だけが恵まれた環境でのほほんとしていられない」
「それは、自分を責めすぎじゃない」
「このぐらいでいいんだよ。ぼくも、子どものままでずっといたいしね」
「でも、広美ちゃんも直ぐに大きくなっちゃうよ。そうなったら、淋しいでしょう」
「いっしょに遊ぶ。飲みにいったり、デートに付き添ったり」
「最低な人間」
「嘘だよ。お、帰ってきた」

 妹の夫である山下が姿を見せた。今日はぼくと妹の実家でいっしょに語り合う予定だった。彼はいまでもラグビーのコーチをしているため身体の筋肉に張りがのこっていた。それに引き換え自分の腕や足は当時より細まっていった。日々の見えざる繰り返しによって体型を維持し、洗練された作戦も考えるようになっている。ぼくと彼の間の知識や経験にはずれが生じ、誰かを信頼して成長させる能力も彼のほうがもっていた。ぼくは、何人かの女性を裏切り、ひとりの人間との関係も死によって永久に絶たれていた。それである面ではうらやましく、またそれと同じく自分が得た傷をもっていないことでさげすむような気持ちもあった。

「お前がくると、美紀がはしゃいでいたころを思い出す」
「もうずっと遠い昔の話」
「広美もそうなるのかな?」
「きょう、あの子は?」山下が部屋を見回す。
「前の父の親と会っている。たまに成長を見せるよう約束した」
「肩身がせまい?」
「ぜんぜん。オレもほんとは島本さんを他人としてずっと尊敬しておけばよかったと思っている」
「オレなんかそうですよ」山下はのん気に言う。
「女性が介在するとね。憎んだり、うらんだりすることを覚えた」
「いまでも?」
「死者にはまったく罪がない。裕紀を思い出すのと同じだよ。できれば、全員と会いたいと思っているぐらいだよ。島本さんとも」
「なにを話す?」妹がテーブルを片付けながら言う。
「雪代もぼくも幸せだけど、もしかしたら、違う立場になっていたかもしれない。ぼくが事故に遭い、雪代が病気になってたかもしれない。ただ、紙一重で運命が待ち受けていたぐらい」
 すると、両親が帰ってきた。父は、ぼくより山下を我が子と思っているような節があった。そこには長年の努力といたわりがあったのだろうが、自分は誰に対してそのような振る舞いができるのかを考えていた。

「デパートに寄ってたら、遅くなっちゃった。その代わり、おいしそうなお惣菜をたくさん仕入れた」と母が喜ばしげに言う。父は冷蔵庫からビールを取り出し、瓶の王冠を開けた。ぼくと山下はそれを奪い合うようにして結局は山下の手におさまり、彼が父のグラスに注いだ。


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