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壊れゆくブレイン(25)

2012年01月24日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(25)

 娘は夏休みの宿題と格闘している。

 自分はそのような日々があることをすっかり忘れていた。自分としての行為は15年も前に過ぎ、ほかのひとがいまだにそのことに苦しめられることを忘れていた。雪代は仕事で家にいなかった。ぼくは、広美のとなりにすわり、いくつか訊かれたことを丁寧に教えた。

「間違ってても、許してね。勉強をするってことからだいぶ、離れてしまっているんだから」と頼りない発言を連呼した。
「いいよ。まゆみちゃんが最後に確認してくれるから」
「間違いが露呈するのはいやだな」
「間違わないと、ただしいことも分からない、といつもママが言うじゃん」

 ぼくらは、雪代の前で同じ立場にいるらしかった。ぼくはコーヒーを入れ、広美には、冷蔵庫からジュースを取り出してコップに注いだ。ずっと問いを投げかけられるわけでもないので、ぼくは読みかけの本を開いた。そのことに没頭すると質問がきて、その問題に頭を使い出すと、本の中味の印象が薄れていった。それを何度か繰り返し、その交互に頭を引きずりまわされる感覚を、結局のところ楽しんだ。自分の脳の領域で別のところを使っているのだろうか。そんな思いを忘れさせるように、また質問がきた。

「これ、やったの覚えてるな」
「さっきから、そればっかり言ってるよ」
「うん。ちょっと貸して」ぼくは、その問題を借りたノートに書き写し、集中しようとした。「取り敢えず、次の問題にいっといて」
「これが、最後だよ」
「じゃあ、次の教科」
「は~い」と間延びした返事をして、自分の部屋に別の教材を取りに立った。ぼくは、ノートを凝視する。途中経過を鉛筆で余白に書き、納得がいかないので、もう一度検算した。これが、正解のようだった。

「できた?」
「多分、これ」ぼくはノートを指し示し、かいつまんで説明した。
「まゆみちゃんは、もっと違うところから答えを引っ張ってきたと思ったけど」
「そう。でも、答えは、これでも出るんだから」と、不確かさを正当化するようにぼくは言った。「それが、終わったら、ちょっと散歩するか? 疲れたもんね」疲れたのは、自分であったようだ。ぼくは読みかけの本にしおりを挟み、つかったグラスを洗って裏返しに置いた。テーブルには遅くなる雪代のかわりに買っておく必要があるリストのメモがあった。その頼まれた食材を仕入れるためにふたりでスーパーにむかった。ぼくがカゴを持ち、そのなかに広美がメモを片手に棚から品物を入れた。それも終わると店頭でアイスを買い、ベンチにすわって食べた。

「子どものころって、夏が終わるのが無性に淋しかった」
「なんで?」広美は、食べることに夢中のようだった。
「なんかの喪失感なんだろうね。あの日々は、もう取り返せないのだ、という不安だよ。感じない?」
「ちょっと、感じる」ぼくがどのくらい食べたかを確認するように広美はこちらに振り向く。「でも、思い出せたりするんでしょう?」
「するよ。でも半ズボンで駆けずり回ったりは、もう、できない」
「わたし、いまでも、しないよ」
「これが象徴ということ。実際のことより、なんとなくのイメージだよ」
「食べ終わった」

「帰るか。あと、なにが残ってるの?」ぼくはとがらせた指をつかい空中で書くしぐさをする。
「本の感想」
「もう買ってある?」
「うん」
「読み終わってる?」
「途中まで」
「それだけ?」
「それだけ」
「はかどってるね。楽勝だよ」
「去年は、ママしか面倒みてくれなかったけど、今年はいろんなひとが応援してくれたから」
「良かったね」そういいながら、ぼくは彼女のこころに自分がいる安堵と、また、宿題に追われる立場にいない安堵の気持ちが折り重なっていた。

 夜になる。ご飯が炊けるにおいがした頃、雪代が帰ってきた。
「疲れた。広美ちゃん、お勉強、すすんだ」テレビを見ている後ろ姿に言葉をかけた。
「うん。手伝ってもらった」
「もう、全部、終わったの? すごい」
「まだだよ。読書」
「そうね。それは助けることはできないかもね。あとは、自分で。ご飯にするから、広美も手伝って」

「はい」彼女は、テレビに背を向け、こちらのテーブルにやってきた。引き出しから箸や皿を出し、テーブルを拭いた。ぼくは自分がいなかったときのふたりを想像してみる。それは完結された世界で、相互依存の見本のようなかたちをとった。
「ひろし君、ビールとる?」広美が母の口調を真似て言う。「冷えてるよ」

「ありがとう」ぼくは読みかけの本にまたしおりを挟む。それを棚のうえに載せ、グラスとビールを受け取った。ぼくらがふたりの生活に持ち込んだものは、このようなものだけらしい。世話がかかる生き物。ぼくは無言で缶を開けた。それから、女性ふたりは友人のようにとりとめもない話をした。テレビのニュースでは陰惨な話題が報道されていたが、ふたりは気付かないまま話し続けていた。ぼくはビールを飲み、雪代のつくった料理を食べた。これが孤独ではないという証拠の一日のようだった。ぼくは、宿題を娘に教え、家族とともに食卓につく。数杯のビールで酔い、夏が終わる予感の風が窓から侵入し、食べ終わって床に横たわるぼくの肌のうえを通過していった。娘は風呂からあがり、歌番組をみていっしょに歌い出した。ぼくの妹も同じようにしていたのをまどろみながら思い出す。テレビを見ると歌詞など画面にうつっていなかったが、彼女は同じようにうたっていた。


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