爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(24)

2012年01月23日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(24)

 海での最終日に、ぼくと雪代はまた朝の海岸を散歩をしてエネルギーをその地からもらった。雪代の表情は穏やかなものに変わり、ぼくのそれからも同じように険しさが消えた。でも、それも今日までの話だ。

 朝ごはんにまゆみと広美はたくさん食べた。ぼくらはそこそこに切り上げ、外のテーブルでコーヒーを飲んだ。二人の水着は昨夜のうちに洗われ、いまは風になびかれ乾いているはずだ。それは新たに使われることはなくバックにしまわれる。チェックアウトをそれからしたが、いったんそのまま荷物をフロントで預かってもらって外にでた。その日は昨日とちがって雲の量が多めだった。そのため、雪代のサングラスは胸のポケットにしまわれていた。

 商店街を歩き、まゆみと広美は小物を買った。そして、家にいる彼女の両親のためまゆみはお土産も買った。ぼくは長い間、彼ら3人と交友をもってきた。そのこと自体に驚きがあった。バイトを始めてから20年ぐらいは時間が経過していた。もちろん、その間は密に連絡を取り合う機会も減っていた時期もあったが、いまは、こうしてその娘といっしょに旅行にきている。まるで、家族のようだった。

 昼になり、そのそばのレストランで最後の食事をとった。ぼくは海鮮が入り混じった定食に生ビールを飲んだ。世界はぼくに対してほがらかで、何かを奪おうと身をかまえているようではなかった。かえって、何ものかをしみじみと与えようと待ち兼ねているようであった。その漠然とした未来への甘い予感を得られたことが、この休日の最大の実りだった。

 ぼくらはホテルにまた引き返しバックを受け取った。フロントの男性に丁重に挨拶されふたたび外にでた。その頃になると、雲の隙間も減り太陽がまぶしいぐらいになっていた。それで、また雪代は黒いもので瞳をかくした。

 4枚の切符をぼくはバックのポケットから取り出し、それぞれに手渡した。終点の駅には電車がなく、間もなく向かい側から電車が到着した。これから海を楽しむひとたちの高揚した気持ちが乗客とともに降り立ったようだった。ぼくらは反対にその扉に向かい、空いた4人がけの座席にすわった。ぼくは缶ビールとジュースを窓際に置き、自分の分の缶のフタをあけた。小さな破裂音がして少し泡が顔をのぞかせた。この数日でまゆみと広美はより親密になり、ふたりの日に焼けた肌の色の照合が、それを証明しているようだった。雪代はそれを確かめるように広美の肌にさわった。

「痛いな、ママ」と、彼女はちょっとふくれっ面をする。
「帰ってから冷やさないと」
「大丈夫だよ」
「そう」そこで、忘れていたかのようにサングラスを外す。「まゆみちゃんは冷やしてね。そうだ、これあげる。うちの店にも置いてるんだけど、なんにでも利くクリーム」と言ってカバンから小さなチューブを出した。そのフタを開け、中からクリームを取り出し、自分の手の甲につけてから、渡した。それを見て、まゆみも同じような一連の過程を真似して、好意的な感想をいった。
「なくなっても、欲しかったら、言ってね」笑みを浮かべて雪代は満足気でもあった。

 彼女は、大分前に東京から戻り、地元で店を開業した。資金は自分でつくった。そこには懸命さなど感じられなかったが、着実にすすもうとする決意と実行力があった。はじめは洋服だけだったが、それからも事業は拡張して、美容院もそれに付属するようになった。彼女には経営の才もあったらしく、大幅に収益が減るという経験もしなかったようだ。そのため、子どもとの時間が少なくなったきらいもあったが、現在のどの両親も一様に似たような環境にいるのかもしれなかった。

 電車はゆっくりとすすみだし次第にスピードをあげた。カーブでは車体は左右に揺れ、段々と海岸線から遠退いていった。潮のにおいも感じられなくなってくると、そとの景色も住宅地の様相にかわっていった。ぼくらが日常に戻るスピードはこのように早いものだった。おしゃべりしていた向かいのふたりの言葉数は減っていき、その代わりに首が前後にふれた。それが過ぎると、お互いのしっくりいく姿を見つけたのか複雑に肩や首がおさまった体勢で眠りはじめた。

「寝ちゃった」と、雪代は感想のように言う。「ひろし君も眠れば」
「疲れてない」
「わたしも眠れそうにない。ビール飲んでもいい?」
「もう、あまり冷えてないよ」彼女はひとくち飲み、その缶の端を眺めていた。
「広美も大人になったら、こうしてよその家族のひとと旅行できるようになるのかな」
「なるだろう。直ぐだよ」
「誰かの面倒を無心に見て上げられるほど、優しい子になるのかな」
「なるよ。しっかりと育てれば」
「助けてくれる?」
「もちろん」
「叱ってもくれる?」
「うん、するよ」
「でも、ひろし君は女性全般に甘い」言ってしまった言葉を後悔するように雪代はまた缶で唇を閉じた。電車は微妙に彼女の身体を揺らせた。ぼくは向かいの死んだように眠っているふたりを見比べ、自分が甘いのではなく、女性がずっとぼくに対して甘かったのだと否定の言葉を探して考えていた。